1.政権交代論

補論㉓註

註1 :1898年5月12日付の萬朝報に次のようにある。

山下倶樂部ハ種々なる異分子の結合なれバ、候補者選定に就ても、議論容易に一致せずして、馬越等の井上系等に属する者及び岩崎派の實業家ハ、自由黨よりの交渉に反對し、進歩黨に同意し鳩山を議長に推さんとする傾向あり、

 

註2:例えば1898年5月13日付の読売新聞が、山下倶楽部が各会派との交渉を全て拒否することを議決したと、翌14日付の同紙が、山下倶楽部の総代として降旗元太郎が自由党、進歩党の双方を訪問し、正副議長について希望するところがないために、交渉には応じ難いという回答をしたことを報じている。

 

註3:『帝国議会衆議院議事速記録』一三315~316頁によれば、法案(法案について第2読会を開くこと)は、27対247で否決された。賛成したのは、採決当日48議席であった山下倶楽部では雨森、大三輪、片岡、川眞田、川村、桑原、鈴木、平岡、前川、麦田の10名であった。これに国民協会のうちの14名、自由党のうちの2名、無所属のうちの1名で、計27である。26議席であった国民協会における、賛成者の少なさも目を引く。同会では反対に投じた議員が、9名もいた。

 

註4:伊藤が地価修正派、国民協会、実業家の参加を想定していたことについては、1898年6月19日付の伊藤宛の井上馨書簡(『伊藤博文関係文書』一278~279頁)で確認できる。そこにはつぎのようにある。坂東とは、板東勘五郎である。

一昨日寸時には候得共御内話仕置候通り、且過日来裏面より坂東等地価修正派之意を為相探候処、彼之輩等は好機不可失修正之目的を達し候得は他に政府党と合同する之必要は無之、又各自選挙区之人望にも関係を生し候事故、兎角現今は国民派とも深入り不仕所存に有之候由、唯修正之利益のみ眼中に有之候次第との内心に有之候。又実業者なる社会も岩崎之意向一つに有之候模様に御座候。先夜同人談話尚小生退坐後深く御切入被成候而も、終には不偏不党位迄は明言可仕候得共、彼経歴上は御互に対して寧ろ表面上之交際にて、大隈との関係は数年来之情諠を以纒連し、且進歩徒中尤為働人員等は主として福沢塾出之者多く、また福沢と岩崎之交情は是又数年殆捨万円計りも補助し来りたる関係も有之候由、自然之連結情諠は中々以て一坐之道理又は議論を以て屈服せしむるも、右等数年連続する情諠を一朝にして断絶し正道向ふの勇気は有之間敷候。左すれは実業家なる者并諸銀行会社抔に於ても、岩崎なる財力并日本銀行之勢力を合せたる財勢力を以て右等の諸会社に向ふ時は、彼等衷心には政党方今之弊害を充分覚知候得共、目前金融起業等妨害を生する之想像念に迷惑を生する人情之常にて、迚も実業者之団結は之を望も不可成立は必然に有之候。

 

註5:1893年3月26日付の読売新聞によれば、離党の理由は「國民恊會の運動が最初組織の精神と支吾する處少からず」というものであった。当時は、伊藤系と自由党系の接近が明確になりつつあった頃であった。翌27日付の同紙によると、同派の手段、方法が渡邊の考えと大きく異なっており、西郷従道、品川弥二郎が参加することにも、野党的な立場になることが許されなくなるということなどから反対であり、渡邊は同派結成当時から離脱を考えていた。国民協会が薩長閥寄りの中立というような、中立の色を残す勢力ではないことを見抜けずに結成に参加し、これに気が付いて離脱したということだろうか。談話は全くの嘘ではないのだろうが、渡邊が離脱した時期を見ると、離脱はやはり国民協会と伊藤系の距離の開きが原因であり、伊藤系から何らかの働きかけもあったと想像させられる。『原敬日記』第2巻45頁の、1892年6月25日の記述に、次のようにある。

渡邊洪基國民協會の運動に加はり余に相談ありたるも余は之を斷り、且つ此くの如きものゝ遂に成功せざるものなることを説きたり。

原は陸奥宗光と近かった。その原が渡邊の国民協会参加を止めたのだから、この当時渡邊が、誰かに離脱の働きかけ、アドバイスを受けていたとしても不思議ではない。。