1.政権交代論

野党の2択(⑨)~憲政本党民主化の矛盾~

第23回帝国議会が開かれてから約1ヶ月後の1907年1月20日、憲政本党の改革派は、首相になる見込みがない大隈を総理(党首)辞任に追い込んだ。彼らは党の役員の公選、憲政本党を土台とする新党の結成を求めていた。薩長閥への接近を志向する彼らの新党構想とは、同志研究会系よりも、大同倶楽部との合流を重視するものであった。総理(党首)が指名する政務委員が廃止され(廃止当時は犬養、鳩山、大石、武富、箕浦であった-神鞭は死去-)、評議員が15名の常議員を選挙することになった(評議員については便宜上、各府県で候補者を推薦し、それを本部がまとめることとなった)。なお、このような役員はもともと党大会で選ばれるルールであったが、1900年12月に大隈が党の総理に就いて以降、総理による指名制となっていた。勢いを強めていた改革派が、自らにより有利な党改革を行い、軍拡を承認し、積極財政を唱えるという、党の方針の一大転換を行ったのだ。この転換には、政友会内閣を助けるというデメリットと、山県-桂系に評価されるというメリットがあり、立憲政友会に対抗するためにこそ改革派は、後者を重視したのだ。だが、1列の最後尾にある憲政本党が、議席の少なさ、薩長閥との溝を克服して、立憲政友会の風下を脱することは非常に難しかった。それが比較的容易になる唯一の手段は、薩長閥の有力者を党首に担ぐことであった。このために、そして非政友会の大連合を形成するために、改進党系を代表する人物である大隈の存在は、障害になり得た。だから改革派は、大隈を党首辞任に追い込んだわけだが、それにはリスクもあった。大隈と姿勢が近かった非改革派と、もし袂を分かつことになれば、つまり憲政本党が大きく分裂してしまえば、議席数が大きく減って、薩長閥にとっての、改革派の利用価値が下がる。このことを考えただけでも、憲政本党が立憲政友会と互角の政党になることの、難しさが分かる。党内の民主化(犬養らが主流派としてずっと党を動かしている状況の転換)を進めることと、党全体が非民主的な勢力に接近することが、イコールになっていたという矛盾もあった。

大石正巳は、犬養と同じく立憲改進党の出身であり、憲政本党の中心人物の一人であった。つまり主流派の要人であったわけだが、反主流派が形成した改革派に身を投じた。