日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・野党の2択(⑧⑨)~政友会中心の新内閣と各党派の位置関係~

1列の関係・野党の2択(⑧⑨)~政友会中心の新内閣と各党派の位置関係~

第1次西園寺内閣初期の状況を整理すると、図⑨-Cのようになる。

 

図⑨-C 第1次西園寺内閣期の衆議院における諸勢力の位置

 

右の勢力から順に並べたのだが、憲政本党①の方が、立憲政友会のとなりの憲政本党②よりも、立憲政友会に寄っていた。しかしこれは矛盾しているわけではない。自由党系(自由党~立憲政友会)が成功させた手法を採ろうとする点で、憲政本党②(改革派)の方が、立憲政友会と立場が似ており、だからこそ競合するのである。憲政本党①にとって、立憲政友会から遠ざかることは、従来の路線の誤りを認めることを意味した(総選挙で立憲政友会が議席を大きく減らせば、憲政本党との大連立もあり得たような気がするが、政党内閣に否定的な薩長閥が、弱った立憲政友会に、わざわざそれを許すわけがなかった。そもそも、立憲政友会の議席を減らすためには、第2党の憲政本党が立憲政友会と対決し、優勢にならなければいけなかった。それは当然難しかった)。

政策中心の政党政治を実現させる前に、政党政治そのものを実現させなければならず、そのためには、本来の性質が政策重視であろうがなかろうが、政局中心とならざるを得なかった。それが当時の日本の政党である。憲政本党①(非改革派)は政交倶楽部に近い。同派の機関紙という面を持つ大国民ではこの頃、憲政本党改革派、同派が主導する憲政本党の姿勢を批判する記事が目立つ(註)。

憲政本党の内部対立は、従来からの、主流派(立憲改進党の直系)と反主流派の感情的な対立を別とすれば、立憲政友会と山県-桂系のうち、どちらを敵とするかということを明確にすることで、解決され得るものであった(立憲政友会はこれができた上で、表面上、そして保険として、薩長閥と憲政本党を両てんびんにかけていたのだと言える。それに反対する議員達が離党していったものの、それが立憲政友会を第2党に落とす規模のものではなく、助かった)。憲政本党②は、1党優位制に挑戦するもので、憲政本党①は、非立憲主義的な薩長閥政治に挑戦するものであった(それと一体化する立憲政友会であれば、攻撃するのが自然なことであったが、そこには、従来の同党との共闘路線の失敗を認めることになるという、ハードルがあった)。立憲政友会が、第4次伊藤内閣以来約5年ぶりに、一応は単独与党となったことで、憲政本党は②の立場を採ることが自然であった。ただし、それが薩長閥の傀儡であれば、①を採る方が自然だ。そうであれば、第1次西園寺内閣成立後しばらくは、様子見の期間となるべきだが、憲政本党は個人ではなく組織であったから、様子見こそが、非改革派と改革派のせめぎ合いであった。

註:1907年2月5日付の第25号9~10頁、2月20日付第26号11~12頁、14頁、4月5日付第28号16頁。大国民は講和問題連合同志会の系譜の機関紙に近いものであった。

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