1.政権交代論

新民党⑩~同志研究会系の政党化への動き~

この当時、猶興会には、比較的重要な出来事があった。1908年2月7日付の東京朝日新聞によれば、同派には、山口熊野、菊池武徳両幹事の行動に批判的な議員達がいたらしい。彼らは、石油消費税採決の際両者が締め出しを食らって投票しなかったことを詰問、両者が辞任、公選の結果、河野広中、近江谷栄次、菊池とは事情が異なっていたらしい山口が当選した。詳しい事情は確認できていないが、2月10日付の東京朝日新聞は、議案ごとに賛否が分かれていた猶興会が、所属議員の意思疎通が進んだことで、大問題についてたいていは多数が同一歩調をとるようになり、世人も同派に対して重きを置くようになったとしている。内部に異論が少ないことから、同派は新幹事就任と共に政党化へ進むことになった。予算案についても、反対しない議員は除名処分とすることになりそうだと、記事は伝えている。いくら衆議院の最左派として存在意義があっても、いやだからこそ、政党化しなければ限界があった。自主独立型の議員が多かったことも、同志研究会系を際立たせていた(報道もその様に捉え、そのことと議会の最左派と見られることから、同派に注目していた)が、その議員達がある程度強調していかなければ、当時の状態よりも前に進むことはできなかった。特にこの当時は、桂園時代という安定期ではあっても、第2党以下にとっては特に、たとえゆっくりとであっても、変化していく時代であった。薩長閥だけでなく、自由党系も政権を担う時代となったことで、他の勢力がそれらと合流するにしても、しなくても、政界再編は避けられないものであった。特定の立場の有権者を代弁する勢力はなかったから、自由党系以外の党派の多弱の状態には、何らかの改善が求められていた。同志研究会系が独自の勢力でいたくても、自らが最善とする政界再編を実現させるためにも、統一性の強化は必要であったと言える。