日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
補論⑭註-5

補論⑭註-5

註21:立憲国民党の結成は1910年3月13日、又新会に属していた同志研究会結成時のメンバーの離党は、富島暢夫が1909年8月2日、尾崎行雄が1909年12月22日、小川平吉が1910年3月7日、山口熊野は1910年3月23日である。このうち、尾崎は、立憲政友会に移った理由について、「強ひて理屈をつければ、貴族院の勢力に對抗するため、衆議院の勢力を強大ならしめる必要を感じ、これがために、政黨勢力を大ならしめんとする方途に出たとでも、言ふことができよう。」としている(『尾崎咢堂全集』第11巻咢堂自伝458頁)。また1909年7月3日付の読売新聞によれば、立憲政友会を大にして衆議院を一党にまとめて非立憲主義者を屈服させることを同党に希望しており、同党がそれを容れるならば去就、つまり復党を決めるということ述べている。そして記事は、尾崎が「新政黨組織を全然見限」ていると、占めている。これを信じるなら、立憲政友会よりも薩長閥に対抗しようとする立場であったということになる。他の3者については、はっきりしない。

 

註22:解散時の又新会の議員18名中2名、同派の後継である同志会、同派が改称した亦楽会から、その2名のうち1名を含む6名が、立憲同志会の結成に参加している。また立憲同志会の結成には参加しなかったものの、その前身の会派、無所属団には参加した同志会の議員が2名いる。同志会派、無所属団参加者の離脱が始まる前は34議席の勢力であった。

 

註23:同志研究会の本流を汲む中正会の33名中24名が憲政会の結成に参加した。ただし中正会は同志研究会の流れを汲む亦楽会と、立憲政友会の離党者による政友倶楽部が合流したものであり、33名中、亦楽会出身者は12名であった(政友倶楽部出身者は8名)。その12名のうち、4名が憲政会の結成に参加した。

 

註24:衆議院・参議院編『議会制度七十年史』政党会派編45頁に、「議会が解散されたので組織するまでには至らなかった」とある。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には、立憲政友会離党者の一覧はあるが、彼らが大正倶楽部を結成しようとしたというような記述はない。衆議院の解散から約1ヶ月後、第12回総選挙の約2ヶ月前である1915年1月28日付の読売新聞には、「白川友一氏等一派の大正倶楽部の去就に就ては」とある。採決の結果、二個師団増設案賛成は148、反対は213票であった。立憲同志会と中正会が賛成に、立憲政友会と立憲国民党が反対に投じた。採決前日に立憲政友会を脱した17名のうち、11名は賛成に投じ、6名は投票していない(『帝国議会衆議院議事速記録』三〇166~167頁)。

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