日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1列の関係・2大民党制・第3極(⑩)~4極から2極への歩み~

1列の関係・2大民党制・第3極(⑩)~4極から2極への歩み~

吏党系は小さいとはいっても、貴族院の多数派も影響下にある、山県-桂系という大勢力に連なっていたことで、一定のインパクトを持っていた。つまり自由党系、改進党系、吏党系が並び立っているという面も、確かにあった。この3つのうちの2つの勢力が、複数回の総選挙をまたいで連携していたということは、第3回総選挙以後は、一つの例外を別とすれば、なかった(註)。その唯一の例外が、第7~9回総選挙の、自由党系(立憲政友会)と改進党系(憲政本党)である。3つの対抗関係が常に存在していたという面がある。それが立憲政友会と、非政友会勢力に整理される傾向が、不完全ながら見られはじめたのが、この当時であり、それは第2次西園寺内閣成立以後、本格化する(次の第10章で見る)。3勢力+新民党という複数の対立関係(優位政党―自由党系―と非優位政党―改進党系等―の対立、2大民党系―自由党系、改進党系、新民党の全てか一部―と薩長閥側の対立、それらを含むが、それだけではない左右の対立)が潜む構造(4極構造)から、優位政党(立憲政友会)対その他へと、そして立憲政友会のライバルが確定する状態へと、政界は進んでいくのである。そのライバルとは、立憲同志会である(これについては第11章以降で見る)。

註:第1、2回総選挙の当時は自由党系と改進党系が協力関係にあったが、同じ政党ですら、複数の候補者が1人区でぶつかる時代、選挙協力をしていたわけではない。

連携していたことがないというのは、第10回総選挙後を見ても、ないということである。第11回総選挙後に消滅した吏党系(消滅した後については当然対象外である)に代わり、山県系に連なる新たな勢力を対象に入れても同様である。それも存在しなくなった後でも、自由党系と改進党系が複数の総選挙をまたいで協力関係にあったということは、それらが合流して自民党を結成するまで、ない。

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