1.政権交代論

(準)与党の不振・野党に対する懐柔、切崩し(⑧)~立憲政友会の他党派切崩し工作~

1907年度予算案は、軍備偏重だという批判もある中、立憲政友会と大同倶楽部、そして姿勢を変えた憲政本党の賛成によって、衆議院を通過し、成立した(この際桂は、貴族院から衆議院に回付された修正案について、大同倶楽部が賛成すること、つまり予算案の成立を助けるのと引き換えに、同派を切り崩さないことを西園寺に求めた。しかしそれを聞いた原は、桂に頼らず成立させられるとした(『原敬日記』第3巻34~35頁-1907年3月7日付-)。大同倶楽部にキャスティングボートを握らせようとしなかったのである。また、握らせないことを試みることが出来るほどに、立憲政友会は強くなっていた(3月7日にはまだ過半数に20議席以上届いていなかったが、9日にも4人が大同倶楽部から立憲政友会に移って来るように、第8回総選挙後の分裂で失った過半数の回復、あるいは少なくとも、親政友会議員を合わせての過半数到達を、視野に入れていたと思われる)。猶興会の藤崎朋之は3月12日、立憲政友会が大同倶楽部や無所属の議員を買収したと報じられたことについて、本院の体面に関し調査委員を設けるの件を提出した。

これを報じたのは、山県-桂系のやまと新聞であった。同紙は3月9日付から12日付において、以下の内容の記事を掲載している。()内は筆者が付した補足である。

9日付 :京阪電鉄株について(本章(準)与党の不振・野党の2択(⑧)~大同倶楽部分裂の兆し~参照)と、森久保作造が立憲政友会において議員買収の任を帯びたことについて

10日付:立憲政友会は憲政本党の議員の買収をあきらめ、森久保は竹芝館に大同倶楽部の高梨、栗原、尾身、小山田を呼んで3千円ずつ贈り、郡制廃止案への賛成を求めた。大同倶楽部と共にあることを欲しない4名は、賛成を約束してこれを受け取り、引きかえに立憲政友会への入会届を、森久保に渡した。憲政本党の愛沢寧堅は、鉄道事業の関係で森久保と政府関係者に迫られたが、賄賂は受け取らず、郷里に逃走すること(投票を棄権すること)を約束した。

(大同倶楽部の4名は、3月2日に立憲政友会に移っている。愛沢は憲政本党を脱しなかった。なお愛沢は、かつて河野と共に自由党を離党して東北同盟会を結成している)。

11日付:立憲政友会は無所属議員の買収も試み、井上角五郎に依頼した。井上は5千円を受け取り、大同倶楽部を脱した藻寄と武藤を、築地のホテルに招き、1千円ずつ渡し、快諾を得た。ただし井上は広島組への義理から、当日の欠席を約束するに留まった。上埜安太郎(立憲政友会)は、2、3人の議員の買収に成功した。

(井上は大同倶楽部の所属議員で、第10回総選挙後に立憲政友会に復党した。藻寄は7月28日に、武藤は同31日に立憲政友会入りした。)

12日付:上埜が、郡制廃止法案賛成、立憲政友会入りを条件に3千円を渡すとすると、関信之介が快諾して入会届を出した。浅野順平、田中喜太郎は入会できない関係があるとし、上埜は2千円での法案賛成を提案、2名は1万円での賛成、入会を提案、上埜が選挙の際には渡すとして、とりあえず2千円を渡すことを提案すると、これを断った。

(関は、3月2日に大同倶楽部から立憲政友会に移ったが、浅野と田中は大同倶楽部に留まった)

藤崎の緊急動議が可決されたことによって設けられた委員会では、買収されたと報じられた8名中、病気欠席の愛沢を除く7名が弁明をし、質疑に応じた。彼らはいずれも疑惑について否認した。寺井純司がしたように、大同倶楽部の党議拘束的なものの例外となることを求めなかった理由は、明確にされなかった。しかし、大同倶楽部がもともと郡制廃止に賛成していたことから、自派が変節したのだという彼らの主張には、一定の説得力があったと言える。また関は、同派が郡制廃止案について、自身と10年来相容れない進歩党→憲政本党と提携することを、同派離脱の原因として挙げた。これにも多少は説得力があった。結局、他の関係者の出席も求めるべきだという意見、衆議院に裁判所のような権能は無く、すでに事実無根が判明したとして、調査範囲の拡大を不要とする意見があり、採決の結果、出席を求めるべきだとする委員が8、不要だとする委員が9名となり、調査は終結となった。3月19日の本会議では、憲政本党の望月長夫が、世間の疑惑を説かずに議事を終了しようとしているとして、本院の体面に関する行為の有無を確認し得ないという、少数意見を出した。これは165対176で否決され(無記名投票だが、大同倶楽部は賛成したようだ―註―)、委員会の議決が可決された。

大同倶楽部が立憲政友会に切り崩されたこと自体は、原の日記(例えば1907年3月7日付―『原敬日記』第3巻―)を見ても分かるように、間違いない。3月2日付の萬朝報によれば、憲政本党の3人の衆議院議員に対して、立憲政友会が入党の交渉をしていたようだ。これは実現していないが、立憲政友会が、法案成立のために各勢力を切り崩そうとしていたことがうかがわれる。以上のような大規模な工作は、第1次山県内閣期の、山県系と、準与党であった自由党系の憲政党(星亨)によるもの以来であった。その時よりも、自由党系の優位性はずっと増していた(議席も分裂直後と比べて増え、政権の中心を担っていた)。過半数を割っていても、他の勢力を大きく引き離す第1党、第1会派であるうちは、困ることがあれば、他の勢力を切り崩せば良かったのだ。大同倶楽部は、純粋な吏党系に、立憲政友会の離党者や、中立派などが合わさったものであったが、中央交渉部の時代とは異なり、ただまとまりが弱いだけではなく、自由党系による切崩しのターゲットになった。この点で、吏党系の拡大は、帝国議会開設当初よりも難しくなっていたのである。

註:1907年3月22日付東京朝日新聞。大同倶楽部は、8名の議員が同派の離脱者であるため、記名投票の場合は少数意見に賛成せざるを得ず、個人的な利害関係が継続しているため、無記名投票の場合は収賄否認説に賛成する者もあるだろうとして、無記名投票を主張したという。立憲政友会はそれを信じて交渉に応じたのだが、大同倶楽部は少数意見に賛成したらしい。