1.政権交代論

2大民党制・第3極(⑧)~第22回議会の採決に見る衆議院の2ブロック化~

第22回帝国議会では、内閣提出の、以下の法案などが成立した。予算案も含め、基本的には立憲政友会と大同倶楽部が賛成し、憲政本党と政交倶楽部が反対するという構図であった(ただし、投票していない議員も少なからずいた)。政交倶楽部の花井卓蔵は、『軍国議会史要:第二十・二十一・二十二議会の経過』において、これらの法案を、「桂内閣の遺策を襲踏したる所のもの」としている(87頁)。この「第二十二議會の會期」(41~45頁)で花井が述べていることも考えると、政交倶楽部の議員達が、第2次西園寺内閣のどのようなところに特に批判的であったのか、よく分かる。ポーツマス条約に対する不満と、その賠償なき講和のせいもあって、国民の負担が重くなる莫大な債務、それを招いた第1次桂内閣の方針を、第1次西園寺内閣が継いだこと、内閣や衆議院で準与党と合わせて過半数を上回る与党の横暴、といったところである。

・国債整理基金特別会計法案:国債の下落を防ぐため、国債整理基金を設け、毎年度一般会計から定額を繰り入れるという、戦時の特別税を戦後も継続することを前提とした法案。反対派は、財政健全化をおろそかにしたままでの新規国債発行につながることを問題視して、反対をした(『帝国議会衆議院議事速記録』二一35~37頁-政交倶楽部の浅野陽吉-、39~42頁-憲政本党の大石正巳-、43~46頁-政交倶楽部の島田三郎-)。政交倶楽部では、尾崎行雄、竹内正志、大縄久雄が賛成している(同48~49頁-第2読会を開くかどうかの採決の賛否一覧-)。

・非常特別税法中改正法律案:戦時の増税の継続。継続の理由を内閣は、公債の元利、恩給など、永続する歳出があるためだとし、税法の根本的な改革を図るという説明をした。政交倶楽部では大縄久雄、奥田義人が賛成している(同57-58頁同上)。

・鉄道国有法案:貴族院で買収私鉄を32線から15線に減らし、買収の期限を延長する修正が加えられた上で成立した。民業を圧迫することから国有化に否定的であり、日露戦争の影響で増えた公債をさらに発行することにも反対であった加藤高明が、法案提出に反発して外相を辞任した。なお、山県-桂系に批判的であった加藤(補論⑭参照)は、自らが社長であった東京日日新聞が、非常特別税の継続、国債整理基金を設けることに反対していたこともあり、変節したと批判されていた(註1)。井上馨も容認し、反対派の実業家の鎮撫に尽力する(註2)も、元々は反対であり、実業家の片岡直温が彼の意見に準じて形で反対論を展開していた(1906年3月13日付萬朝報。片岡はかつて国民協会、山下倶楽部の衆議院議員であり、高知県の吏党系として、自由党系の土佐派と対立関係にあった。次の第10回総選挙で当選し、中野武営らと戊申倶楽部を結成する。このため、自由党系が多数派であった立憲政友会には参加せず、1913年に立憲同志会の結成に参加する-片岡直温度『回顧録:伊藤、井上、桂諸公其の他』320~321頁他-)。片岡も加藤高明も後に立憲同志会の結成に参加するということは(第11章で見る)、立憲政友会に対抗する勢力の再編を考える上で、非常に重要である(ただし加藤と近かった奥田は、伊藤系であったためか、立憲政友会に移る)。大同倶楽部には、非幹部派等に法案の反対者があり(1906年3月8日付東京朝日新聞)、憲政本党、政交倶楽部には逆に、賛成者があった(1906年3月12日東京朝日新聞)。衆議院で第2読会を開くかどうかを決める採決では、大同倶楽部の江角千代次郎が反対、政交倶楽部の竹内正志、板倉中、大縄久雄(有志会出身)、松本恒之助(有志会出身)、望月小太郎、近江谷栄次、新藤才一、松井源内(元大同倶楽部)が賛成(36名のうちの8名)、憲政本党の中西新作、相沢寧堅、柴四朗、朝倉鐵蔵、野木善三郎、佐治幸平、平島松尾、安島重三郎が賛成した(『帝国議会衆議院議事速記録』二一312~313頁)。議員達の賛否の背景には、純粋な理念、所属会派の立場だけでなく、鉄道会社の関係者であるかどうか、その鉄道会社の経営状態も関係していた(註3)。

・台湾に施行すべき命令に関する法律案:台湾総督に法律と同様の効果を持つ命令を発する権限を持たせた明治二十九年法律第六十三号のさらなる延長を内容とする法案であった。花井卓蔵はこれを憲法違反だと批判した(同424~426頁)が、原案通り成立した(記名投票ではなく、花井卓蔵は大多数で可決されたとしている―花井卓蔵『軍国議会史要:第二十・二十一・二十二議会の経過』101頁―)。

・明治三十八年勅令第百九十四号(臨時事件費支弁のための3億円の公債募集の承諾について):3億円もの外債を募集するに当たって、臨時議会を開かなかった政府を批判する反対派に対して、賛成派は前内閣のことであり、現内閣が、前内閣の手法について言明こそしなかったものの、時間の許す限り臨時議会を開く立憲的な姿勢を示したことを、賛成の理由に挙げるなどした(『帝国議会衆議院議事速記録』二一138~146頁-賛成に投じた議員、反対に投じた議員の一覧を含む-)。採決では政交倶楽部36名のうち、13名が票を投じていない。

内閣提出の重要法案を他にも挙げたい。関税定率法案は、非常特別税のうちの輸入税を、一般の関税とし、原料にかかる関税を下げ、国内で生産可能なものは引き上げるなど、関税一般を、当時の日本に合うようにするものであった。米と籾については、非常特別税のまま据え置かれることとなっていたが、委員会で関税にすることとなった。他にも一部修正された上で、可決された(賛否の数は不明)。郡制廃止法律案は、衆議院でほぼ全会一致で可決された(『原敬日記』第2巻続篇321頁-1906年3月14日付に全会一致とある-、花井卓蔵『軍国議会史要:第二十・二十一・二十二議会の経過』125頁)。しかし、貴族院で審議未了となった。これは、第21、22回帝国議会において尾身浜五郎(第21回帝国議会期は無所属、第22回帝国議会期は大同倶楽部、後に立憲政友会)らも提出していた。第21回帝国議会では、委員会で可決されたが審議未了となり、第22回帝国議会では、条文が政府案と同じ(「郡制ハ之ヲ廢止ス」)であったため、附則のある政府案が可決された(『帝国議会衆議院議事速記録』二一321~324頁)。ただし委員会では、郡役所が廃止されないことについて議論となった。政交倶楽部の浜田国松は、自治の要素に乏しいこと、行政の簡易化が望めないこと、業務等が他の自治体に移されるだけで、経費の節減にはならないことから、反対であることを述べている(『帝國議會衆議院委員會議録』明治篇三七12頁)。

宅地地価修正法案は、日露開戦に伴い、臨時的に地租を増徴する際、第1次桂内閣が地価の公平化を図ることを決めたことに、起因するものであった。その内容は、地価を1ヵ年の賃貸価格の10倍とし、それが地価の20倍を超える時には、20倍にとどめるというものであった。衆議院において10倍を8倍とし、20倍を超える場合の制限を取り払う修正が行なわれた上で可決された。この際、名古屋市選出の鈴木総兵衛が、反対の立場から発言をしている(同三五330頁)。東京や横浜を挙げ、地元の地名を挙げることを避けているが、このような大都市とその周辺は、税負担が大きく増える想定であった。しかし法案は、貴族院で審議未了となった。衆議院における、第2読会を開くかどうかを決める記名投票の結果が分かる(『帝国議会衆議院議事速記録』二一417~418頁)。全会派とも、また市部選出議員も郡部選出議員も賛否に分かれている。215対83で可決されたから、投票していない議員も多く、反対に投じた議員は少なかったわけだが、群馬、東京、愛知、長野、京都、大阪、山口、福岡、長崎、大分の各府県では反対が多かった。これは、主に大都市とその近郊の地価が上がる傾向があったためだと考えられる。政交倶楽部の議員で反対に投じたのは5名(尾崎行雄、小川平吉、鈴置倉次郎、高橋勝七、山下重威)と少なく、うち市部選出議員は、大阪市の1名(山下)だけであった。注目すべきは、甲辰倶楽部に所属したことのある市部選出議員が、四日市市選出の1名を除き、全員反対に投じていることである。市部の民意が郡部の民意に対して劣勢を強いられる状況であったことを、改めて印象付ける事例である。

なお、1906年3月14日付の萬朝報は、宅地価修正問題を党議とすることが決まったことに反発して、憲政本党の角田真平、関直彦、尾形兵太郎、鹿島秀麿が脱党書を提出したが、この問題が延期となるか、自由討議となれば離党しない意志であるということを報じている。角田と関は東京市、尾形は大阪市、鹿島は神戸市の選出であり、同党所属の多くが賛成に投じる中、関を除く3名が反対に投じている。一方で、仙台市選出の藤沢幾之輔、富山市選出の関野善次郎は反対に投じている(他の、東京市選出の大石熊吉、鳩山和夫、関直彦、若松市選出の柴四朗、弘前市選出の菊池九郎、福岡市選出の平岡浩太郎、佐賀市選出の江藤新作は票を投じていない)。

立憲政友会の江間俊一は、警視庁廃止に関する建議案を提出した。これは憲政党内閣期、旧進歩党系の行政改革案の一部であったが、旧自由党系の板垣内務大臣がつぶしたものであり(警視庁は内務省の内部部局であった)、その自由党系である、当時の与党立憲政友会の方針に反するものであった。江間を党から除名しようとする者もあった(1906年2月17日付読売新聞)が実現はせず、江間は1908年2月5日に離党する。権力の乱用が建議案提出の要因にあったが、官選であった府知事に権限が移っても、変わらないという意見もあった(『帝国議会衆議院議事速記録』二一110頁-楠目玄-)。建議案は100対175で否決された。票を投じていない議員も多いが、基本的には憲政本党と政交倶楽部が賛成、立憲政友会と大同倶楽部が反対であった(同124~125頁)。

註1:伊藤正徳編『加藤高明』上巻554~555頁。第1次桂内閣側の勢力の反感を買ったということが記されており、『国民新聞』が引用されている。原敬も、2月19日の日記(原奎一郎編『原敬日記』第2巻続篇315~316頁)などで、加藤が苦慮しているようであることを記している。

註2:原奎一郎編『原敬日記』第2巻続篇319頁(1906年3月2日付)。3日付(同319~320頁)の日記からは、井上の意見を容れて、製鉄所拡張案を継続費にするなど、原が反対派の実業家の希望を容れるように努めていたことが分かる。さらに14日付(同321~322頁)では、「議員間に運動する内報を得たり」として、九州鉄道の仙石貢らを警戒するよう、警視総監に命じたことが記されており、15日付(同322~323頁)には、大同倶楽部の久保伊一郎も運動をしていることについて、佐々に注意をしたことが記されている。

註3:3月12日付の東京朝日新聞は、小鉄道に関係する憲政本党の議員20余名が幹部に採決における例外を申請したことを報じ、許されない場合は4、5名の離党者が出るとしている。