1.政権交代論

野党の2択(⑨)~憲政本党大石の変化、再編の芽~

衆院の2大政党の一方でありながら、立憲政友会と比べて影響力がずっと小さかった憲政本党は、自らの進路について揺れていた。立憲政友会と共に薩長閥から政権を奪取するか、少なくとも共に、薩長閥中心の内閣に有利な形で割って入るつもりが、薩長閥(桂太郎)との取引きによって、薩長閥の協力を得る、立憲政友会の単独政権に近いものができたのだから、党内で不満が高まらない方がおかしい。孤立した、第1党よりもずっと議席の少ない第2党では目も当てられない。

同党の大石正巳の1906年8月8日付の日記には次のようにある。

官民を合同し擧國一致を計りて、官僚派に非ず政黨派に非る混合政府を作りて時務の衝に當ること一なり。極力政黨内閣説を鼓吹して時弊を通論し、一方に國民を教育し他方に政府を不人氣に陥れ、萬一を僥倖して批判者の位置に立つこと二なり

其前者を採らんと欲せば第一元老と融和し政府と同盟して施政を援助せざるべからず。勿論一時世間の攻撃を受け黨内の紛擾を起すの覺悟せざるべからず。

其後者を採らんと欲せば一旦黨議を確定して新旗色を發表し、更に數十年間社會の潮流に逆行するの態度を決せざるべからず。資金を作りて維持の方法を立て、放談、演説を各地方に試み、中央には之が爲機關新聞を設くるの必要あるべし。

「一」がとにかく薩長閥中心の内閣に食い込んで与党になる路線、後の改革派の路線である。「二」が政府を批判する野党として支持を広げる路線である。この2つの選択肢は、今もなお野党を迷わせ、野党内の遠心力を強めている。ただしこの当時、後者は今とは違う理由で難しかった。仮に第1党になっても(それももちろん難しいことであったが)、元老に総理大臣に推薦してもらえなければ、基本的には政権を得られないのが戦前であった。薩長閥と敵対する政権でない限り、反内閣=反薩長閥となってしまう。第1次西園寺内閣は憲政本党にとっては幸いなことに、山県-桂系との溝を広げていく。しかし薩長閥のトップである元老の支持なしに政権は得られないのだから、薩長閥と対立する内閣というのは存在し難い。よって、対決型の野党=薩長閥に嫌われて政権を得られない。ということになる。薩長閥をてこずらせて政権を手放させるという手法も、自由党系(立憲政友会)が協力してくれなければ難しかった。自由党抜きの場合、憲政本党だけで過半数を上回るという、非常に実現し難い勝利を得てやっとできることであったし、それでも、その次の総選挙で過半数を割ったり、その前に切り崩されてしまうなどすれば終わりであった。だから少なくとも、協力してくれる党派と合わせて、過半数を割りそうにないほど大きく大きく上回っている必要があったと言える。それは不可能に近かった。

大石はさらに次のように記している。

今日の儘に進まず退かず、此二途の一を選ばずして優柔不斷の境遇に推移せば、黨内の動揺止む時なく、勢力は都鄙に滅亡に歸するの運命を免れざるべし。

決めるのも地獄、決めないのも地獄ではあると思うし、戦略上、様子を見るべき時もあるが、路線はもちろん決めるべきものである。その場合は「動揺」の一部が反発となる。それをいかにうまく抑えるかということが課題となるが、不利な立場ではどちらの道を選んでも成果物はなかなか期待できない。憲政本党は苦しい決断を迫られていた。

ただし、上述したことの裏返しとなるが、当時は戦後と違い、元老の推薦さえ得られれば、政権を得られた(元老の中に強硬に反対し、かつ自分が総理になっても良いとする者がいる場合は別だが)。今は権力とはすなわち自民党であるから、すぐに与党、(準)与党になりたいという野党は、自民党という政党に寄らなければならず、これは自民党に受け入れられる場合であってもなお、自民党のライバルである第2党にとっては特に、ハードルが高い。

この当時の薩長閥と憲政本党の関係が良くなかったとは言っても、いやだからこそ憲政党内に、薩長閥との関係を良くしようとする勢力と、2派閥ができやすい状況であった。今以上に、1党優位制下の第2党には、遠心力が働いていたということである。ましてや、憲政本党にはもともと主流派(≒立憲改進党出身者)と反主流派の対立があった。憲政本党は、政党中心の内閣であることから、そして、主流派が採った路線が招いた結果でもあったことから、立憲政友会中心の、第1次西園寺内閣を認めないわけにはいかなかった。さかのぼって、大石正巳は同内閣の成立が決まった頃、1905年12月22日付の日記に、下のように記している(『大石正巳日記』56~57頁)。戦時が終わり、薩長閥政府の時代が終われば、2大政党は連携するのではなく、交互に政権を担うべきだという、政党内閣への移行、2大政党制を主張したものでもあるから、全て引用しておきたい。「進歩党」とあるのは、憲政本党のことである。

戦時中擧國一致の態度を採るが爲に政進兩黨の提携を要したるなり。少數各派の騒擾紛雑を制するが爲に、又は壓力を政府に加へんが爲に兩黨の協商を必要なりとせり。猶現政府の下に議會を開き責任問題を提起せんには、一層政進の同盟に依らざるべからず。此れ今日迄兩黨の関係を密接ならしめたる所以なり。

内閣辭職して政友會後繼者となるは憲政上當提携の必要も茲に終を告ぐるの時なり。政進兩黨は爾後朝野に分れて政局を兩面より監督料理するの位置に立たざるべからず。帝國の政界に他の政黨なき今日に於て、政進兩黨聯合して内閣を組織せば、政權の授受を政黨間に爲す可からずして政黨と閥族との更迭を行はざるべからず。苟も憲政の發達を助長せんと欲せば不完全ながらも兩黨を朝野に分立せしめざるべからず。

行政立法の兩權に分立せしめ當局者と監督在野黨の均衡を保持し、集權専制に流れしめざるものは憲政政治の妙諦なり、政治改善に必要なる配置なり。今若し兩黨合同して内閣を作り議院を操縦せば、却て跋扈跳梁の弊に陥り豫算の膨張を抑制する者なきに至らん。

唯今日政友會の内閣を組織するに當り遺憾を感ずるの点は、援助を閥族に請はんが爲に其系統に屬する人間の入閣を求むる一なり。陸海軍の鼻息を伺ひ閥族の手を通して此兩省の大臣を得んとする二なり。貴族院の操縦に窮して元老の後援を藉らんとし、爲に同院中より閣員を入れんとする三なり。憲政の發達上よりみれば此三者に就て援助を閥族に藉らざるに在り。陸海軍兩省に文官を採用すべし。貴族院を度外に置く可し。閥族派を其儘に放置す可し。夫れ斯の如くせば陸海軍に政治家を入る丶を得て、其跋扈を抑ゆると同時に、兩省の經営に秩序的進歩を見る可し。貴院中に團体的運動を起して支離滅裂の行動を止む可し。閥族派は超然を止めて政黨の加入するに至らん。此れ帝國政界の一大進歩と請ふ可し。

立憲政友会に事実上切られた後に書かれたものである。2大政党の連立政権を否定しているのは、強がりと、政党中心の内閣が定着することへの、期待があったのだと考えられる。なお、自由党系と改進党系が共に与党になると、予算の膨張を招くという大石の見方から、筆者は、自由党系と改進党系の間の、支持盤拡大のためのサービス競争が起こるということも連想させられる。改進党系は消極財政志向であったが、反主流派の力が強まれば変化し得たし(実際に変化する)、立憲政友会の結成などで、自由党系に対する警戒心は強まっていた。立憲政友会が利益誘導を試みれば、同じ方法で対抗しようとしても、不思議ではない。大石は、政党間の政権交代があるような、議院内閣制を明確に志向し、第1次西園寺内閣に、薩長閥の影響力を排除してもらいたいと考えるようになったのだろう。この考えは、立憲改進党、立憲革新党元来のものと矛盾しない。憲政本党の犬養や、同志研究会系の多くも、同様であったと考えられる。軍部大臣を武官(当時はさらに現役限定)ではなく文官にするという考えと共に(註1)、存在意義をなくしたり、弱体化したりした薩長閥を、2大政党が吸収するというビジョンは、大石が進歩的であったことを示していると、捉えることもできる。犬養や新民党(同志研究会系)が、薩長閥が完全に倒れるまで戦おうと思っていたのだとすれば、それには急進的な面があると同時に、従来の対立にとらわれ続けるという面もあるのだ。ただし大石の、薩長閥が弱くなって2大政党に合流するというビジョンは、薩長閥と自由党系が政権のやり取りを始めたと言える状況下、楽観的過ぎたとも言える。大石が右に舵を切り、薩長閥に寄って政権を得ることを目指さざるを得なくなることが、それを示している(註2)。さらにその後の歴史を見れば、確かに大石が考えた方向に進んだという面はある。だがそれは、なし崩し的に、または偶然そうなったのであり、形としては、政界縦断は薩長閥を立てるものであった(立憲政友会は伊藤博文、立憲同志会は桂太郎を党首としたし―桂は正式な結成を前に死去―、第1次西園寺内閣も、政党内閣を名乗ることを許されなかった)。薩長閥の下につくことになるというリスクもあったのだ(註3)。それに、薩長閥が完全に2大政党に吸収されたわけではない。2大政党は結局、薩長閥の流れを汲む軍部の前に、屈することになるのである。政党内閣の時代が終わるどころか、議会の権限を使って政府・軍部をコントロールすることさえ、事実上放棄されるに至るのだ。

話を戻す。大石は立憲政友会に代わって政権を担うことができる政党に、憲政本党をしようとした。このことは、彼の12月24日の日記からも分かる。そこには次のようにある(61頁)。

衆議院に多數を有する政黨の首領は既に内閣の組織に着手せり、此れ立憲政治國に於て當然の順序にして憲政の精神に叶へるものなり。先進文明國の例證を見て理想を畫く人より之を見れば、政權授受の間に於ける手續上に關して避難ありと雖も、今日過渡の時代に於ては実際不如意の点も多かるべしと諭すべきなり。望むらくは政友内閣をして甚しき失敗に陥らず、政黨内閣の信用を國民に得せしむるは將來の爲に必要なり。

英國保守黨内閣久しく活氣を失ひ非難の聲國内に高く、人民は政府を更迭して内外の施政を擧げんことを渇望したるも、自由黨微力にして新内閣を造るの準備無きが爲、英國は數年の間輿論の欲せざる政府を戴くの奇觀を呈したるなり。政友會は朝に立て實政の局に當るも永久無限なること克はず。假令失敗なくも時久しきに渉れば希望倦み來て更迭せざるべからず。吾黨は徐に將來に對するの準備を整へ、國民をして英國の保守黨政府に對するが如き遺憾勿らしめざるべからず。然れ共今や戰後經營多端の際、内外重要事件多々あるの際なれば、主義の許す限り政友内閣を援助して國勢を擧げしむるの雅量ありたきものなり。

大石は、当時を議院内閣制への過渡期であると捉え、第1次西園寺内閣の成功が、政党内閣の定着に重要だと考えていた。「主義の許す限り政友閣を援助」しようというのはそのためでもあるが、このような第2党の姿勢は、議院内閣制を安定させるための基本だ。議院内閣制となった今の日本人がこれに飢えなければならないのは、1党優位の傾向が強すぎるからだ。ただ、政友会内閣に失敗がなくても、長期間続けば政権交代が望まれるようになるというのは、楽観的過ぎるように思われる。ともかく、背景は異なるが、今でもなお問題にされる、何でも反対の野党第1党ではないものを、大石は目指したのである。そしてイギリスの野党第1党を例に出し、支持される野党第1党に憲政本党がなって、次の政権を担うという考えを記したのだと言える。ただし、当時は総理大臣を決めるのは薩長閥の要人であり、党勢拡大のために有権者の支持は重要であったが、薩長閥の要人達の支持こそ、得る必要があった。それ以外の道はといえば、薩長閥を徹底的に追い詰めて(できるものなら)、政権を強引に譲渡させるという、混乱をもたらすリスクが高い、従来の民党的な路線しかなかったのである。政友会内閣が行き詰まっただけで、薩長閥が憲政本党内閣の成立を許すということは、考えにくかった。これまで述べてきた同党の野党色の強さ、議席数の少なさはもちろん、薩長閥自体が政権を担ってきており、また担おうとしていたからだ。3者で順に政権を担うというのは、政党内閣の定着に抵抗する薩長閥にとって、あまりに不利益であった。だから当時の大石は、2つの選択肢について、迷っている段階であったのだと考えられる。大石は犬養と共に民党的な路線を採っていたから、迷うということは、自由党系のように、薩長閥に接近する路線に、少しずつ変わろうとしていたということである。大石は、薩長閥等の勢力も政党に吸収されるという理想像を、上に見たように描いていた。しかしそれが短期間で達成されることは考えにくかったはずだ。そうであれば、薩長閥が衰えるのを待たずに憲政本党も政権を得るようになって、政権交代のある政党政治へ進む方が速いと見ることもできる。少なくとも、議席数が少ない→薩長閥に重要視されない→野党として総選挙に臨むのでは議席数が増えない→薩長閥に重視されない→・・・という、負のスパイラルを脱することはできる。そのためには、議席数の少なさと、それまでの民党的な姿勢を問題視されないほど、薩長閥の信頼を得る必要があった(すべてでなくても、その中心であった山県の信頼を)。これを「難しい」、「したくない」と言って、長期間待っているだけでは、憲政本党はさらに衰える。もし、薩長閥と立憲政友会が、上層部をほとんど取りこぼすことなく一つの政党になれば、それに対抗する憲政本党も注目されるであろう(憲政本党が非常に不利ではあるが)。しかし、立憲政友会が薩長閥のライバルとして、取引きをするという構図になる可能性の方が、ずっと高かった(長期的に見れば、ほぼずっとそのような構図であった)、憲政本党は埋没していたと考えられる。薩長閥の新党と、立憲政友会の2大政党制に進む可能性すら、あった(事実桂は、政党の結成を考えるようになるし、薩長閥と立憲政友会がずっと交互に政権を担い続ければ、立憲政友会も衆議院以外の機関への影響力を強めるし、薩長閥も事実上の政党のようなものになっていくしかなかったと想像される)。

大石は12月20日の日記で、多数の議席を持っていることと共に、現政府(第1次桂内閣)に政友がいること、態度が温和であることを、立憲政友会が政権を得た理由に挙げている(『大石正巳日記』53頁)。この時はまだ、これらを肯定しているわけではないが、肯定すること、イコール自由党系の真似をする→改革派になる、ということである。大石は改革派に転じ、その中心人物となった。犬養毅ら主流派(→非改革派)が、既定路線と整合性の高い野党的な立場、民党的な主張を貫いたのに対し、改革派は現実的な姿勢を見せ、積極財政への転換を志向した。当時置かれた状況下、憲政本党の実権を握っていた犬養と大石が対立関係になったことで、憲政本党内の2派の力関係は互角となり、党内の亀裂は深まった。

当時の大石の日記には、まだ注目すべき記述がある。それは12月20日付の、以下(53頁)の、第二である。

政友會が内閣を組織するに當り困難を感ずべき点は多々あり。第一、領袖黨員間の交情未だ厚からずして號令行はれず、第二、議院に多數を制せんが爲に中立派を操縦せざる可らず、第三、貴族院の多數を獲んが爲には奈何なる人物を捉ふ可き乎、第四、閥族の援助を得んが爲には奈何に閣員を配置すべき乎、此等は最も苦心する所なるべし。

当時の大政党の限界について記されている。第三はこれまでに見た、薩長閥との関係である。第四の貴族院についても、薩長閥と関係が深く、第三と似たところがある。しかし大石が問題としているのは、立憲政友会の同院への浸透である。これは薩長閥と対立する時までに、ある程度進めておくしかなかった(多数派にほど遠くはあったが、そのための基礎としての成果は上がる)。第一の、党内のまとまりについては、立憲政友会は憲政本党よりだいぶ良かったはずだ。第二の、「中立派」という言葉は、当時の用い方では、2大政党以外の勢力を指すのだと考えられる。これに関しては、立憲政友会はかなり成功した。大同倶楽部が離反しても、これを切り崩し、衆議院の過半数へと、どんどん迫った(第10回総選挙の前に、欠員を除いて13議席にまで迫った。ただし当時無所属は10名あまりであったし、他の会派から少しは協力者を得る必要があった)。そのために、憲政本党の立場はますます弱くなったのである。このことは、大同倶楽部の議席数が、離脱者の続出により、憲政本党の脅威ではなくなりつつあったことと合わせて、大同倶楽部を毛嫌いしていた大石に、同派との連携を決意させたのだと考えられる。大石は大同倶楽部との連携についても日記に記しているが、これについては本章1列の関係(⑧⑨⑩)で見る。

最後に、12月11日(34頁)を見る。

貴衆兩院に席を有せずと雖も世間に於て適才者と公評せらるべき名士を抜て、入閣せしむるの交渉を爲すべし。此れ国民一般の同情を内閣に得る而巳ならず、今日の場合内外多端、重要なる戰後の經營あるに當って大に達識敏腕を要するものあればなり。特に經濟的問題は續出せんとするが故に、實業者間に聲望あり才識あるの士を採用するは目下の必要なり。

元老は暫く置き、之を代表すべき勢力家を抱合するの用心勿るべからず。元老の勢力今猶舊の如し。之を度外にするの内閣は其壽命極めて短なるべし。事業の多き、擧國一致を要する今日の際に在ては政府の生命を永からしめざるべからず。

一旦新政府の成立するや重要なる政策として此内閣の施行すべき問題は多々あるべしと雖も、戰後經營以外目下に斷行せざるべからざる二、三事件を擧ぐれば行政改革を根本的に爲さざるべからず。文官任用令を改廢して人材登用の門を開く可し。警視廳を廢止す可し。臺灣、朝鮮、遼東に派遣すべき總督領監を選むに文武官の區別制限を置くべからず。

実業家の入閣を唱えているところに、筆者は、実業派と既成政党との協力の可能性を見る。当時はもう、衆議院に実業家中心の会派は存在していなかったし、その前後に存在していた時も(甲辰倶楽部と戊申倶楽部)、そこに大石が記した、「實業者間に聲望あり才識あるの士」がいたと言えるのか、分からない。現在でも広く知られているような大物実業家は、そもそも、衆議院議員や政党の党員になろうという考えを持っていなかったと見られる。しかしこれから見ていく時期は、商工会議所において、中小の商工業者の声が強くなった時期であり(宮本又久「明治政治史と商業会議所」)、彼らの期待を受けて衆議院に戻るのが、元立憲改進党の中野武営である。そのような議員達と、大石ら憲政本党の改革派が協力する未来が、この日記の記述に表れている。大石の現実的な思考と進歩的な思考も、それぞれ立憲同志会の結成、結成後の同党の政策を暗示しているようで興味深い。

註1:貴族院を度外に置くというのも進歩的ではあるが、同院での予算、法案の可決を、大石はどうやって実現させようと考えていたのであろうか。考えられるのは、イギリスのように、総選挙で示された民意(与党の勝利)、世論を背景に、協力せざるを得なくなるようにすること、それを慣例とする(できれば明確に制度化する)ということだ。

註2:薩長閥にすり寄って強くなり、それから薩長閥を吸収するというのも分かるが、弱い立場であれば、吸収される可能性の方が高い。それでも薩長閥が政党化すれば良いのかも知れないが。

註3:リスクについて具体例を挙げれば、薩長閥と共に政権を担い、多くの所属議員が与党のままでいたいと思うようになり、党が薩長閥と手を切ろうとしても、党が大分裂に至るということが起こり得る。自党中心の政権を誕生させてもらった立憲政友会よりも、議席数に起因する限界などからそれが難しい憲政本党の方が、そうなる危険性は高いかった。比較的最近のことだが、2000年、自民党、公明党との連立政権から離脱しようとした自由党において、半数を上回る議員が離党した、という例もある(1党優位の傾向が強い日本において、「連立離脱」という場面自体が非常に珍しいので、この例を、特殊なものだとすることはできない)。