日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論⑰註-1

補論⑰註-1

註1:1898年10月21日付の読売新聞に掲載された憲政倶楽部の趣意書には、失望したとは書かれていないが、次のようにある。

憲政党既に成るも舊黨派の感情の追日益々殷にして相傾奪するの弊を致し餘勢延て施政に及び計畫施設の際或ハ杆挌の患を免れず

記事は憲政俱楽部の結成を決めた協議会の出席者を次の通りだとしている。()内には出身政党、会派を筆者が付した。ない場合には、「-」と付した。平岡浩太郎(国民協会、議員倶楽部、山下倶楽部)、臼井哲夫(-)、降旗元太郎(山下倶楽部)、初見八郎(独立倶楽部―第3回総選挙後―)、河野廣中(立憲自由党、自由党、東北同盟会、同志倶楽部)、小栗貞雄(-)、小山久之助(-)、山本貴三郎(-)、和泉邦彦(―)、鮫島相成(鹿児島政友会、同志倶楽部)、有馬要介(記事は「要助」。鹿児島政友会、同志倶楽部)、高梨哲四郎(無所属)、廣瀬貞文(国民協会、国民倶楽部、公同会、同志倶楽部)、秋山元蔵(-)、大井健太郎(旧大日本協会・政務調査所派―非議員時代に立憲自由党関東派の要人―)

 

註2:1896年4月26日付の東京朝日新聞は、国民協会が板垣の入閣について、強迫的強談、悪例を千歳に残すものとしたものの、直ちに運動を起こすか、しばらく内閣の成り行きを見るかは未定だと報じている。5月5日付の同紙は、反対だが運動はしないという、国民協会会の姿勢について報じている。同党は、自由党に対して批判的な姿勢を見せたものの、伊藤系、自由党と明確に対立したわけではなかった。

註3:村瀬信一氏が「明治二六年三月の西郷従道入閣問題」106~107頁において、国民協会が第1次松方内閣に白根専一、井上毅、渡辺国武を入閣させようと工作していたが、彼らが同派に近くても会員であったことはないため、政権の争奪という批判を回避することが可能であったことを指摘している。

註4:1898年11月3日付読売新聞等、報道に表れている。この記事では佐々友房が積極的に動いていることを窺うことができる。国民協会の安達謙蔵は、1897年10月29日付の品川弥二郎宛の書簡において、国民協会を中堅として、自由党と公同会とを左右に提け得る内閣の組織を唱えている(『品川弥二郎関係文書』一227~229頁)。また同党の大岡育造は、1897年12月30日付の伊藤博文宛の書簡において、自由党と同党を腹心とし、進歩党を客偶することを主張している(『伊藤博文関係文書』三211~212頁)。

註5:1898年10月30日付品川弥二郎宛大岡書簡に次のようにあり(『品川弥二郎関係文書』二209頁)、大岡が、国民協会からの入閣を志向する人物であったことが分かる。

故に此儘にして内閣を組織し議会に臨むならば、自由党、薩派と国民協会を合して、此三団体を使用せさるべからず。然らは大将の流義に多少の修正を加へ、此三派より人物を精選し、大臣、次官、局長等を採用するの覚悟相成度候

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