1.政権交代論

(準)与党の不振・野党の2択・野党に対する懐柔(⑦⑧)~大同倶楽部の分裂~

大同倶楽部の野党化は、第1次西園寺内閣の衆議院における基盤の過半数割れを起こさせる、大きな出来事であった。大同倶楽部はその結成当初から、内部対立によって揺れた。結成直後に参加を了承していない議員等が離脱、以後も離脱者が続出した。ここではその、大同倶楽部の分裂と変化について見る。長くなるので、最初に述べておくと、役員の公選が、幹部派と非幹部派の取引材料となり、採用される。それは指導者に及ぶものではなかったが、それでも評価することができる。中小規模の勢力同士が合併した勢力であり、大政党が核とならなかったからこそ、不満が高まり、本来保守的な薩長閥支持派であっても、党運営(正確には政党ではなかったが)の民主化が進んだのである(その先もあり得たとは言い難いが)。それでは見ていくこととする。

参加を了承していないとして離脱した橋本久太郎、板東勘五郎、大久保辨太郎、川真田徳三郎、岩本晴之、鵜飼退蔵のうち、橋本、板東、川真田は、1903年7月26日に立憲政友会を離党した議員達であった。この3名のうちの橋本、板東、また大久保は、1907年9月26日に、岩本は第10回総選挙後の1908年11月20日に、立憲政友会に入復党した。川真田は原に、同党に復党するよう誘われたが(『原敬日記』第2巻続篇397頁-1906年11月7日付-)、無所属を貫き、第13回総選挙後には新政会に参加、残る岩本と鵜飼は、大同倶楽部離脱後、鵜飼が会派に所属せず議員生活を終え、岩本が第10回総選挙で当選した後、立憲政友会入りした。ここで見た議員達は、無所属として当選しており、鵜飼を除いては徳島県内の選出であった(岩本が市部選出。鵜飼は滋賀県郡部選出)。離党者が続出する前まで立憲政友会が強かった徳島県が、元の状況に近くなったのだ。

続いて離脱したのは、松井源内であった(1905年12月28日)。松井は政交倶楽部の結成に参加、つまり同志研究会の系譜に移ったのである。そして1906年に入ると、1月20日に千葉禎太郎、本出保太郎が立憲政友会に移った(1月9日に高木龍蔵が離脱したが、4月2日に復帰した。また1月4日には福地源一郎が死去し、その補欠選挙で立憲政友会の江間俊一が当選した)。わずかな移動ではあったが、衆議院で他の会派を引き離し、政権の中心を担う政党にもなった立憲政友会へと、議員が移るという現象は、時の権力(山県-桂系-中心の前内閣-第1次桂内閣-)に寄っていた議員達が集まった大同倶楽部の、弱点が露出したものであった。また、参加を了承していないとした議員が出たのは、大同倶楽部の結成が、無理に規模を拡大しようとする合流であったことを、物語っている。

4月3日には、藻寄鉄五郎と武藤金吉が離脱した。その兆候は、前月に現れていた。3月9日付の東京朝日新聞は、藻寄、武藤、高梨哲四郎が発起人となり、非幹部を標榜して、会合を4日に開いていたことを報じている。参加者は発起人3名の他、丹尾頼馬、牧野逸馬、関信之介、田中喜太郎、嶺山時善、持田若佐、中谷宇平、小河源一、久保伊一郎、栗原宣一であったという。このうち、丹尾、牧野、関、藻寄、田中、嶺山、持田、若佐、中谷が会派自由党出身、高梨、小河、久保、栗原が甲辰俱楽部出身、武藤は会派に属した経験がなかった。帝国党出身者がいないこと、会派自由党出身者が多いことが分かる。会派自由党出身者はつまり、立憲政友会を離れた者達であったと言え(立憲政友会の衆議院議員であったことがない場合でも、基本的には同党の系譜の出身者だと言える)、さらに甲辰倶楽部の4名も、高梨を除き、立憲政友会所属の衆議院議員であったことがある(ただし、後に立憲政友会に移ったのは、4名のうち高梨と栗原だけである)。1906年4月5日付の東京朝日新聞は、旧帝国党系と旧甲辰倶楽部系の団結が強固になってきたものの、それらと旧会派自由党系、旧無所属とは常に意見が衝突し、前二者が後二者を切り離そうとしていることを報じている。上で非幹部派とされている議員は、小河と久保が甲辰倶楽部を経てはいるが、高梨、武藤、藻寄という発起人の3名と嶺山を除いて、立憲政友会出身である。そして藻寄、嶺山も、会派自由党の出身である(非幹部派とされている議員のうち、藻寄、武藤、高梨、丹尾、牧野、関、栗原と、半数以上が立憲政友会に入復党する。1906年の年末、12月24日付の東京朝日新聞は、高梨哲四郎(無所属か中立会派所属の体外強硬派であったが、一時憲政本党に所属)、岡田治衛武(大同倶楽部が初めての所属会派)、横堀三子(立憲自由党、憲政本党、交友倶楽部出身)らを非幹部派の中心とし、河上英と宮部襄(共に会派自由党を離脱し、-宮部は有志会を経て-大同倶楽部結成に参加)を急先鋒とし、会派自由党系が加わったとしている(高梨、河上、宮部は立憲政友会入りする)。1906年4月5付に戻るが、記事は加入予定の徳島、広島両県の議員を会わせて、大同倶楽部が50議席を維持するとしているが、旧会派自由党系、旧無所属のほとんどを切り離すというのでなければ、あり得ることであった。ただし、幹部派が会派自由党と無所属の出身者を自ら切り離すことはなく、広島、徳島両県の議員は、実際にはほとんど加わらなかったようだ。『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、4月2日の加入となっている松本大吉(広島県郡部選出で会派自由党を離脱していたが、同時期に離脱した議員達と違って、大同倶楽部に参加していなかった)、脇栄太郎(広島県郡部選出、巴倶楽部、山下倶楽部出身)、高木龍蔵(尾道市選出、解散まで会派自由党に属していた)のみとなっている。徳島県選出の議員は一人も加わっていない。そもそも徳島県内選出の、須見千次郎(憲政本党所属)を除く全議員は、参加を承諾していないとして、結成直後に大同倶楽部を離脱した議員達であった(彼らを改めて加える計画があったのだとしても、失敗したことになる)。広島県について見ても、高木は1月9日に離脱したものが、復帰したというだけであったし、高木、松本、脇以外の広島県内選出の無所属議員(小田貫一―解散まで会派自由党に属していた―と米田武八郎)は加わらなかった。大同倶楽部には確かに、広島県内選出議員が比較的多くはなったが、旧帝国党系の荒川五郎、立憲政友会出身で無所属から参加した井上角五郎という、幹部側と非幹部側と思われる議員がいたのだから、安定した基盤となりにくかったように見える。ただし井上は、無所属から大同倶楽部に参加した議員ではあるものの、後述する通り幹部派であったという報道と、非幹部派であったという報道があり、途中で変化したのかということも含めて、定かではない(伝記によれば、かつて属していて政見が合致する立憲政友会ではなく、政策の異なる憲政本党と合流することに反対であったようだから―『井上角五郎先生伝』273頁―、反政友会連合形成の気運が高まったのを機に変わったのかも知れない)。そうであれば、広島県は幹部派が押さえていたのだろう。しかしそれでも、第10回総選挙後の1909年3月15日に、井上は立憲政友会に復党する。そして脇も、1907年3月2日に立憲政友会入りした。なお、1906年12月24日付の東京朝日新聞は、高梨哲四郎(無所属か中立会派所属の体外強硬派であったが、一時憲政本党に所属)、岡田治衛武(大同倶楽部が初めての所属会派)、横堀三子(立憲自由党、憲政本党、交友倶楽部出身)らを非幹部派の中心とし、河上英と宮部襄(共に会派自由党を離脱し、-宮部は有志会を経て-大同倶楽部結成に参加)を急先鋒とし、会派自由党系が加わったとしている。

1906年4月2日、大同倶楽部非幹部派の集会を幹部派が訪れると、藻寄が幹部派の野尻に暴行を加えるという事件が起こっていた。武藤が野尻を室外に呼び出して話をしていた際のことであり、大同倶楽部の代議士会は、藻寄と武藤を除名するかどうかでもめた。このことを報じた3日付の東京朝日新聞の記事は、次の議員達を幹部派として挙げている。()内には筆者が出身政党、会派を記した。佐々友房(帝国党)、石塚重平(甲辰倶楽部)、原田赳城(帝国党)、安達謙蔵(帝国党)、浅羽靖(有志会)、野尻邦基(甲辰倶楽部)、谷沢龍蔵(帝国党)、横田虎彦(甲辰倶楽部)、小河源一(甲辰倶楽部。上述の通り非幹部派の会合にも出席していた)、岡井藤之丞(帝国党)、福島宜三(甲辰倶楽部)、是永歳太郎(甲辰倶楽部)、大戸復三郎(甲辰倶楽部)、井上角五郎(第9回総選挙後は無所属であった)、武市庫太(帝国党)、駒林広運(会派自由党)、兼松凞(会派に属したことがなかった)、三井忠蔵(甲辰倶楽部)。合流前の議員数に比して、帝国党が多い。帝国党出身者と、甲辰倶楽部出身者の一部が大同倶楽部の中心であり、もともと無所属議員の集まりであった甲辰倶楽部が、上述したように主流派と反主流派に分かれていたと言える。幹部派に挙げられている甲辰倶楽部の議員を見ると、是永だけが後に立憲政友会に移っている。また、石塚、野尻、横田、小河が以前立憲政友会の衆議院議員であり、福島、是永、大戸、三井がそうではなかった。石塚は後藤新平の配下であったと、原敬の日記には記されている(『原敬日記』第2巻続篇419頁-1906年12月15日付-)。幹部派は当然ながら、少ない例外を除いて、立憲政友会に移っていないと考えられる。暴行については、佐々が藻寄と武藤に脱会を勧告し、野尻が告訴を取り下げることで、収まった。これは井上角五郎の案であったという(1906年3月9日付読売新聞)。両者は4月3日に大同俱楽部を脱し、藻寄は1907年7月28日に、武藤は同31日に立憲政友会に入った。やはり立憲政友会だ。また、北陸派の田中喜太郎、関東派の田村順之助、関信之助、須藤嘉吉が常務員となった(1906年4月5日付読売新聞)。大同倶楽部が初めての所属会派であった須藤以外が会派自由党出身であり、つまり非幹部派である可能性が高く、これが幹部派と非幹部派の対立を、終息させるための人事であったことがうかがえる。大同倶楽部ではさらに、瓦解を回避するため、幹部派と、大浦ら後見人の間で、元熊本藩士で、侯爵の細川護成を総裁に担ぐ構想があったようである(1906年5月31日付読売新聞)。

1906年10月30日付の東京朝日新聞は、「政友會脱走連」、つまり大同倶楽部内の立憲政友会出身者が、立憲政友会の幹事らと晩餐を共にしたことが、大同倶楽部内部の猜疑を招いたとしている。また、非幹部派の首領と見られる高梨が同志を集め、それが前内閣派であり、西園寺と桂の間に政見の間隔が生じる場合には、躊躇なく立憲政友会の反対者になるとしつつ、目下のところは前議会の方針を踏襲すれば足りるとしたことを報じている。高梨らは、結局1907年3月2日に立憲政友会入りするのだし、記事が書かれた当時、大同倶楽部の非幹部派と立憲政友会とが、距離を縮めていたことは確かだろう。1906年11月1日付の東京朝日新聞によれば、桂が非幹部派の牛耳を握る有力者を自邸に招いて、一致の行動をとるように言った。記事はこの有力者について、「井上角五郎氏なりと聞く」としている。そして井上が高梨を訪ね、幹部反対派が全体協同一致の運動をなすことを申し合わせたとする。同月5日付の同紙は、幹部改選の際、非幹部派からも1、2名を選出することが幹部派、非幹部派の調停の条件であったとする。同時に記事は、藻寄と武藤の復帰について、幹部が承認した場合、離脱するべきだとする、反対の議員もいることを伝えている。復帰させれば幹部派側、復帰させなければ非幹部派側から離脱者が出かねない状況であったのである。さらに翌6日付の同紙は、立憲政友会を通じて原内務大臣に接近しようとする一派がいるとしている。1906年10月9日付東京朝日新聞が、大同倶楽部の内訌について、統率する領袖がなく、互いに権勢を争っていることが原因だとしているように、大同倶楽部内の対立は、政策や方向性の差異よりも、主導権争い(特に佐々亡き後)を中心としていた。ここに政権の中心を担い、過半数の議席を回復しようとする立憲政友会の手が伸びた場合、大同倶楽部の分裂は避けられなくて当然である。

このようなことがある一方で、4月2日に松本大吉、脇栄太郎が、12月3日に柴四朗、佐治幸平、竹内正志が加わり(3者とも立憲改進党以外から進歩党~憲政本党に参加した議員であり、対外強硬派であったと見られる)、大同倶楽部は12月3日の段階で、79議席にまで勢力を戻している(脇は前述の通り翌1907年3月2日に立憲政友会に移るが)。一進一退だと言えるが、9月28日に佐々友房が死去したのは、痛手であった(本章(準)与党の不振(⑧)~佐々の死と大同倶楽部~参照)。1906年12月24日の東京朝日新聞と萬朝報によれば、非幹部派は牧野、横堀、宮部、横山、嶺山を交渉委員とし、大同倶楽部の常議員総会に、役員を公選とすること、非幹部派から2~3名を院内委員とし、人選は当分非幹部派の申し出を容れること、政党でない大同倶楽部に除名は不要であるため、除名規約案の取り消しを求めた。しかし同派の常務会は、除名規約は撤廃したものの(関と尾見の仲介があったという)、役員公選は可決されているとして、他の要求について拒んだ。このため、以下の議員達が25日に離脱した。所属会派の変遷も付した。彼らは当分無所属として、機が熟すのを待ち、1月に新たな倶楽部を結成するらしいと、記事はしている。公選は後述の通り実践されたので、それでも離脱したということになる。

 

・甲辰倶楽部出身者(栗原は当初会派自由党に参加していた)

森秀次   立憲政友会→甲辰倶楽部→大同倶楽部→中央倶楽部→憲政会

高梨哲四郎 山下倶楽部→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部→中立倶楽部→中正倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

栗原宣太郎 立憲政友会→交友倶楽部→会派自由党→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

 

・会派自由党出身者

宮部襄   会派自由党→有志会→大同倶楽部→立憲政友会

河上英   会派自由党→大同倶楽部→立憲政友会

矢島中   立憲政友会→会派自由党→有志会→大同倶楽部→立憲政友会

横堀三子  自由党→立憲自由党→憲政本党→交友倶楽部→大同倶楽部

関根柳介  立憲政友会→交友倶楽部→会派自由党→大同倶楽部→立憲政友会

牧野逸馬  立憲政友会→会派自由党→大同倶楽部→立憲政友会

嶺山時善  政友倶楽部→会派自由党→大同倶楽部

 

・有志会出身者

小山田信蔵 有志会→大同倶楽部→立憲政友会→新政倶楽部→政友本党

 

・会派に所属していなかった議員

岡田治衛武 大同倶楽部

横山一平  大同倶楽部→立憲政友会

尾見浜五郎 大同倶楽部→立憲政友会

 

会派自由党出身者が多く、会派自由党出身者だけを見ても、全体を見ても、立憲政友会入りする議員が多い。会派自由党は立憲政友会から分かれてできたわけであるが、甲辰倶楽部出身者も、3名中2名が立憲政友会出身で、2名が立憲政友会入りする。幹部派は常任幹事、院内理事を公選とし、これを実施した(1906年12月24日付東京朝日新聞)。常務幹事には帝国党出身の安達、甲辰倶楽部の野尻(立憲政友会出身)、山根、有志会出身の浅羽、会派自由党出身の中谷、院内委員に甲辰倶楽部出身の石塚(立憲政友会出身)、帝国党出身の原田赳城、憲政本党から移って来た柴四朗、会派自由党出身の田村順之助、議員同志倶楽部、中立倶楽部出身の臼井哲夫が選ばれた。そして、その双方の指名による院内理事には、帝国党の荒川五郎、石田孝吉、甲辰倶楽部出身の久保伊一郎(立憲政友会出身)、矢島浦太郎、第9回総選挙に当選してからは無所属であった城重雄(以前は政友倶楽部、同志研究会に所属)が就き、同様の協議員については、先送りにされた。ここで名の挙がった議員のうち、非幹部派であることが分かるのは、中谷、久保である。ちなみに城重雄は、1906年12月25日付の読売新聞によれば、幹部派に同情を表する大浦の自邸に招かれ、離脱を思いとどまった。12月24日付の東京朝日新聞によれば、離脱した議員達の不満は、常務幹事であった横田の専横、藻寄、武藤の復帰に反対する幹部派の姿勢に起因していたのだという。そして記事は、離脱者が増えることを恐れた幹部派が、除名に関する非幹部派の要求をのみ、常務幹事に中谷宇平と山根正次を加えたこと、臼井の調停によって、横堀、横山、宮部、牧野、嶺山が脱会届を撤回したと、伝えられていることを報じている。そして、2名の相談役を大同倶楽部に新たに設け、人選を離脱者に一任するという条件が出されたことも報じている。さらに26日付の同紙は、鉄道国有化賛成の功により、大同倶楽部が京阪電鉄の権利株を得て、所属議員で分けるなどした際、本部新築費に充てた分について、帝国党の本部が焼失した際に、第1次桂内閣から費用を得ていたために不要であり、これを幹部の一派が得たと疑う非幹部派が、幹部派に質しても要領を得ないため、自ら幹部になろうとしたことが、離脱の裏面の理由だとしている(原敬は1906年6月8日付の日記において、京阪電鉄の株を立憲政友会と大同倶楽部に分配したことを否定している-『原敬日記』第2巻続篇346頁-)。

結局、院内委員が一度総辞職し、新たに1名を加えた6名で再出発することとなり、離脱した議員達は復帰することになった。これは実現し、石塚重平、原田赳城、臼井哲夫、田村順之助、柴四朗の他、非幹部派の横堀三子が新たに選出され(1906年12月28日付読売新聞。臼井の当選は報じておらず、非幹部はで院内院に選ばれなかった岡田等、非幹部派に不満を持つ者がいるとしている)、1907年1月19日に離脱者達が正式に復帰したが、うち河上、宮部、関根は復帰せず、前日に立憲政友会入りしていた。1907年1月8日付の萬朝報は、役員公選の実が無いことから、交渉を受けても復帰を拒んでいた河上、宮部に対して、立憲政友会の側に、入会(入党)の勧誘をする者があったことを伝えている。1月13日付の原の日記(『原敬日記』第3巻14~16頁)によれば、入会を取り計らったのは、同党幹事の秋岡義一と菅原傳で、日向輝武(同攻会に属していたが、1906年1月20日に同党に復党していた)が斡旋した。この日記で興味深いのは、西園寺総理(立憲政友会総裁)が、清浦と共に大同倶楽部の黒幕とされていた関淸英と交渉をしており、大同倶楽部の離脱者を入党させないことを、西園寺が関と約束したのだと考えた原が、不満を示していることである。ここでは強い政党が他の勢力を切り崩すことの是非が問題となっているからである。切崩しなどするべきではないというのは正論であるとも、きれい事であるとも、言うことはできる。「随分西園寺の爲め内閣の爲め及び政黨の爲めに常に惡まれ役となりて盡力せしも、余は西園寺よりも政黨よりも何等の報酬をも得たることなし馬鹿々々しき限りとて大に不平を鳴らせしに、」と記した原からは、政党内閣が当たり前ではなかった当時における懸命さと共に、他の議員を引き抜くことにためらいを見せない、自民党のDNAを感じる。第1次桂内閣寄りでった大同倶楽部の場合は、山県-桂系という優位政党以上と言える、大きな後ろ盾があった。しかしそれでも、衆議院では少数派の集まりであり、立憲政友会中心の内閣の成立によって、内閣に一番近い会派ではなくなったことで求心力が低下、旧党派間の溝が顕わになったのだと考えられる。権力を持つ勢力に近い、あるいはそれと対立関係にあるだけで集まった勢力は、とくに自らが不利になると、まとまりを失う。今なお繰り返されていることだ。

翌14日付の日記(同16~17頁)によれば、原は郡制廃止について、将来山県系を「無勢力」にする重要な問題であるとし、多数派工作を自らに一任すべきだという考えを示した。また大浦兼武が、第1次西園寺内閣と立憲政友会について、山県系と結ばずには存在し得ないとし、西園寺が原、松田を辞めさせ、立憲政友会との関係を絶ち、超然内閣を組織することになると、大同倶楽部の離脱者を説得し、河上と宮部以外を復帰させたとしている。原は立憲政友会と山県系のシビアな関係を西園寺が理解していないというスタンスで注意をし、西園寺が謝罪し、今後は関と交渉しないこととしたのだという。この記述には、吏党系に、薩長閥寄りであることによって、一定の求心力が働いていたこと、そして、薩長閥(山県-桂系)と自由党系(立憲政友会)が、いずれ衝突する宿命にあることが表れている。

まずは繰り返しとなるが、河上、宮部、関根は、1月18日に立憲政友会入りした(同日、会派自由党解散後無所属であった小田貫一、有志会解散後無所属であった辻寛も、立憲政友会入り)。他の離脱者(横山、横堀、栗原、小山田、尾身、岡田、嶺山、森、高梨、矢島、牧野)は翌19日、大同倶楽部に戻った。しかし1907年3月2日、矢島中、高梨、小山田、栗原、尾身の5名が、わずか1ヶ月半弱で再度、今度は脇、山口と共に離脱し、立憲政友会入りした。この7名を、所属会派の変遷と共に見る。

・甲辰倶楽部出身者(栗原は当初会派自由党に参加していた)

高梨哲四郎 山下倶楽部→憲政党→憲政本党→議員同志倶楽部→中立倶楽部→中正倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

栗原宣太郎 立憲政友会→交友倶楽部→会派自由党→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

・会派自由党出身者

矢島中   立憲政友会→会派自由党→有志会→大同倶楽部→立憲政友会

・有志会出身者

小山田信蔵 有志会→大同倶楽部→立憲政友会→新政倶楽部→政友本党

・第9回総選挙後、会派に所属していなかった議員

尾見浜五郎 大同倶楽部→立憲政友会

脇栄太郎  巴倶楽部→山下倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

山口小一  大同倶楽部→立憲政友会

前に離脱した14名と比べ、立憲政友会出身者の割合が小さく、無所属であった議員の割合が大きい。3月2日付の東京朝日新聞によれば、このうちの5名(記事では単に5名となっており、氏名は記されいない)については、朝野一致して戦後経営を完うすべきことから、政府の予算に対して寛大であったにもかかわらず、舌の根も乾かないうちに、政権簒奪の陰謀を企て、郡制廃止案に反対したということが、離脱の理由であった(脇、栗原、高梨、小山田らの立憲政友会入りは3月1日とされている)。高梨は、対外強硬派であり、無所属か中立会派の所属であったことが多かった。第1次山県内閣期に、地価修正法案に反対する憲政本党を離党していることから、同内閣側に切り崩されており、第1次西園寺内閣期にも、再び時の内閣(第1次西園寺政友会内閣)の側に切崩されていたと想像することはできるが、定かではない。記事の通りであるとすれば、挙国一致を大義に第1次桂内閣に寄ったように、当時の内閣である、第1次西園寺内閣に寄る姿勢を維持しようとしたのだと言える。彼らは国のため、常に時の内閣に協力すると言っているに近い。問題があっても指摘すらしないということではないが、議会政治は数を巡るゲームであり、そこでは時の政権に味方するということになる。これで彼らの主張がどれだけ通るのだろうか。いや、主張を通すというよりも、権力者に頼むということなのだろう。塩専売廃止建議案が、まさにそうであった(本章(準)与党の不振・新民党(⑧)参照)。脇の立憲政友会入りは、恒松、小田の紹介であったのだという(1907年3月2日付東京朝日新聞。恒松隆慶は立憲政友会の衆議院議員、小田貫一は上述の通り会派自由党解散後無所属であったが、先に立憲政友会入りしていた)。同日、武市、7日には寺井も離脱(1907年3月3日付東京朝日新聞によれば2日に除名)、無所属となり、武市は26日に立憲政友会入りした。3日付の東京朝日新聞は、1日夜から2日の朝にかけて武市、山口、関が離脱したとしているが、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部では、寺井以外の8名とも2日となっており、うち、武市以外の7名が同日中に立憲政友会入りしたと記されている)。さらに3月8日、横山、牧野、丹尾、是永が立憲政友会に移り(1907年3月8日付の東京朝日新聞は、是永の離脱を3月6日、立憲政友会入りを同7日としている)、27日、田中藤次郎が離脱、無所属となった。上の7名の後に離脱した6名についても、会派の変遷を見ておく。今度は立憲政友会、その前身の自由党系の出身者が多い。

・帝国党出身

武市庫太  会派自由党→憲政党→憲政党→帝国党→大同倶楽部→立憲政友会

・会派自由党出身

牧野逸馬  立憲政友会→会派自由党→大同倶楽部→立憲政友会

丹尾頼馬  立憲政友会→会派自由党→大同倶楽部→立憲政友会

・甲辰倶楽部出身

寺井純司  立憲政友会→交友倶楽部→甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

是永歳太郎 甲辰倶楽部→大同倶楽部→立憲政友会

・第9回総選挙後、会派に所属していなかった議員

横山一平  大同倶楽部(離脱後復帰し再度離脱)→立憲政友会

1907年1月14日付の萬朝報は、大同倶楽部が政党的な基礎をつくり、「所謂天下三分策」を実行することを決めたと報じているが、団結力に乏しい状況では、個々の議員によって地盤はある程度つくれても、旧帝国党系、会派自由党系が志向していた政党化(1907年4月25日付読売新聞。旧甲辰倶楽部系、旧無所属が反対であることも報じている)を、さらなる分裂を回避しつつ実現するのは難しい状況であった。非幹部派と報じられている議員達、政党化に否定的な議員達が内部にいたのだから、想像に難くない。なお、1907年3月13日付の東京朝日新聞は、石川組と称する田中喜太郎、中谷宇平、浅野順平が、大同俱楽部から立憲政友会へ移ることを決め、手続きをしたたことを報じている。彼らと藻寄は、会派自由党の石川県選出の全4名である。彼らが、1906年4月に離脱を余儀なくされた藻寄と、行動を共にしようとしたと考えることもできる。しかし、『議会制度百年史』院内会派編衆議院の部には、そのような移動に関する記述はない。田中も浅野も後に憲政会に所属しているし、立憲政友会に復党したとは考えにくい。第23回帝国議会の会期終了日(1907年3月27日)には、大同倶楽部は62議席にまで減っていた(憲政本党は同日94議席であった)。

1907年4月17日付の読売新聞は、かえって自己の勢力を削ぐことになるのを避けるため、表面的な動きを抑制している桂の姿勢が、大同倶楽部内の軋轢を大きくしていると見ている。そして同派内の各派を次のように分類している。()内は筆者が付した。

・帝国派:死去した佐々友房が率いていた旧帝国党で、後継者は安達。大同派の主人役、山県系-桂の手足で、大浦に相談せず直接桂に問う。安達謙蔵、原田赳城、大野亀三郎、石田孝吉、石谷伝四郎、大畑純次、大淵龍太郎、岡井藤之丞、渡辺敬昌、谷沢瀧蔵、山田省三郎、福留清四郎、藤井牧太、江角千代次郎、阿部勇治、荒川五郎、栄川一雄

・自由派:林有造が率いた旧自由党(会派自由党)。大浦系の直参。田村順之助、田中喜太郎、中谷宇平、松元剛吉、持田若佐(若狭)、石塚重平、小河源一、浅野順平

・甲辰派:旧甲辰倶楽部。桂派に属する。福島宜三、服部小十郎、星野長太郎、大戸復三郎、奥村善右衛門、片山正中、兼松凞、横田虎彦、内貴甚三郎、南條吉右衛門、久保伊一郎、矢島浦太郎、山根正次、三輪猶作、七里清介、森秀次、鈴木総兵衛

・中立派:旧無所属で桂と関係が深い。臼井哲夫、井上角五郎、高木龍蔵、松本大吉、佐藤里次(正確には里治)、三井忠蔵、城重雄、須藤嘉吉

・進歩党:近頃進歩党(憲政本党)から、佐々が斡旋、実際は桂が入会させた一派。柴四朗、竹内正志、横堀三子(憲政本党から移っているのは柴と佐治であり、竹内と横堀は憲政本党出身ではあるものの、横堀は交友倶楽部、竹内は三四倶楽部や政交流倶楽部、つまり新民党を経ている)

旧帝国党系のリーダーであった佐々が死去し、大同倶楽部に対する大浦の影響力が強まることで、立憲政友会に寄っていた大同倶楽部の、反政友会の色が強まったのだということが考えられる。甲辰倶楽部から、あるいは甲辰倶楽部を経て大同倶楽部に参加した立憲政友会出身者を見ると、非幹部と分かるのは久保伊一郎くらいだから、立憲政友会の出身であっても、甲辰倶楽部に参加していた議員達の多くは幹部派、会派自由党に属していた議員の多くは非幹部派であったと見られる。だが、大浦直参とされている会派自由党系が、反政友会であったという点も分かりにくい。大同倶楽部の会派自由党出身者17名のうち、立憲政友会に移っていないのは、田中、中谷、松元、浅野、嶺山、持田、他に上で挙げられていない高木龍蔵、駒林広運、松本大吉の9名であり、半数を超えている。他に上で自由派として挙げられているが、会派自由党出身ではなく、甲辰倶楽部を経ている石塚と小河も、立憲政友会には移っていない。上で自由派とされている議員のうち、田村以外は立憲政友会に移っていないのだ(田村は次の第10回総選挙に出馬せず、第11回総選挙では立憲政友会から出馬して当選している)。しかし、会派自由党系で、前述の通り非幹部派の急先鋒とされている河村、宮部、そして関、丹尾、藻寄は立憲政友会に移っているものの、同じく非幹部派とされている中谷、田中は移っていない。会派自由党系のうち、大浦の影響下にあった議員が反政友会であり、そうでない議員達が親政友会であった可能性がある。もちろん親政友会といっても、与党となった立憲政友会に戻ろうとしただけかも知れないが。

単に幹部派が立憲政友会中心の内閣に協力していたことに反発していたのではなく、単に旧帝国党主導であることに反発していた議員達もいた。会派自由党を経て大同倶楽部に参加した議員を見ると、立憲政友会に移っていない者の方が多いから、大浦の影響下にあった議員の方が、数は少し多かったと考えられる。なお、河村と宮部は早期に会派自由党を離脱しているから、他の会派自由党出身者とは異なるのかも知れない。

 

図⑨-F 桂園体制における吏党

桂は、大同倶楽部が野党的な動きを起こすことについて否定的であったと考えられる。下記の通り、原にはそう見えていた(全く警戒していなかったというわけではないが)。一方で山県は、少なくとも否定的ではなかったように見える(郡制廃止法案を衆議院でも否決させようとしていたことなどから)。西園寺への政権の禅譲は、元老ではなく、伊藤や山県からの世代交代を志向する、桂が主導した。つまり、同じ山県-桂系としている勢力の中でも、立憲政友会との間の政権の交代に、条件付きであれ肯定的であった桂と、立憲政友会という政党が中心となる内閣に否定的な、山県との間には差異があり、大同倶楽部にはその両面が投影されていたのである。

大物であった山県と、大同倶楽部との間に位置していたのが、大浦だった。当時の原の日記には、大浦兼武と清浦奎吾が第1次西園寺内閣、原内務大臣にダメージを与えようとしていたこと、桂はそうではなかったように見えていたことについて、複数回記されている(合わせて記されているのは『原敬日記』第2巻続篇416頁-1906年12月12日付―。大浦と清浦については例えば同398~399頁―同11月8、12日付―)。政治指導者の世代交代の面を持っていた西園寺と桂の一定の協力体制に、山県と、大同倶楽部に対する影響力を強めた大浦が、横やりを入れようとしていたという面もあるだろう。この桂と大浦の別とし得るものには、野党の2択の変形という面がある(山県-桂系に権力がなければ、野党の2択にかなり近いと言える)。立憲政友会との協力を、必要な時には進める(利用できる時は利用するということでもある)桂は、政党を認めるようになり、自ら立憲同志会を結成、これに吏党系は参加した。一方の大浦は、山県の意も汲んで、改めて独自の勢力を形成しようと努める(これについては第12章と第13章で見る)。両者の差異が、実際に衆議院で異なる勢力を生むことになる(大浦の方は残らなかったが)。

最後に、大同倶楽部所属議員の立憲政友会入りについて整理しておく。会派自由党出身者17名のうち、立憲政友会に移ったのは次の8名だ。関、田村、丹尾、牧野、最寄、会派自由党を早期に離脱した宮部、河上、矢島中(有志会を経て大同倶楽部に参加)。移らなかったのは次の9名だ。浅野、駒林、田中喜太郎、高木、中谷、松元、嶺山、持田、大同倶楽部に遅れて参加した松本。

甲辰倶楽部出身者を見ると、次の通りである。

立憲政友会出身で復党:甲辰倶楽部を離脱してから参加した栗原、寺井

立憲政友会出身で復党せず:石塚、小河、久保、鈴木、野尻、服部、森、横田

立憲政友出身ではなく、立憲政友会入り:是永、高梨、本出

立憲政友会出身でもなく同党にも移らず:井上、大戸、奥村、片山、佐藤(元自由党)、七里、内貴、南條、福島、星野、三井、三輪、矢島浦太郎、山根、甲辰倶楽部を離脱してから参加した田中藤次郎

立憲政友会に移った議員は少ない。有志会から参加した議員を見ると、死去した福地を除く6名中、唯一の会派自由党出身者宮部を含め、4名が立憲政友会入りしている(立憲政友会出身は矢島中と雄倉だが、矢島だけが復党)。他の、無所属から大同倶楽部に参加した議員を見ると、井上(立憲政友会離党者)、関根、橋本、板東、川真田、結成後に加わった松家の6名が立憲政友会出身で、松家と川真田を除く皆、復党している。立憲政友会出身でない議員では、尾見、大久保、千葉、武藤、山口、横山一平、結成後の加盟である脇、佐治が立憲政友会に入っている。補欠選挙当選者を除き、結成後も含めて無所属から大同倶楽部に参加した議員25名のうち、12名が立憲政友会に入復党している。こうしてみると、無所属、有志会から参加した議員に、立憲政友会入りした者が多い。生粋の吏党系である帝国党出身者は当然、立憲政友会には移っていない(例外の武市は、元々自由党系の出身である)。

幹部派は立憲政友会寄りであったとよりであったと見られるが、反政友会の姿勢を強めた。一方で親政友会路線を採る幹部派に反発していた、非幹部派の比較的多くが、立憲政友会入りして、つまり同党の議席増に貢献している。立憲政友会と山県-桂系との間の溝が広がっていたためだとはいえ、皮肉なことである。