1.政権交代論

1列の関係(⑧⑨)~大石正巳、反吏党から野党大同団結へ~

1906年8月27日付の大石正巳の日記には、次のようにある(大石正『大石正巳日記』117頁)

政黨を改善し議會の勢力を刷新するは目下の急務なり。地方の與論を喚起して代議士たる者の無籍を許さしめざる方法を講ずべし。政治家にして主義なく政黨なきは恰も無宿者と一般なり。各府縣をして何れかの政黨に加入せしめ、政黨以外の人をして代議士たるを得ざらしむるに在り

これは無所属や、中立会派のような存在を、問題としているのだと言える(当時は中立的な会派は存在しなかったが、大同倶楽部も、解散していた政交倶楽部も、政党ではなかった)。当時、政党が出現していた欧米の国々を見ると、日本のように多くの無所属の当選者がいた国はなく、従って、そのような議員達による会派もなかった(筆者の知る限りだが、少なくとも主要な国々ではなかった。補論⑥参照)。議員は自らの理念、政策を持っているべきで、そうであれば、自らに近い議員達の政党に、属すべきだというのが、大石の考え方であった。私利私欲のために議員になるべきではないが、それが自分と同様の、一定数の人々のためでもあれば、そうとばかりはいえない。しかし当時の日本には、理念や政策もなく、ただ薩長閥に寄っていた無所属の議員、中立会派も少なからずあったと考えられる(註1)。明治、大正期の衆議院には、そのような議員、会派が一定の規模で存在したわけだが、それらは利用できる場合があったとしても、不確定要素であり、本来は大政党にとって邪魔な存在であった(だからその中に自党に近い議員がいれば、吸収しようとするのが普通だ)。その反面、それらの議員からすれば、政党の側を、党利党略で動くものであると、批判的に見る者があった。1906年11月13日の大石の日記には、「少數黨は他と聯合提携せざれば効力ある活動を爲すべからず。隈伯の位置、性格は是際に不便なり」という(同290頁)、第3会派以下の勢力が大政党に吸収されていくと考え、その吸収をしているような記述がある。そしてそのために、大隈が党首であることが障害になると考えていたのである。理念や政策が特にない議員であれば、憲政本党よりも立憲政友会に入ろうとすると考えられる。その立憲政友会の原は、1907年9月24日の日記に、伊藤博文が、山県が政党について分かっていないとし、3派鼎立にはならず、多少の中立者はいても、大体は2党に帰すると述べたことを記している(『原敬日記』第3巻99頁)。これは、そうあるべきだという考えであることも含め、大石と同様だと考えられる。原は、憲政本党と大同倶楽部が「非政友」と称して組んでいることを、伊藤の言うように2政党に帰する傾向と捉えることはできなくはないものの、確たる予言はできないということを記している。もはや、自由党系対、改進党系対、吏党系等、ではなく、自由党系対、改進党系・吏党系等、となりつつある、というわけである(政権を担う自由党系には、他から加わる者がある)。その後の歴史からも、自由党系対改進党系という構図が筆者の頭に浮かぶが、当時の主役はあくまでも、自由党系(立憲政友会)と薩長閥(山県-桂系)であった。山県の鼎立構想は、衆議院においては、自由党系はもちろん、改進党系にも劣る彼らが、同院でキャスティングボートを握るというものであった。そして実際に、山県-桂系を衆議院で代表する大同倶楽部(吏党系)は、自由党系(立憲政友会)から改進党系(憲政本党)に、組む相手を変えた(註2)。しかし、それはあくまでも衆議院に限ったことであった。政界全体では山県-桂系と自由党系が2大勢力であり、これまで見てきたように、改進党系はキャスティングボートを握ることができなかったから、そのような状況を反映して、衆議院でも自由党系と、以前よりは大きくなった吏党系との対立が、中心となり得たのである。ここからの展開は、政界のキャスティングボートを、引き続き自由党系(立憲政友会)が握っていたのか、貴族院の多数派にとどまらず、衆議院の第3極の多くを押さえた、山県-桂系が握るようになったのか、ということに注目すべきである。薩長閥が、自由党系と組まずに過半数の基盤を衆議院に得ることは、立憲政友会が入復党者を得て議席を増やしていく中で、困難さを増していた。しかし、薩長閥が立憲政友会を野党にすれば、同党はただ不利になるだけでなく、政権を担った政党としての国民からの反発も、受ける状況となり得る(当時はそうなるかわからない状況であったが、第1次西園寺内閣が増税をした後であれば、そうなっていたと想像される)。そこで衆議院の総選挙を行えば、薩長閥が、自由党系抜きで展望を見出す可能性はあったと考えられる。山県-桂系が中心の第2次桂内閣期に、それが本格的に模索されるのだが、政権を生み出し、かつ担う勢力として組む相手を選ぶということになると、キャスティングボートを握っているというのとは、少し違うだろう(次の第12章で見る)。

大石の1906年9月19日付の日記(同171~173頁)には、「元老干渉の弊は政権の授受を曖昧ならしめ、官僚政治を復活して憲政の精神を破壊するなり。」、「元老の干渉を防禦し憲政を發達せしむるの方法としては、憲政擁護同盟を組織して盛に干渉を排撃するの輿論を喚起すべし。」などとあり、大石の元老や官僚、つまり薩長閥に関する見方が、従来と変わっていないことが分かる。政党中心の内閣が成立しても、元老が総理大臣を決め続ければ、元老(薩長閥)の政権への影響力は非常に強いままで、事態がいつでも後退し得る。それを防ぐには、反薩長閥の連合体をつくり、衆議院、そして国民の間で絶対的に強い勢力となることで、総理大臣を選ぶ権限をうばうしかなかった(それで確実に可能になるわけではなかったが)。だがその後、総理大臣をどう決めるのか、それは国民ということだろう。少なくとも、その方向へと向かう考え方だ。しかし、薩長閥と立憲政友会のある種の連携を前に、立憲政友会と組んでもらえない憲政本党にとって、反薩長閥の連合体とは、以前の立憲政友会と憲政本党の連合から、第3会派以下をなるべく多く吸収した憲政本党等に、ならざるを得なかった。それでは元老の山県(少なくとも山県系の要人)に口を挟ませることになる。大同倶楽部と組んでも変わらないどころか、組むこと自体が矛盾であったのだ。立憲政友会中心の内閣の次は、山県-桂系が中心となる政権、少なくともその影響力がより強い政権になるはずであった。

とりあえず大石の日記をもう少し見ていく。1906年11月19日付には次のようにあり(同303頁)、大隈が党首を辞すべきだと考えていることが分かる。

門戸開放の實を擧ぐる爲には一切の役員を癈して黨員を同等同權に置き、唯事務を執るの幹事數名を公選すべし。評議員の數を減少し主に在京人を以てして、重要問題の際評議員會を起す可きなり。黨の内事は此れにて足れり。

總理は止めて黨との関係を薄くし置き、元老待遇の班列に加はらしめ遂に政黨以外に超然するを妙案なりとす。

大隈を元老待遇に棚上げすることで、党と無関係にするというわけである。もちろん大石がそんなことを決められるはずがなく、次の党首を出してもらう薩長閥と、ある程度連携して話を進めていくということにならざるを得ない。薩長閥に「次の党首を出してもらう」としたが、大石がそこまで考えていたとは考えにくい。まだ薩長閥の影響力を排除すべきだと、日記に記していた時期だからだ。そうであれば、あくまでも衆議院における憲政本党の再編による強化のための、話だ。しかし改革派は、薩長閥から党首を迎え、党の影響力を強化する考えになっていたと見られる(本章(準)与党の不振(⑧)~佐々の死と大同倶楽部の変化~、野党の2択(⑨)参照)。1906年12月6日付の大石の日記には次のようにある(同342~343頁)。

非官僚、非軍人、反元老、對政友會及び貴族院を標榜する新政黨を建立して、正々堂々姑息なる財政計畫、情實的軍備擴張を攻撃するは我國家を健全に發達せしむる上に極めて必要なり。帝國の憲法を擁護するに欠く可からざる新勢力なり。今若し孤立せる進歩黨にして政府部内の勢力と提携合同するに至れば、世は擧て閥族に謳歌し國民的勢力を代表する者なくして、日本の文明は後退を始めんか。豈嘆ずべきに非ずや。

吾黨の不平は理由の有無を問はず幹部の無能に起因するものと爲し、總理を初め政務委員も亦辭職して一時幹事制と爲し門戸開放の實を示し、場合に依らば他の同志を糾合して一旦自黨を解黨し更に新黨を樹立するも可なり。

些細なる言葉に拘泥すべきに非ず。區々たる名譽論を爲す可きにあらず。此際黨員の意思疎通を計り、離反者勿らしめんことを計るは最も得策成り。常務幹事を公選にする而巳ならず院内総理及び幹事も亦公選と爲すべし。本部從來の態度を一變して共和的執務の態度に改む可し。斯の如くすれば却て依頼心を抛棄て、人々黨に對するの義務を盡すに至らん歟。今日は一箇人の私黨たるが如き觀あり。時勢を察し社會の大局を見る者は、宜しく此の疑點を解釋し世間の同情を得べき形態に改めざるべからず。大隈の總理と我々の政務委員たるは共に門戸を狭からしむるの觀あり。須らく此の嫌を避く可きなり。

改革派と同じく党内の民主化、他の勢力の吸収を展望を開く策とした大石だが、前者を実行したからといって、選挙で議席が伸びていくと、確信できるものではなかった。大石が同志とする他の勢力を吸収しても、限界がある。憲政本党の議席が、少なくとも同志研究会系と合わせて過半数を上回るくらいにならなければ、薩長閥と渡り合うことはできないと考えると、130議席は必要で、これは同志研究会系と離脱者なく合併するか、離脱者の分を無所属からの参加者で補う必要があり、非常に難しいことであった。憲政本党、同志研究会系、大同倶楽部が議席を増やすことも容易ではなく、3者の合計が減る可能性もあることを考えれば、なおさらである。

少しさかのぼるが、次の1906年11月16日付の日記(『大石正巳日記』298頁)では、元老、官僚に対する批判的な姿勢を維持してはいるが、第1次西園寺政友会内閣を批判するトーンが強まっているように感じる。

現政府が憲政の發達を阻害し、國家の進運に不可なるの行動を取ること多々あり。大權の運用を無責任の元老と私議し、制を之に受くるは憲政の責任を没却する而巳ならず、國際間の交渉には屢々差誤遲緩を生ずるの危険あり。

元老に媚び官僚派に降れる結果、不能其器に非る人物を以て内閣を組織し、内治外政共に不振を來たし重きを内外に爲さず、政府に統一なく施政上着々失敗を演ずるに至れり。

~略~

大戦の後、武權の跋扈跳梁を抑制して軍人をして其軌道を逸せしめず、政權に浸食することを禦ぐは憲政を擁護するの道なり。現政府は就任の初め正式の態度に出でず、政權の授受を曖昧ならしめたるが爲に武人の乘ずる所となり、

大石の記述は、新民党のものであるかのようにも見えるのだが、立憲政友会への大政党の要人の反発は、立憲政友会を野党連合に引き戻そうとする、非改革派の考えだけでなく、立憲政友会に対抗し得る勢力になることを何よりも優先させようとする、改革派の考えにも、もちろん結び付くものであった。

12月12日付の日記において、大石の志向の変化は、明確に示されている。そこには次のようにある(同355頁)。

門戸開放は共和政治に習ひ、黨員の位置を同等ならしめ總理、政務委員等の役員を全癈す可し。幹事數名を設けて黨内の事務を擔當せしめ重要問題の起りし時は評議員を集めて議決せしむべし。政交樂部派の人々と協議して合同談を進める可し。來年の縣會議員、其翌年の總選擧に對する準備として、政友會の棟梁を抑へざるべからず。對政友會の目的を以て一大聯合を畫せざれば、政界の均衡を破壊せられんとす。

大同倶樂部も亦地盤甚だ薄弱なり、獨力を以て政友會と爭ふ可からず。同氣相求め、同危相救ふの法則として、之とも合同提携するの雅量を有せざる可からず。寧ろ進て之と妥協するの得策なるを悟るべきなり。

暫く軍備擴張に反對すべからず。都ての積極的經營案に反對すべからず。財政の計畫は不確實なるも之を攻撃すべからず。唯其成行に放任して天下一般に覺醒するの時を待つ可し。之に逆ふ者は國民の同情を失ひ、社會の有力なる部分を敵と爲すに至らん。今日は只忍耐沈黙するの一路ある而巳。

非政友会連合に明確に舵を切り、大同倶楽部との連携、合流を認めている。組織、地盤はある程度あるが、立場が弱い改進党系(憲政本党)と、組織、地盤が貧弱だが、薩長閥に連なるという一定の強みはある吏党系が、互いに補完し合うことを、双方の理念や政策の差異よりも、重要視する姿勢だと言える。かなり現実的になっている。さらに、立憲政友会の路線が有権者の支持を得ていることを認めている。積極財政を受け入れることなくしては、支持を得ることが難しいということも、認めているのだ。こうなると、自由党系(立憲政友会)と近いスタイルになる。この先に、大石の薩長閥(桂)への接近もあるのだろう。ただし、同月21日付に次の記述があるように(同373頁)、反薩長閥の姿勢自体は当時まだ、変わってはいなかった。

一切非立憲的の交渉を謝絶し、大小事件悉く議場に爭ひ、政府の施設する所は道理の有らん限り攻撃論難して残す所勿らしむ可し。現政府平日の態度として、元老に私議し命を官僚派に聽くの陋態を排斥せざる可からず。

12月26日付(同383~385頁)には対議会方針が示されているが、そこには増税反対等、野党らしい主張が並んでいる一方で、最後に、「一、政吏及び無所屬議員と交渉して新政黨の樹立を斷行し、次回の總選擧に備ふ可し。」とあり、大規模な政党再編を志向していたことがうかがわれる。このことから分かるのは、大石がただ薩長閥に寄ろうとするのではなく、まずは政党、会派間の、非政友会連合ありきであったことだ。

12月30日付には次のようにある(同388~399頁)。

政府者の爲す所と全然一致せば、更に匡弊の効なく進歩改善の實なきに至らん。黨員は化して悉く政府黨に加入することゝならん。さればとて強て反對するを事として世間の潮流に背馳せば、輿論の同情を失ひ識者の擯斥に遭ひ、黨の地盤は崩壊するに至らん。故に主義政策に就て研究を凝らし、國家の爲に不利ならんとする者に反對し、社會に幸福を増すべき点を首唱するべきなり。就中政府者の計畫する處よりも、よりよき方案を提出して爭はざるべからず。若し在野にして當局者よりも名案無しとせば當然政府の爲に打破せらるべし。何となれば政治上の知識劣れるが爲なり。

「対決より解決」を打ち出していた現在の国民民主党が思い出される。非優位政党(第2党)が非常にきびしい状況にあるという点については、日本はずっと変わらない。それだけに大石の答えは、より良い政策という、抽象的なものとなっている。政策を見直し、組む党派を選ばないということはしかし、結果として薩長閥に寄るということにつながる。

次からは、改革派が優勢になり、大隈が総理(党首)を辞任した後の記述である。1907年3月4日付に次のようにある(同419頁)。

大體に於て大同と歩調を一にすべし。假令彼れ分裂するも、減少するも其幾分かは我黨に附從するならん。國防問題及び積極的政策に固執して動く可からず。帝國の進軍と世界の体勢に抗すべからず。遂に吾黨をして政界の大勢力と結合せしむ可きなり。

提携相手として、大同倶楽部を重視している。当時、大同倶楽部は郡制廃止案に憲政本党と同じく反対していた。大同倶楽部が離脱者を出すなどし、以前ほど憲政本党にとって脅威とならない勢力になったことも、背景にあると考えられる。だがその意図がどうであれ、この大石の姿勢は、憲政本党内の、山県-桂系に寄ろうとしていた、対外強硬派の流れを汲む非改革派と、一致していた。3月28日付には次のようにある(同456頁)。

政治家は勢力の上に立たざる可からず。多數の同僚を率ひざる可からず。孰れも議論あり異説を抱ける輩なり。故に自から度量を大にし、清濁を併呑するの覺悟あるを要するなり。

すでに、遅くとも1年後に総選挙が行われる時期となっていた。それでも、「清濁を併呑する」というのは、おそらく衆議院においてのことである。まだ薩長閥に寄ることについて言及されてはいない。1907年4月7日付には次のようにある(同467頁)。

元老の愛憎を懼て内閣に不能の人物を入れたるは確に政務の擧らざる大原因なり。

内外施政の方針なく、戰後の経營に確乎たる經綸なく、切れ々々に當日の出来事を處理するが如く遣り方なり。

國有鐵道は徒に買収して各線路政府の管轄に歸せしむるを以て目的とすべからず買収後に於て益々延長を迅速ならしめ、其運業を簡易敏活ならしめ、運賃を輕して交通上に一段の利便を與へざる可からず。然れ共買収後は却て進歩の速力を減退せしめたり、民間自然の發達を阻害することゝなれり。

野党的な立場だが、憲政本党が1907年度予算案賛成に転じたことを忘れてはいけない。

註1:薩長閥ではなく、政党のように、明確な理念、政策、組織のあるような勢力の一員になるのなら、本心がどうであれ、その組織と基本的には同じ理念、政策であると見られ、それに準じた行動もとることになるから、話は別である。

註2:ただし、大同倶楽部と憲政本党だけでは、衆議院の過半数を上回らなかった。大同倶楽部から離脱者が続出したことなどにより、双方の合計は過半数のラインからどんどん遠ざかっており、第1次西園寺内閣成立当初であれば約15議席であったのが、第10回総選挙前には約45議席にまで広がる