1.政権交代論

実業派の動き・1列の関係(⑩)~実業派「復活」の兆し~

予算案、増税に関する法案は、大同倶楽部の議員達の賛成を得て成立したが、実業家層からの反発は大きかった。全国の商業会議所の委員は、1908年2月14日、国力に不相応な軍拡を是認し、不生産的歳出に偏重した歳計を議決したとして、衆議院の議決を無責任、不親切と批判し、これを衆議院議員の選出に慎重な注意を欠いたことによるとする、決議をなした(1908年2月15日付読売新聞)。商業会議所連合会は政府の税制整理を不十分とし、過重な税制の根本的な整理を求め、塩専売、通行税、織物税の全廃を唱えていたが、この姿勢は、衆議院の左寄りの勢力(猶興会。憲政本党非改革派)に近い。第2次西園寺内閣の財政、増税に反対する運動は、中小事業者による全国実業組合連合会も、起こしていた。

東京商業会議所会頭として財政批判、増税反対運動をしていた中野武営は、猶興会等の議員達や同派に近い記者達による、1907年12月23日の非増税有志懇親会に出席し、演説をしていた(1907年12月25日付東京朝日新聞)。中野は負担軽減が産業、そして国力を強めるという立場であり、特に下級社会の負担軽減を求めていた(1907年5月17日付東京朝日新聞)。これはやはり、衆議院の左寄りの勢力(民党的な勢力)に近いと言える。1月23日の全国商業会議所連合大会では、団体を結成して、次期総選挙において主張が同じである者を推選すること、会員が自ら総選挙に出馬するなどの意見が出た(1908年1月24日付東京朝日新聞)。これについて松岡康毅農商務大臣(元司法官僚)は、そのようなことをすること、他の組合にさせることは、商業会議所の権限を越えた不穏当な行動だとし、各府県知事に注意、指導をするよう、電報で指示をした(1908年2月4日付東京朝日新聞。1月29日の原内相の日記に、中野武営らの商工会議所の決議、運動について、内務省に治安警察法による取り締まり論がある一方、農商務省が不問にしていることから、後者を注意したということが記されている―『原敬日記』第3巻157頁―)。このような動きが、次の第10章で見る、戊申倶楽部の結成につながる。新民党(同志研究会系)に近い面はあったものの、実業派とし得る独自の勢力が形成されるのである。伊藤博文が離れた後、日露戦争勝利という状況の変化も受けた立憲政友会の、自由党系としての先祖返り(より郡部重視の政党・積極財政志向の政党へ)、そして分裂(第8回総選挙後)による過半数割れによって、実業派の存在が再浮上したのだ。ただし今度は、それまでの「中立」実業家派のようにやや薩長寄り、やや政権寄りというのとは違う、「お願い」というよりも「要求」をする、野党に近い姿勢であった(政権は、かつてのように薩長閥ではなく、立憲政友会中心のものであった)。

なお、1908年5月3日付の東京朝日新聞の社説は、実業家が衆院選に出ようとしても、選挙区に縁故を結んでおらず、投票仲買に運動費を吸い取られる恐れがあるとしている。そしてさらに、時が遅く、公債の割引召喚に泣き顔で反対する前に、戦後経営計画が始まった時に、その財政製理論、経済財政調和論を唱えておくべきだったとしている。厳しい指摘だが、政党制の歩みを考えれば、一つの契機が訪れたのだと言っても良いのではないだろうか。この実業派の動きについては、第10章で引き続き見ていく。