1.政権交代論

補論⑮註-1

註1:1899年3月16日付の萬朝報には、久米が知友に送ったという書面の大要が記されている。そこで久米は、立憲政友会が内閣の増税、追加予算を了承し、鉄道国有化と議員歳費の増額を主張したことを批判している。しかし同12日付の東京朝日新聞は、久米の離党の理由について、「表面ハ歳費問題裏面ハ誰も相手にせざる失望なりとハ如何でもよし」としている。久米が山下倶楽部の出身であったこと、また同派を離脱せざるを得なくなった経緯(久米は、会派として求めない方針であった委員長ポストを求めて運動した(『補論』㉓参照)から、歳費の問題とは別に、あるいは採否の問題と相まって、党内で孤立していた可能性は高いと考えられる。

 

註2:中村彌六はフィリピンの独立運動に協力しようとしたが、武器を載せた船が沈没した「布引丸事件」に関して憲政本党を除名された。1900年9月3日付の読売新聞によれば、徳島県内の選挙区から選出された憲政本党の衆議院議員4名が憲政本党を脱して新政党に加入するとした。事情は分からないが、このうち阿部興人だけが立憲政友会の結成に参加せず中立倶楽部に参加している。

 

註3:1898年11月11日、20日付の萬朝報には、薩派が自派を有利にするために、政府と自由党系の提携を仲介しようとしているということが記されている。

 

註4:1905年1月6日付萬朝報。田口、島田らの中立団体が少数孤立の弊を認めながら、一大政党を組織することは思い及ばぬことであるため、自己に適する既成政党に入党することで一致、将来の立脚上出来る限り集合しようと計画を立てたのだという。中立団体というのは有志会を指すはずだ。そうでなくても、同派内の田口、島田らの一派だということにはなる。有志会を指す場合、自己に適する既成政党(または実際には会派)が、所属議員にとって2つあったのだということになる。田口、島田らの一派を指すのであれば、2つあったということにはならないのかもしれないが、同志を可能な限り集合するという点では、成功したとは言い難い。なお、有志会の大同倶楽部参加者と政交倶楽部参加者への分裂は1905年12月である。

 

註5:憲政本党と三四倶楽部の合流が失敗するまでの過程については、阿部恒久『近代日本地方政党史論―「裏日本」化の中の新潟県政党運動』第七章が詳しい。