日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論⑯註

補論⑯註

註1:憲政党の『黨報』第二号23~34頁の「總選擧の結果」を見ると、同志倶楽部のメンバー14名のうち、12名が憲政党の候補として第6回総選挙に出馬していることを確認することができる。1898年6月23日付の読売新聞は、憲政党結党式に、同志倶楽部の前代議士11名が参加したとしており、結党式には全議員が参加したわけではないから、憲政党の党報は正しいとして良いだろう。そうであれば、不参加の衆議院議員は多くて2名、福島県第3区の白石義郎、鹿児島県第4区の柏田盛文である。白石は河野広中と近いはずだから、憲政党に参加した可能性が高い。柏田も第1次大隈内閣で文部次官を務めており、鹿児島政友会の他の議員と同じく参加した可能性が高い。しかしはっきりと確認することができなかったから、ここでは同志倶楽部からの憲政党参加者は、「最低でも12名」とする。なお、1898年7月4日付の東京朝日新聞によれば、旧自由、進歩両党の出身者が門外漢として人事に容易に口を出せない状況下、旧山下倶楽部出身の平岡浩太郎の働きかけで、柏田の文部次官、佐々木の農商務次官への起用などが実現したのだという。

 

註2:同志倶楽部に属していた議員のうち、第6回総選挙において当選した9名は全て憲政党に属していた。そのうちの6名が憲政本党の結成に参加、2名がどちらにも参加せずに無所属となった。自由党系の憲政党に参加したのは、新自由党出身の1名(浜名新平)のみであった。同志研究会は、その流れを汲む又新会の、無名会結成者が離れる前の総議員数44の半数より1名多い、23名が改進党系の憲政本党と合流した(無名会については『キーワードで考える日本政党史』第10章⑩参照)。

 

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