日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
新民党・実業派の動き(⑩)~財政の古くて新しい対立軸、郡部と市部~

新民党・実業派の動き(⑩)~財政の古くて新しい対立軸、郡部と市部~

この当時の2極化とは、立憲政友会と非政友会であるわけだが、これとは違う見方もできる。大同倶楽部の臼井哲夫は、猶興会以外の会派が積極財政で一致したことは評価し、ただ第1次西園寺内閣が、「豫算ノ遂行財政ノ按排盡く處理ヲ誤」ったとし、また財政計画の成案を持っていないとして批判した(同35~37頁)。やはり、元老と一致した内閣の基本方針には賛成しつつ、それを実行する能力がなく、内閣が元老に頼ったことからも、自主性がないと評価したのだと言える。臼井は分裂前の憲政党や中立会派に属してきており、生粋の吏党系ではないが、元老の関与を否定しているのではなく、元老、つまり薩長閥が直接政権を担った方が良い、つまり薩長閥中心の内閣をつくるべきだという考えであったのだろう。政党は部分的な代表に過ぎず、国家全体を見ているのは元老を中心とする薩長閥だという、吏党系の本来の姿勢を採っていたのだと考えられる。だがここで注目するのは、新民党(猶興会)以外が積極財政志向になったとされている点だ。憲政本党については改革派に限ったことであったし、立憲政友会内にも意見の違いはあった。猶興会も、所属議員を拘束するような会派ではなかった。しかしそれでも、郡部の地主層を支持基盤の中心とし、本来積極財政志向が強い自由党系と吏党系、やはり積極財政志向の憲政本党改革派と、税負担の増加を避けようとする傾向が強く、都市部における基盤が強まった新民党との間の、差異は大きかった。このような差異は、それまでにも見られたが、後者を担っていた中立実業派は弱かった。弱いと言ってしまうと、この当時もまだ弱かったのだが、衆議院の最左派であった新民党は、それまでの中立実業派のように、時の権力になびく存在ではなかった。そして憲政本党非改革派は、彼らと近かった。産業構造の変化が進み、市部の発展が進めば、都市型消極財政派の形成が明確化し、地方型積極財政派と渡り合えるようになっていく可能性は、小さくなかった。同時に、この場合の都市型消極財政派は、講和条約反対運動を見れば分かるように、都市の大衆の支持を得るものにもなり得たから(まだ福祉重視の左派政党が強く求められる段階ではなかった)、その際の理念、政策の整合性は課題となるものの、選挙権の拡大と共に、支持基盤が強くなるという可能性もまた、小さくなかった。大同倶楽部では、元来増税に反対の市部選出議員達が勢いづき、増税案について自由投票とすべきだと、声を上げたのだという(1908年1月26日付東京朝日新聞)。なお、2月5日付の東京朝日新聞によれば、立憲政友会では、選挙区の実業家から突き上げを受けていた市部選出の議員達が、保障を求めるという形で運動費を請求し、同党の幹部がこれを容れたことで、江間俊一を除き賛成することになった。ここに、市部対郡部という対立構図を見ることが出来る。都市党対郡部党というのは、国内を分断する危険な対立となり得る。しかしそこに、消極財政対積極財政というような政策的な差異があり、政策そのものが対立軸となれば、イコール地域的な対立という面が、危険性を弱める程度にまで小さくなる。その良し悪しは改めて述べるが、立憲政友会対立憲民政党という構図につながる、新たな対立軸の芽が出てきたのだと言える。これは古くて新しい対立軸であったが、少なくとも日本の大政党が、互いの理念、政策上の一定の差異を見出し、それを極端でないが、ある程度には恒常的なイメージを伴う、安定したものにするための通過点であったと言える(実際にはそうなるだけの余裕が、アメリカの恐慌の影響もうけた日本にはなかったのだが、これについては第16章のあたりで見たい)。

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