1.政権交代論

1列の関係(⑩)~内閣不信任案と非政友会勢力~

軍事費や公共事業を繰り延べるなどの緊縮財政の上に、増税までしなければならなかったにも関わらず、山県伊三郎逓相(山県の甥で養子となった。内務省出身)は、鉄道会議(鉄道敷設法に基づいて1892年に設けられた、鉄道を管轄する省の諮問機関)の決定を経た鉄道建設、12カ年の改良費を予算に盛り込もうとした。これに反対した阪谷芳郎蔵相(大蔵省出身)と、双方が毎年見直すということで歩み寄って、予算に盛り込むこととなった。これに対し、6カ年分のみを認めた桂、井上、松方から話が違うと異議が出て、蔵相、逓相、そして西園寺首相が辞表を提出する事態となった。しかし西園寺首相は天皇に翻意され、1月15日に蔵相を松田司法相の、逓信相を原内相の兼務とすることで、内閣の存続が決まった。元老の介入を許したことで、内閣の力は弱まったといえる。

積極財政が行き詰まり、郡制廃止問題ですでに暗雲が立ち込めていた立憲政友会、憲政本党(改革派)、大同倶楽部の事実上の協力体制は弱まり、反政友会感情が高まった。憲政本党でも、積極財政志向に転換した改革派の力が相対的に低下、消極財政志向の非改革派の力が強まる過程に入った。このような状況下、野党は政府問責決議案を提出しようとしたのだが、その主な理由は、左側と右側で異なっていた。大同倶楽部が、政府の財政計画の動揺を追及するに留まったのに対し、予算案に反対していた憲政本党と猶興会は、政府の放漫財政が増税を招いたという視角から、追及をした。財政や外交など様々な面から内閣を批判する憲政本党の案に対して、猶興会は、「多少婉曲的の傾き」があるとして「別に強硬の意味を以て」財政のみについて問責決議案を提出することを唱えた。そして憲政本党はこれに同意した(1908年1月22日付東京朝日新聞。憲政本党が猶興会に譲歩したのであった-『原敬日記』第3巻151頁1月21日付-)。一方で大同倶楽部の安達は、憲政本党の加藤政之助との会見において、憲政本党案には異議がないものの、増税反対を主眼とする猶興会案には賛成できないことから、独自案を用意することを伝えた(1908年1月23日付東京朝日新聞)。猶興会は、軍事計画が増税を招いたことを批判していた(1907年12月29日付東京朝日新聞)。1月22日付の原の日記によれば、桂は原に、不信任決議案の提出を止められなかったと話している(『原敬日記』第3巻152~153頁)。その際桂は、大同倶楽部が決議案の提出を、選挙の関係上やむを得ないとしていること、大同倶楽部は猶興会の案には絶対に反対をし、大同倶楽部の案には憲政本党と猶興会が反対するであろうから、双方が否決されるだろうとしている。大同倶楽部の核は、政党であった旧帝国党であった。その是非は別として、増税に反対したくなる、与党でなければ内閣を倒したくなるというのは、政党の性だ。当時の憲政本党、猶興会、大同倶楽部の姿勢の差異は、衆議院本会議における、決議案を巡る所属議員の発言によっても確認することができる。なお、大同倶楽部は不信任決議案、猶興会は問責決議案であったと言えるが、当時はどちらも法的拘束力がなかった。猶興会の島田三郎は、1907年度の予算案が実行不可能であり、増税を不可避とするものであったことは分かっていたとした。そして行財政整理が不十分な中で増税することに反対し、さらに第1次西園寺内閣を信用して増税に賛成することはできないとした。予算の適切な配分に関して、軍拡をしても輸送手段が乏しければどうにもならないとして、商工業のためにもなる、交通機関の整備を唱えた(『帝国議会衆議院議事速記録』22第24回帝国議会29~33頁)。ここで触れなかった部分も含め、所属会派の主流であった対外強硬姿勢との矛盾が大きくならない限りで、そして商工業重視の姿勢を示し、これと両立する限りでの、消極財政を採ったのだと言える。産業振興のような主張は、めずらしいものではないが、それでも、新民党(同志研究会系)が都市型になったことが表れていると、見ることはできるだろう。立憲政友会との差異は比較的明確で、改進党系の本来あるべき姿を示したと、言ってもよい。それに対して吏党系(大同倶楽部)は、薩長閥寄りであり、その意向も汲んだ第1次西園寺内閣の増税と予算を否定はできないが、選挙のことを考えて、また立憲政友会を増長させないために、素質がないということで不信任決議案を出すという、あいまいとし得る姿勢であった。これにはまさに、本来政党を認めない立場の山県-桂系に連なる勢力でありながら、自らは有権者の票を求めなければならない政党(大同倶楽部~中央倶楽部は厳密には政党ではないが)であるという、吏党系の矛盾が現れていると言える。

力に大きな差のない、2派への内部分化が明確であった憲政本党の姿勢も、あいまいであった。同党の加藤政之助は、2007年度予算案に諸手を挙げて賛成したわけではないということ、鉄道国有化に反対したことを強調し、税制整理の必要性を説いた(同38~41頁)。また同党の大石正巳は、予算案の責任は、協賛者にもあるが、第一には内閣にあるということを述べた。その上で、増税の度が過ぎているという批判をした(同42~44頁)。第2党といっても議席が少なく、このような逃げとも捉え得る姿勢では、憲政本党が影響力を持つことは難しい。このことは、以後の野党間の連携、再編を見れば分かる。改進党系(憲政本党)は、野党として内閣の方針に反対したいという点では新民党(猶興会)と一致し、山県-桂系に近づきたいという点では、吏党系と一致する(薩長閥の意向を受けた内閣の方針ではなく、立憲政友会中心の内閣を否定したい)。そして党内を見れば、前者が非改革派、後者が改革派であった。以上から当時は、優位政党である自由党系と他の勢力という、2極化へと向かわせる力と、非政友会勢力の中での左右両極の分立状態を維持しようとする力が働いていた。この複雑な状況は、議院内閣制ではなかったために表れたものであるようにも見えるが、優位政党の左右に(この場合の左右は、筆者が基本としている左右でなくても良い)、一定の勢力の野党がある場合、いつでもそうなり得る。現に民主党政権が倒れてからは、この状況と一定の類似性がある。その結果起こったことは、第3極であった維新の党の分裂である。

1月24日付の東京朝日新聞によれば、猶興会の協議会において、猶興会案が否決された時には、大同俱楽部案に賛成するという島田三郎(過去には憲政本党や有志会に属していた)の案と、猶興会が新たに、3会派とも異議がないような決議案を提出するという、浅野陽吉(有志会出身、後に中央倶楽部、立憲同志会)の案が、賛成者少数で不採用となった。大同倶楽部を道連れにしようとせずに、当初の案でいくという、菊池武徳(憲政本党出身)、山口熊野(立憲政友会出身)の案には、賛成が少なくなかったのだという。そこで、猶興会案に他の2会派の賛成を得るため、交渉をすることとなった。憲政本党は賛成し、大同倶楽部も、自らの案を猶興会の修正だと捉えることとし、自らの案に猶興会の賛成も得て、これが否決となった場合に、猶興会案に賛成することにした。しかし、猶興会は大同倶楽部との連携には、否定的であった。憲政本党の議員の働きかけもあって、結局連携することとなり、猶興会案、大同倶楽部案の順で提出されることとなったようである。非政友会勢力は、第1次西園寺内閣の方針の動揺を攻撃することで、最も左の極から最も右の極までが、同一歩調をとることができた。このため立憲政友会は衆議院において孤立し、もともと動揺し始めていたこともあったから、第1次西園寺内閣の政権運営は、困難さを増すように見えた(政権さえ安定していれば、政権が長く続けば続くほど、他の勢力を切り崩して、過半数の基盤を形成することが容易になっていたと考えられる。ただし、長く続けばこそ、安定はしていても、山県-桂系中心の内閣への交代が近いと見られ、吏党系の求心力が高まるということも考えられた。ただしその場合、様子見の状態となったことも考えられる。

猶興会の決議案は、1月23日、168対177という僅差で否決され、大同倶楽部は自らの決議案を撤回した。この投票結果については、2通りの解釈が可能である。内閣支持派と不支持派の勢力差がわずかとなり、第1次西園寺内閣の力が弱まったというのが1つ、可決を許さなかった立憲政友会・第1次西園寺内閣の力が示されたというのが、もう1つである。状況は、この2つの解釈の影響を受けて迷走することになる。なお、原は1月23日の日記において、大同倶楽部の賛成を、「是れ多分桂か少なくとも大浦等の小策にて、我に油斷せしめて突嗟に不信任案を成立せしめんとの策なりしならん。」としている(『原敬日記』第3巻153頁)。大浦に対するほどではないが、桂にも不信感を持っていたのだ。原は、自身が大同倶楽部の支持を得ることを桂に依頼しなかったことか、山県の影響により、桂が変わったのだと考えていた(註)。

猶興会の決議案は記名投票であったから、個々の議員の賛否を確認することができる(『帝国議会衆議院議事速記録』22第24回帝国議会47~48頁)。猶興会で反対したのは奥田義人、尾崎行雄、望月小太郎の3名、大同俱楽部で反対したのは、井上角五郎だけであった(奥田は伊藤系官僚、尾崎はもともとは改進党系だが、望月と同様に立憲政友会の離党者であった。井上は野党であった立憲政友会において、第1次桂内閣に寄って除名されたのが、今度は山県-桂系に連なるものの野党であった大同倶楽部において、第1次西園寺内閣・与党立憲政友会に寄ったわけである。この4名のうち、立憲同志会に参加した望月以外は立憲政友会入りする)。棄権も、猶興会が鈴置倉次郎、堀谷左治郎、山下重威の3名、大同倶楽部が荒川五郎、江角千代次郎、七里清介、佐藤里治、内貴甚三郎、藤井牧太、山田省三郎、松家徳二の8名と、他の記名投票の結果と比べて多くはなかった。彼らは、立憲政友会出身の鈴置、松家を含め、立憲政友会には移っていない。両会派とも、比較的良くまとまっていたと評して良いと思う。しかし、反対に投じた議員のうち5名が賛成に投じていただけで可決されていたこと、あるいは棄権した議員10名が賛成していれば可決されていたことを考えれば(当然ながら双方の組み合わせも考えられる)、反対、棄権をした議員達は、内閣、立憲政友会から見れば、決議案否決の功労者であった。賛否が拮抗したとはいえ、第1次西園寺内閣内閣は一つの危機を乗り越えた。衆議院における各勢力の、内部における姿勢の違いに救われたのである。野党における差異が優位政党を助けるという点では、現在と類似性がある。

註:原の1908年1月20日付の日記(『原敬日記』第3巻138頁~139頁)には、次のようにある。

  但桂が右樣頑として動かざりしは果して如何なる事情より生じたることにや不明なり、或は余が大同倶樂部の賛成を賴まざるに不快の色あるに因り、彼れを反對せしむる口實を造らんが爲めか、又は何か山縣等より云はれて現内閣を助ることの熱心ならざるを示さんが爲めか、何か事情のある事と思はる、

また、同22日付(同152~153頁)に次のようにある。

余が大同倶樂部の賛成を桂に依賴せずとて桂は余に對し不快の言をなしたる由に聞けども、余は同倶楽部の如き不徳義なる輩に依賴するを好まず、又桂も時々余に對し好意の言をなせども其心術疑はしきこと多きにより、一切彼の助力を求めず、彼を度外に措きて我主張を貫徹するの方針を取り來たるが、