日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党(⑥⑧)~猶興会の結成と岡山県での動き~

新民党(⑥⑧)~猶興会の結成と岡山県での動き~

第23回帝国議会(1906年12月25日召集、同月28日開会、1907年3月27日会期終了)の召集日、前議会の会期終了日(1906年2月28日)に解散していた政交倶楽部の議員達が、猶興会を結成した。大同俱楽部に加わっていた竹内正志が参加せず、前々日に憲政本党を離党していた中西新作が新たに加わったが、それ以外は全く同じメンバーであった。1907年9月22日に、板倉中が古巣の立憲政友会に戻ったが、12月25日には、憲政本党から入江武一郎、西村丹治郎、守屋此助が移って来た。彼らは3名とも、岡山県郡部の選出であった。読売新聞によれば、同県では鶴鳴会というものが結成され、県内選出の衆議院議員は皆、同会に加わることとなり、その結果、入江と西村は憲政本党を離党することになり、1907年5月18日に離党が認められたのだという(註)。守屋の離党は12月25日で、同日、3名そろって猶興会入りした。一方で、同派からは1908年1月20日、中西が立憲政友会に移り、同月24日に、小林仲次が離脱して無所属となった。鶴鳴会については、久野洋氏の研究(久野洋「地域政党鶴鳴会の成立―明治期地方政治史研究の一視角―」)がある。同会結成に直接関係する点をごく簡単にまとめると、次の通りである。()内の一部は筆者が付け足したものである。

岡山県内の憲政本党は、中央政治と地方政治は異なるとして、県内では、1901年末には明確に積極財政にシフトした(第7回総選挙において、商工立国論を唱える大戸復三郎を支援したことについても述べられている―大戸は元判事の弁護士、実業家で、第9回総選挙において岡山市で当選し、甲辰倶楽部、大同倶楽部所属―)。このシフトは、同県郡部選出の犬養毅の軍備偏重批判、産業振興の主張とは齟齬をきたしてはいなかった。しかし1903年の中頃から、前年から続く農作物の不作もあり、消極財政志向が県内の主流となった。そして、既成政党の腐敗に対する批判も起こった。県会では、宇野湾築港の延期が満場一致で可決されたが、知事は原案執行を内務大臣に申請し、許可を得た。反対派は、これを非立憲的行為だと批判した。その際、知事の上京に、犬養派の犬飼源太郎らが同行して批判を受けた。進歩派(憲政本党)には主流派の他に、消極財政志向を維持し、かつ日露講和反対派でもあった、坂本金弥らの非主流派があり、後者が鶴鳴倶楽部を結成した。この鶴鳴倶楽部、民力休養路線(消極財政・低負担)を採る柔軟さを持っていた犬養派、自由派(県内では少数派であった立憲政友会)の県会議員32名の発案で、1907年11月23日に鶴鳴会の発会式が行われた。そこに列席していた衆議院議員が、坂本、入江、西村であった。同会は主張が近い政界革新グループ(国民主義的対外硬派)に合流していった。坂本は軍備以外の事業に積極的であるべきだという立場を採った。

以上である。宮地正人氏が「国民主義的対外硬派」、櫻井良樹氏が「政界革新グループ」としているものが、筆者が「新民党」とするものだ。しかし筆者の新民党は、衆議院の勢力を分類したものの1つであり、国民主義的対外硬派、政界革新クループとは重なるものの、一致はしない。一列の最後尾に位置した改進党系には、前にいる自由党系を追いかけるか、薩長閥と自由党系の接近を批判して、双方と対峙するか、という2つの選択肢があった。そして、どちらを採っても容易に優勢になることはできないため、双方の間で揺れた。このため、衆議院で最も左の極は、自由党系の離党者に占められることが多かった。この当時は、憲政本党がまさに揺れていた時であった。自由党系(立憲政友会)のように薩長閥に接近するという路線を、同党の約半数が志向しているという時点で、同党の左側には多少なりとも空きが生じる。なお、薩長閥と対峙するという路線であっても、地方では地盤固めが必要であり、支持者へ利益をもたらす積極財政志向に傾くことも、当然あり得る。久野氏も指摘している通り、地元の発展のために積極財政を志向したという面も、当然あったのだろうが、改進党系は、決して消極財政志向に徹していたわけではない。さらに、薩長閥と対峙するとしても、自由党系と協力しなければ反薩長閥勢力は大きなものとはならず、改進党系の反薩長閥路線は、立憲政友会の結成後は、同党への「片思い」を前提に採用されるものであった。このため、憲政本党非改革派の民党色を維持する路線も、左に空きを生じさせたのである。このため同志研究会の流れを汲む新民党は、以前の新民党よりも、独自の存在価値を示しやくなっていたのだといえるのだ。

猶興会は1907年1月29日、所属代議士がなるべく歩調を一にし、やむを得ない場合はあらかじめ届け出ることを議決した(1907年1月30日付東京朝日新聞)。これまで見たように、同志研究会の系譜は、独自のカラーはあっても、一致して行動するという勢力ではなく、立憲政友会の離党者を核としたものではあっても、無所属議員による会派の色を持っていた。そこから踏み出そうとしていたことが窺われる。猶興会の島田三郎は、選挙権を拡大(具体的には直接国税3円以上の納税者、府県立の師範学校、中学校、文部大臣が中学校以上と認めた学校の卒業者、法律学、政治学、理財学専攻の私立学校の卒業者、徴兵令により現役を終わった者、召集を受けてうけて兵役に服した者に拡大)する法案を提出した。しかし審議未了となった。ここにも猶興会の親民党らしさが表れている。

註:1907年5月19日付東京朝日新聞。1907年12月26日付の東京朝日新聞は、入江と西村を岡山県革新派としている。なお、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、入江と西村の憲政本党離党に関する記述が抜けている。

Translate »