1.政権交代論

(準)与党の不振(⑩)~吏党系と減税運動~

大同倶楽部は野党でありながら、山県-桂系の勢力であったため、当然ながら3税廃止運動には乗れなかった。同派は2月24日に議員総会を開いた。そこでは織物税と通行税の廃止に反対することで一致したが、塩専売廃止については賛否両論あり、決議を延期した(1908年2月25日付東京朝日新聞)。大同倶楽部はまた、代議士総会で、非常特別税の整理案に反対することを決め(酒関係、砂糖、石油消費税、関税の増税案は一部修正の上で可決されていた)、その中で宅地地価修正法案については、谷沢他1、2名の除外例を承認することとした(1908年3月3日付東京朝日新聞)。第2次西園寺内閣が設け、両院の議員や学識経験者も参加した税法整理審査会の案を否定したのであり、野党色を明確にしたのだと言えた。あくまでも、政友会内閣の案が良くないということであれば分かる。しかし吏党系は本来は自由党系(立憲政友会)と同じく積極財政路線であった。また、山県-桂系中心の内閣が(ほぼ)同じような案を出していた可能性は十分あり、その場合賛成したのではないかと想像させられる。大同倶楽部の姿勢は、元老の介入に否定的な親民党とは反対のものであった。それは、元老が介入しなければならない状況を生んだのが立憲政友会であり、それならば薩長閥中心の内閣で良いのではないか、というものでもあった。

これにより、多岐にわたる税制整理案は、全て(正確には内閣が撤回したものを除いて)否決された。だがそれでも、反優位政党では他の党派と一致し得ても、吏党系には限界があった。もっともそれは、改進党系と新民党(同志研究会系)から見た場合だと、言うこともできる。吏党系(大同倶楽部)から見れば、薩長閥とつながりのない(つながろうとしない)、左派野党にこそ、限界があるということになるのかも知れない。そのような面は確かにあった。しかし薩長閥に連なることに存在意義があるということは、主体的に動くことが出来ないということを意味する。

大同倶楽部は、原と松田の兼任を説く内閣改造に、ショックを受けたようだ。3月25日、司法大臣と大蔵大臣を兼務していた松田は、大蔵大臣専任となった(結果的には司法大臣から大蔵大臣に移動したことになる)。その松田の後任の司法大臣には、千家尊福が就いた。内務大臣と逓信大臣を兼務していた原は同日、内務大臣専任に戻り、原の後任の逓信大臣には、堀田正養が就いた。千家は木曜会所属、堀田は研究会所属の貴族院議員であったから、同院において原が、郡制廃止案の賛成派を増やす工作を行い、否決されたものの、一定の成果を得ていたことからも、立憲政友会の貴族院への影響力の拡大が、山県-桂系では心配された。3月26日付の東京朝日新聞は、大同倶楽部が意気消沈し、臼井哲夫が「出し抜きを喰った」とし、堀田が入閣したことで、研究会全部が立憲政友会側になるわけではないものの、堀田がすでに立憲政友会と通じていると物議を惹き起こっており、多少の波瀾は免れないと見ていたことを伝えている、また、安達謙蔵が内閣改造を「突飛」で「意外」なものだとしていたことも伝えている。立憲政友会の力は、他党を引き離す大政党であり、当時こそ衆議院の過半数には届いていなかったものの、過半数の回復へと歩んでおり、少数の議員と合わせるだけで、過半数の基盤をつくれることであった。山県-桂系の力は、総理大臣を決める権限を事実上持っていたことと(薩長閥の要人全体としてだが、少なくとも大きな影響を与えることができた)、貴族院の過半数を大きく上回っていることであった(幸倶楽部+研究会の多く等)。その貴族院での優位性を失えば、状況は変わり、吏党系(大同倶楽部)は力を失う。そんなことは起こり難かったが、少しでも状況が変化し、自由党系(立憲政友会)と山県-桂系の駆け引きの形が変われば、付属物に過ぎない吏党系の力は、さらに弱まりかねなかった。第1次西園寺内閣の成立には、すでにそのような面があったが、さらに、ということである。吏党系が割り切って、山県-桂系ではなく、独自の存在として、立憲政友会が過半数を上回る前に、キャスティングボートを握って存在感を強めるというのは、難しかった。組織力に乏しい吏党系の力の源泉は、あくまでも山県-桂系とつながっていたことであったからだ。現に山県系は、第1次西園寺内閣が容易に倒れるとして、同派の議員の離脱を防いだり(『原敬日記』第3巻-1907年1月11日付-)、西園寺が原と松田を辞任させ、山県系と超然内閣を組織するだろうとして、離脱者を復帰させたりした(同17頁―同14日付―)らしい。元老を戴く勢力(山県-桂系)が内閣の存続に関することを口にすれば、それは元老がそのように動くのだと、十分に捉えられ得る。山県-桂系に連なるという立場を捨てれば、直ちに大同倶楽部の求心力が落ちることは間違いなく、大多数が立憲政友会に移るということまでは起こらなくても、無所属になる議員、立憲政友会に移る議員が多少なりとも出て、立憲政友会は過半数にさらに迫り、あるいは上回り、吏党系の大同倶楽部は、前身の帝国党の水準を少し上回る程度に、後退する可能性が高かった。当時、立憲政友会は入復党者によって議席を増やし、すでに過半数まで10議席と迫っており、大同倶楽部と組む必要性は小さくなっていた(切り崩した方が速いとすら、言える状況であった)。

猶興会の島田三郎らが提出した織物税と通行税の廃止案(非常特別税法中改正法律案)、同じく猶興会の早速整爾が提出した塩専売法廃止法律案、つまり3税の廃止案について、第2読会に進めるべきかを問う採決は記名投票で行われ、各議員の賛否が分かる(『帝国議会衆議院議事速記録』22第24回帝国議会290~291頁)。この法案、酒類、砂糖の増税法案において賛否に割れた大同倶楽部の議員について、確認しておきたい。

野党的な投票行動をとった議員、つまり増税案については反対、三税廃止案については賛成に投じた議員を見る。市部、北海道の区部から選出されていた議員には  を付し、()内には出身会派の、基本的には一文字目(無所属は「無」)を記した。

酒・砂糖:浅羽(有)、雄倉(有)、大戸(甲)、大畑(帝)、奥村(甲)、片山(甲)、佐治(憲政本党)、鈴木(甲)、谷沢(帝)、内貴(甲)、服部(甲)、福島(甲)、三輪(甲)、嶺山(自)、山田(帝)

※彼らは全員、賛成を決めた大同倶楽部において、除外例となっている(1908年2月5日付東京朝日新聞)

三税廃止:浅羽(有)、荒川(帝)、石田(帝)、雄倉(有)、小河(甲)、大畑(帝)、片山(甲)、久保(甲)、城(無―元同志研究会―)、須藤(無)、高木(自)、谷澤(帝)、南條(甲)、星野(甲)、松家(無―元立憲政友会―)、嶺山(自)、森(甲)、山田(帝)

双方で与党と反対の投票をしたのは、浅羽、雄倉、大畑、片山、谷沢、嶺山、山田で、数は少ない。彼等に注目してもしなくても、出身会派については傾向が見られない。ただし、酒と砂糖の増税反対については、市と区から選出された議員が非常に多い(市部・区分選出議員は衆議員全体では379のうち76と、約20.0%に過ぎない)。重複している議員についても、7名中の5名が市部という高率である。郡部選出議員と市部選出議員の間で溝が広がる可能性は十分にあったのだと言える。そうなれば、重心がはっきりしておらず、政党化もされていない大同倶楽部に働く遠心力は、強まる。吏党系はまた、第1、2回総選挙後のように分裂することになる。つまり、国民協会→帝国党の限界を超えるための再編は、そもそも無理があったということで、ほとんど無に帰するということになるのだ。しかしこの当時は、立憲政友会の放漫財政を、山県-桂系、それらが中心の内閣が修正するという展開になるから、大同倶楽部の議員達にとって、山県-桂系であることについて一定の整合性が保たれ、遠心力は弱まる。増税に賛成するにしても反対するにしても、政友会内閣を批判していればよかったわけだが、これが山県-桂系中心の内閣では、そうはいかない。