日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論⑰註-2

補論⑰註-2

註6:村瀬信一氏は、「帝国党ノート」59頁において、1898年の伊藤の清国・朝鮮漫遊に大岡が同行したことについて、「両者の関係は、単に同郷の元勲と取材記者という枠を越えたものと解釈可能の様に思われる。」としている。

 

註7:『原敬日記』第三巻27~28頁、1907年2月22日の記述に、次のようにある。

今日まで政友会と提携したる大同倶楽部が突然進歩党と提携して反対の態度を取りたるは、山県系の大浦等が貴族院に於ける郡制に対する賛成者著しく増加し容易に通過せんとするの形勢となりたるに因り、俄かに衆議院に手を入れて此処置に出でしめたるは掩ふべからざる事実なり、彼等の陋劣甚だ厭ふべし、政友会員一同大に憤慨せり。

註8:3党鼎立構想とは、山県のコントロールが効く吏党系(等)が衆議院におけるキャスティングボートを握り、2大政党の一方が過半数を握ること、影響力を強めることを回避しようとするものであったと考えられる。それは、吏党系と2大政党の一方との連携を排除するものではなかった。しかしその連携は、構想を放棄しない限りは、時限的なものでしかあり得なかった。

註9:例えば1903年5月17日付読売新聞。それ以前には確認できない。記事が書かれた時点で、桂・伊藤合意が明らかになってからの立憲政友会の離脱者は2名である。なお、4派とは中正倶楽部、帝国党、政友倶楽部、無所属中の有志者である。

註10:立憲政友会の総務らが桂・伊藤合意を承認した1903年4月25日から衆議院が解散された同年12月11日までの間の離党者数65から、この間に離党しながら、この間に復党した2名を差し引いた数(この間に離党、復党、再度の離党をし、同志研究会の結成に参加した鎌田三之助は、当然ながら1名として、この62名に含めた)。

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