1.政権交代論

註⑭註-1

註1:①については、分裂が始まる前、自由党系の会派であった弥生倶楽部の議席数は133程であったと考えられる。同志倶楽部に加盟した最後の離党者が出た後の議席数は76であったと考えられる。間に議席を減らした第2回総選挙もあり、約57議席減っている。しかしその後間もなく行われた第3回総選挙の結果は119議席であった。間に補欠選挙等もあったが、すべて含めて単純計算をすると、総選挙によって、失っていた分の約4分の3を回復しており、さらに総選挙後に5名の新規加盟者を得ている。②の場合は、分裂が始まる前、自由党の議席数は106であった。公同会に加わった最後の離党者が出た後の議席数は82であり、①の場合と同様に計算すれば約24議席減ったということになる。その後間もなく迎えた第5回総選挙で自由党は98議席を得た。失っていた議席の約3分の2を回復したことになる。③の場合、分裂が始まる前の立憲政友会の議席数は190であった。無所属となった最後の離党者が出た後の議席数は123であった。間に5議席を減らした第8回総選挙もあり、67議席減っていた。間もなく迎えた第9回総選挙において、立憲政友会は128議席しか得られず、失われた議席はほとんど回復されなかった。しかしその後、非常に多くの入、復党があり、第10回総選挙の前には、同党は180議席となっており(第24回帝国議会会期終了日)、失われた議席の約8割5分を回復していた。

 

註2:議員倶楽部は第2次松方内閣において、同内閣を支えていた進歩党等と共に知事のポストを得て(千葉、長野両県知事)、公同会に参加した。

 

註3:1897年1月12日付の東京朝日新聞に、岡山県第7区選出の直原守次郎が自由党大会に出そうとして中国派の理解を得たものの、提出時期に異論があったため、提出に至らなかったという決議案が掲載されている。それは、第2次松方内閣と、自由党が協力していた第2次伊藤内閣に違いがなく、自らと近いものだとしている。直原は新自由党の結成には加わっていないが、自由党を脱して公同会の結成に参加し、遅くとも新自由党が公同会を脱した際には、新自由党に加わっている。また議員倶楽部を経て新自由党の結成に参加した3名のうちの2名は、広島県内からの選出である。

 

註4:結成時の新自由党の議員12名は全員、自由党の候補として第4回総選挙、その後の補欠選挙で当選している。このうち6名が関東地方の選挙区の選出であった。

 

註5:自由党の『黨報』第127号号外の1頁は離党の理由を「推知するに足る」とし、河野が伊藤内閣との提携を失敗とし、方針を改め、「相共に元勲功臣と與にするを欲」さないためだとしている。