日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
(準)与党の不振(⑧)~佐々の死と大同倶楽部の変化~

(準)与党の不振(⑧)~佐々の死と大同倶楽部の変化~

9月28日に佐々友房が死去したのは痛手であった。佐々は、第1回総選挙から連続して当選を続けていたベテランであり、熊本国権党の中心人物として、同党が第1回総選挙後の協同倶楽部(吏党系―大成会―との重複参加も多く、もう一つの吏党とも言える薩長閥支持派)参加の後、中央交渉部→国民協会→帝国党の系譜に、離脱者が続出する中で残留したことからも、その中心的な人物となり、さらに帝国党が参加した大同倶楽部の中心人物となっていた。佐々の死は、大同倶楽部の中の旧帝国党の中の熊本国権党という、最も地盤のしっかりした熊本国権党系を核とする、大同倶楽部の入れ子の構造の維持を難しくした。帝国党プラスαという面にやや隠れていた、帝国党+甲羅辰倶楽部の中立実業派出身者+甲辰倶楽部の立憲政友会離党者+会派自由党+無所属からの参加者という、多くの勢力の連合体としての面が、より目立つことになったのだと、見ることができる。この佐々の死については、当時内務大臣であった原敬も、佐々の死去当日の日記に次の通り(『原敬日記』第2巻続篇383頁)、自らの思いを記している。

大同倶樂部領袖佐々友房病死の法に接す、同人は舊帝國黨の領袖にて同黨代議士十七八名を率て初期議會已來政府黨たりしものなり、山縣候が先年余に帝國丈けは関心に國家に忠實なりと云ひたる事あり、國家に忠實なるもの必らずしも同黨に限らず、殊に彼等は歷代の政府に取入りて常に其恩惠に浴し居たるものにて、山縣は單に已を賛成する者を忠實なりと信じ、殊に守舊連は政黨を誹謗して亂臣賊子の如く云ふに際して常に帝國黨(元と國民俱樂部)を政黨外の如く思ふも不思議の次第なれども、兎に角政界の一部には多少の働きをなし居たり、領袖を失つて將來如何になるや知るべからざれども、佐々猶ほ春秋に富めり、其訃を聞き甚だ惜しむべきを覺えたれば明日弔訪する事となせり。

山県が吏党系を評価していることを皮肉っているのは、原が戦略上、やむを得ず薩長閥と協力していることを、示している。原は山県の、政党に否定的な姿勢を批判し、薩長閥に従順であることが国家のためではないとしているのだ。薩長閥は独善的であり、党利党略で動いているなどと、選挙で信任を得る政党を批判することはできない、という思いがあったのではないだろうか。話がそれたが、領袖を失った大同倶楽部の将来が分からないとしているのは、トップを失った組織がその後どうなるかは分からないという、一般論にとどまるものではなく、結成以来まとまりが弱かった同派が、変化する可能性が高いと、予想してのことであったと想像させられる。

佐々亡き後大同倶楽部を動かしたのは、山県-桂系の大浦兼武であった。公式に人事に反映されたわけではないが、それまで吏党系の背後にあった山県系が、直接吏党系の指導に乗り出したという面は、確かにある。安達謙蔵は回顧録において、「同志団体の大首脳を欠くことになったので、遂に大浦兼武氏が覆面を脱いで公然と政党統率に乗り出すこととなり、茲に再び小党派の合同を策して、予がもっぱら其の衝に当たることになった。」としている(安達謙蔵『安達謙蔵自叙伝』117頁)。大同倶楽部の後継である中央倶楽部も、大浦の主導で結成された(第10章で見る)。大浦は1907年3月28日、大同倶楽部の議員達との晩餐会を催し、次の演説をした(1907年3月30日付読売新聞)。

我同志諸氏が時勢の必要に依り本倶樂部を組織せし以來國家に貢献せし所決して尠なからず就中前期議會に於て鐵國案の通過に努めたるが如き本期議會に於て戰後経済に關する六億餘万圓の大豫算を恊賛したるが如きは其最も顕著なるものなり抑も本倶樂部の方針目的は偏せず黨せず國家的見地より當面の時事問題を解釋するに予は從來種々なる事情に依り公然本倶樂部に關係する能はざりしも自今は倶樂部及諸氏に對し敢て微力盡すの決心なれば幸に之を諒せられんことを望むに予及關氏のみの意志に留らずして他の政友に於ても亦同一の意見を有するものなり

報道を見ると、1906年10月25日付の東京朝日新聞が、佐々死後の大同倶楽部について、表面上は何も動揺がなく平穏であるとしながらも、立憲政友会出身の石塚重平、横田虎彦らの、立憲政友会に接近する方針に対して、旧帝国党系の妨害運動が強まっているとしている。両者は立憲政友会の出身で、甲辰倶楽部から大同倶楽部に参加しており、幹部派と報じられている。石塚は上述の通り後藤新平の配下と見られ、横田は第8章で見たように第1次桂内閣に切り崩されたと見られる。つまり立憲政友会離党者の中では、薩長閥寄りであった可能性が高い。大同倶楽部の幹部派が、立憲政友会との協力関係の継続を重視する同党出身者と、それに反対の帝国党出身者等とに、分化を始めた、あるいは本来の志向の差異が顕在化したのだと、考えられる。大同倶楽部はちょうど、山県、大浦の鼎立構想を最重要視する路線と、桂の、桂園路線とも呼べるような、立憲政友会と一定の協力をする路線との間にあったのだと、言っても良いだろう。1907年2月12日付の萬朝報は、清浦奎吾と大浦兼武が、彼らの勢力であるところの地方官、警察官を守るため、そして総選挙に干渉して彼らの勢力の手足である大同倶楽部を多数にするために、第1次西園寺内閣を倒して、自らの政権を成立させようとしていたものの、山県、桂に抑えられ、新内閣の与党にしようとしていた憲政本党も応じなかったために、挫折したと報じている。記事によれば、彼らは大隈に働きかけていたようだが相手にされず、憲政本党は桂ならばともかく、清浦や大浦と組むことは考えていなかったのだという。1907年2月28日付の同紙によれば、当時憲政本党の主導権を握っていた改革派が、児玉源太郎を担ごうとしており(原が大石に、児玉内閣ができてしまうとして、薩長閥中心の政権の継続を警戒して見せた、その児玉である-本章1列の関係(⑤)参照-)、清浦と大浦が大同倶楽部と憲政本党の提携を策し、犬養には相手にされなかったが、同時期に交渉をした改革派の鳩山和夫(当時はまだ憲政本党所属)と、大同倶楽部の臼井哲夫との会見、接近は実現したようである。大同倶楽部と憲政本党の接近は進んだが、この事象には、準与党の弱さが明確に表れている。主体的に行動しようとしても、薩長閥の付属物としてしか見られていないという、限界である。つまり、自分たちの頭越しに物事が決められ、進み、不利になる危険に、いつもさらされているということである。 1907年4月6日付の読売新聞は、帝国党が、清浦、大浦ら第1次桂内閣一派と共に、三分説を唱え、陽に立憲政友会と組み、陰に無所属派によって同党を牽制しており、大浦は大同倶楽部の客分ではなく、後見人の地位にあるとしている。記事はまた、郡制廃止法案によって、貴族院で西園寺内閣に対する批判が強まり、憲政本党がこれに応じようとしたことで、天下三分の機が熟したとする大浦が、大同倶楽部を指揮することになると見ている。大同倶楽部から立憲政友会に移っていた高梨哲四郎、宮部襄は、西園寺総理、徳川貴族院議長に提出した建白書の中で、貴族院議員であるにもかかわらず、大同倶楽部の領袖を自認して政争に身を投じる、大浦を批判している。三分とは、山県-桂系(吏党系を含む)、立憲政友会、憲政本党以外には考えられないわけだが、大浦の構想は衆議院内も含め、山県-桂系・憲政本党対、立憲政友会の2極化に近いように見える。無所属派を使って立憲政友会をけん制するというのも、同党の、過半数を上回る勢力の形成を防ぐという意味に近いと思われる。いずれにせよ、大浦に率いられるようになった大同倶楽部が、2回目の郡制廃止法案提出を契機に、山県の意も汲む大浦の志向に準じて、反政友会の色を強めたのは確かである。これにより、山県-桂系が、最大政党の立憲政友会と協力していた状態よりは、大同倶楽部が重要視される状況となり得た。

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