日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論⑭註-4

補論⑭註-4

註16:『鹿児島懸政黨史』287~288頁に次のようにある。「當時」とは第3次伊藤内閣、第12回帝国議会において衆議院が解散された当時である。

當時鹿兒島縣選出議員は、進歩黨を立場として薩派と稱せられ、他縣選出議員も其内に含まれて居つた。

 

註17:伊藤正徳編『加藤高明』上巻491~495頁。1903年11月19日付、27日付、30日付、12月1日、2日付の原敬の日記に、加藤が、立憲政友会と憲政本党との連携に関する交渉が進むよう、両党幹部の間に入って動いていた様子が記されている(『原敬日記』第2巻続篇118、121、125、126~127頁。

 

註18:1903年11月30日付東京朝日新聞に以下のようにある。尾崎は翌月1日の同志研究会結成の中心人物の一人である。

過日尾崎行雄氏一派の中立議員が僅々十數名の協議を以て政進兩大黨に解黨を促し以て新政黨を組織すべしとの決議を爲したるは事甚だ大膽なるに似たれども其實二黨領袖間の黙識を得たる上の動作なるものの如し

1903年12月6日付読売新聞によれば、新加盟の加藤高明も出席した晩さん会に於いて、次の2項目の申し合わせがなされたという。

一政進両黨の提携を妨ぐる如き行動を避け両黨に紛議を生ずるときハ調停の任に當る事

二議會の諸問題に就てハ成るべく諾種の説を聴き公平に研究する事

1903年12月14日付の読売新聞には、同志研究会の一派が、立憲政友会と憲政本党の間に立って合同を促そうと図り、同志研究会の望月と島田が早朝から尾崎を訪ねて密議を凝らしたことが記されている。

 

註19:1903年12月11日付の東京朝日新聞によれば、紅葉館で催された会合(文明会と報じられている)の席上、望月圭介が発起人総代として、立憲政友会と憲政本党を解いて新たな政党を組織すべきだとする議を提出した。これに1、2の反対があったことから、「憲政擁護の新團体を作るべし」と修正して、菅原傳以外が賛成したのだという。出席者は、菅原を含む立憲政友会所属衆議院議員が21名、憲政本党所属衆議院議員が7、同志研究会所属衆議院議員が8名であった。望月圭介は同志研究会の所属であったし、大政党でない同派は、2大政党の合流に積極的であったと考えるのが自然である。

 

註20:立憲国民党結成の約1ヶ月前、又新会から10名が離脱して無名会を結成、その後さらに1名が又新会から無名会に移った。無名会のメンバーは全員が立憲国民党の結成に参加している。無名会の参加者が離れる前の又新会の総議員数44の半数よりも1名多い、23名が改進党系の憲政本党と合流した

Translate »