日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
改めて、これまでの歩みの何が問題なのか

改めて、これまでの歩みの何が問題なのか

日本維新の会副代表である吉村大阪府知事が連日テレビに出演し、日本維新の会の支持率を上げている。

1990年代以来、間が空くことはあるが、長期的に見れば改革ブームが続いている。改革が進んだ時期もあるが、それはそれで、格差拡大などの弊害が批判を招きもした。少なくとも国民は、良い変化を実感できていなかった。そのような時代、2008年に自公両党の支援を得て、弁護士でタレントの橋下徹が大阪府知事に当選した。橋下は多くの改革を実行した。その過程では、国政で民主党への政権交代があり、自民党が弱るかに見えたこともあった。

まさにその時期にあたる2010年、大阪の自民党は分裂し、橋下知事をトップに、地域政党の大阪維新の会が誕生した。同党はさらに、不調に転じていた与党民主党、自らと姿勢が近かったみんなの党から議員を引き抜き、国政政党として日本維新の会を結成した。橋下が石原東京都知事を評価していたため、日本維新の会はたちあがれ日本系(石原を正式に党首に迎えて、太陽の党を結成)を吸収した。しかし2年も経たずに分裂(たちあがれ系は次世代の党を結成したが、2014年の総選挙でわずか2議席に)、次に結いの党と合流したものの分裂した(維新の党を大阪派が脱しておおさか維新の会を結成、これが現在の日本維新の会である。たちあがれ系との分裂は、結いの党との合流の是非をめぐるものでもあった)。

このように国政ではうまくいかず、その人気を武器に勝ち取った(民主党政権時代、社共両党以外の賛成により、東京以外の大都市でも特別区を設置できるようにする法案が成立)、法的根拠のある、つまり可決されれば直ちに実現へと進む、大阪都構想の住民投票でも敗れた。しかしそれでも大阪では支持を広げ、2度目の住民投票が迫りつつある。今度は可決となりそうな様相だ。

そんな中、新型コロナウイルスへの対応で、吉村大阪府知事が注目を集め、また高く評価され、日本維新の会の支持率が上がっている。吉村知事のコロナ対応への評価は、筆者も高い。もともと維新の会に注目していた上にそうなのだから、筆者は同党の支持率上昇を喜ぶべきなのかも知れない。

しかし、政権交代の定着を最も重要だと考える筆者にとって、日本維新の会は非常に厄介な存在である。答えはもちろん、非自民の票を割るからだ。自民党、維新の会、そして民主党系等の左派野党はそれぞれ違う。これが1:1:1の実力ならまだ良い。その時々の争点によって、2対1に分かれるかも知れないが、それが常に同じ組み合わせで「2対1」というのでなければ、有権者は選挙で、3つのうちから1つを選び取ることができる。その結果を反映した政権(場合によっては連立政権)が誕生する。政権選択である。3つのうち第1党となった党が中心となる政権ができる。あるいは総選挙前に、3つのうち2つの、恒常的ではない連合、つまり総選挙から、とりあえずはその次の総選挙までの2対1の構図ができていて、勝った方が政権を担う(選挙前は2:1であっても、1党優位でなければ、逆転の可能性はある程度ある)。

だが日本は1党優位である。しかもその歴史があまりに長い。自民党ができてから今年(2020年)で65年。そのうち自民党が野党であったのは合わせて約4年ちょっと(細川内閣~羽田内閣、鳩山内閣~野田内閣)、自民党が衆議院の第1党でなかったのは、この野党時代のうちの約3年3ヶ月(鳩山内閣~野田内閣)だけである。弾圧などがない国で、このような例を筆者は知らない。

第1党だけなら、スウェーデンでは、1914年から2020年現在までの約106年間、社会民主労働党がずっと第1党である。しかし過半数を上回ることはほとんどなく、政権交代がある。1936年から1976年までの約40年は、社会民主労働党が中心の政権か、同党の単独政権が続き、1976年以降も、社会民主労働党中心の政権の期間が長いが、2006年から2014年まで約8年、非社会民主労働党の政権が続いた。これは特殊な例である南アフリカを除けば、最も極端な例である(もちろん野党が弾圧されるような国家は除く)。これに次ぐ例としてイスラエル、アイルランドがあるが、非常にめずらしい。そして何より、これらの国でも政権交代は定着している。またこれらの国の「優位政党」は、かつて強者の側にあったような保守政党ではなく、左派政党だ。この違いも重要である。

スウェーデンもアイルランドもイスラエルも、小選挙区制ではない。だから優位政党だけで過半数を取るのは非常に難しく、非優位の野党が組んだ連合が、過半数を得る可能性も常に残されている。それに対して日本は、小選挙区中心の制度だ。1位しか当選できないから、全国全ての選挙区で優位政党の自民党が勝利し、国会議員が自民党員のみになるような制度なのだ。そうなっていないのは、野党においても選挙に強い政治家が少しはいるからだ(自民党の離党者が、90年代前半にある程度反自民の陣営に流れたことが大きい)。他にわずかに、労働組合が強い地域があるに過ぎない。

日本と同じ議院内閣制のイギリスでは、総選挙で野党が勝つということが少なくない。それは不利な野党を補うな制度(野党に対する助成金など)があること、与党に有利な時を狙って選挙を行うということが、基本的にはないということにもよるが(少なくとも日本のように、任期満了による総選挙を迎えた総理を馬鹿にすることはない)、何よりも、第1党と第2党の力が拮抗していることによる。しかし日本は、自民党が圧倒的に強く、自民党ができる前も、自由党系を優位政党だと言える期間が短くなかった(確認しておくと、自民党は自由党系に取って代わったわけではなく、自由党系と改進党系が合流したものである)。

そんな状態だから、国民はまず、自民党支持と、不支持に分かれる。自民か非自民かという区分が定着しきっているのだ。どんな国でも下院の総選挙は、時の政権に対する審判ではある。しかし同時に、保守系の有権者、社民系の有権者が一定数いて、特定の支持政党がない人々も、一定数は、対等な2つ(あるいは3つ)の政党の理念や時の政策を見比べて、票を投じているはずだ。もちろん、そのような比較に政権への評価を合わせて、投票先を決めるという人も少なくない。

日本人がそうでないと、印象だけで断定できないが、自民党の支持者と比べ、民主党系の支持者が少ないことは、世論調査、選挙結果を見れば分かる。ところが選挙で民主党系は、その支持率に見合わないほど多くの票を得る(野党に戻ってからは選挙で振るわないことが多いが、それでもそうである)。日本人が政策よりも、自民、反自民で選んでいるというのは、筆者は確かめていないが、これまでの研究や報道、放送されてきた議論(これらが人々に影響を与えているということも含めて)、人々の会話などから、少なくとも見当違いではないと、確信している。自民党の右の政党はもちろん、実績を評価する人の多い維新の会すら、反自民の代表格である民主党系には、太刀打ちできていない。

結局、野党第1党の社会党~民主党系に反自民票が比較的多く集まるものの、少なくない票がより右の政党、さらには比較的民主党系に近い、あるいは民主党系のさらに左にあり、どう見ても、民主党系に強くなってもらうことが次善の策であるはずの、政党にまで入っている。

筆者も政策で選んでいない。政権交代が定着しない限り、政策で選んでも仕方がないと思うからだ。軟弱極まりない地盤に、先進国並みの立派な建造物を乗せようとしているに過ぎないのが日本の状況だと思う。選挙が遠かろうが近かろうが、99.9%自民党が勝つと予想されるなら、政策を比較しても仕方がない。まれに、そうでない状況となるかに見えても、選挙の時には総理大臣だけ取りかえたような、「別の自民党内閣」になっているだけだ

五十五年体制には、自民党が資本主義陣営の代弁者、社会党が社会主義陣営の代弁者という面があった。しかし高度経済成長、資本主義陣営の繁栄によって、それも変化していった。ほとんどの日本人は社会主義を望まず、異質なものと見るようになり、資本主義は普通のもの、つまり特別な主義とはみなされなくなった。

この点は他の資本主義国もそうであったろうが、それらでは社会民主主義政党(社会主義ではない)が、その普通の土俵に乗っていたため、その土俵の上で、異なる理念を持つ2大政党、あるいはその陣営が、対決する構図となった。

しかし日本では、社会党は「普通の土俵」に乗らず、「社会主義から社会民主主義へ」というよりも、理想主義と反権力の「変わった人たち」になった。自民党が何でも屋として、万年与党の地位を盤石なものとしたことから、同党の本来の目標である改憲(※)同党が好むと好まざるとにかかわらず、貫かざるを得ない対米追従(日米安保は当然堅持)の反対勢力としては、仕方のない面もあった。あまりに弱い社会党でも、改憲を防ぐことのできる、【両院のどちらかの3分の1】というのは、手が届く目標であった。

公明党は、やがて普通の土俵に乗ろうとしたが、国民の多くが信じているような、伝統的な宗教ではない創価学会の党であったから、別の意味で普通の党とはみなされなかった。民社党(社会党右派の一部が結成)は普通の党になったが、弱すぎた(国民が十分に支えなかったと言うこともできる)。バブルが崩壊するまで、特に経済がしっかり成長していたり、景気が良かったりする時期には、現状におおむね満足しているか、今後の生活向上を期待できる多くの人々にとって、自民党に票を投じるのが無難であった。そうでない少数派の人々と、労働組合に属す人々が、主に野党に入れていた。それも、野党が多党化したことで、異なる野党に入れるようになった(労働組合も、社会党支持、民社党支持、共産党支持に分かれていた。また、日本が豊かになったこともあり、実際には自民党に入れている組合員も多いと考えられる)。

こうして日本では、冷戦が終わっても経済が悪化しても、国民は、普通の政党である自民党に、「普通に」入れておこうという人々と、そこに何らかの不満がある人々に、まずは2分されることとなった。「理念や政策の違いもあったじゃないか」と言われるかもしれないが、自民党に対する不満は、癒着、利益誘導のバラマキ政治(票や資金の見返りに利益となる政策を採用する、クライエンテリズム)、そしてそれらも原因として、冷戦後の世界の変化について行けない、というもの、あるいは一党優位そのものに対する不満であった。簡単に言えば、政策よりも日本の政治のあり方が問題にされた(自民党の右にいたわずかな人々に関しても、同様であったっだろう)。欧米ではすでに、保守政党の新自由主義化(先祖返りという面も)、社会民主主義政党の右傾化(第三の道)が始まっていた。

そんな中、反自民というものが、反ゆ着・反利益誘導なのか、反タカ派なのか(軍事大国を目指す路線に反対するということだが、そもそも自民党に明確なタカ派はそれほど多くはなかった)、反アメリカ追従なのか(自民党を離党して新生党を結成した小沢一郎らは当時、対米追従路線であったが)、反新自由主義なのか(中曽根行革は新自由主義的であったが、自民党にはそのような路線を明確に唱える議員は少なく、むしろ小沢ら新生党がそのような路線であったのだが)、全く明確ではなかった。社会党は、これら全ての反対派を代弁していたが、ゆ着・利益誘導については、社会党も自民党政治にぶら下がっている面があり、多少なりとも「恩恵」を受けていた。そこに、リクルート事件などを受けて政治改革の議論が盛り上がり、反癒着・反利益誘導で、社会党から自民党離党者までが、まとまったのである。それは同時に、規制・許認可など、官僚の権限(裁量権の大きさ等)を問題とする(はずの)ものであったから、代案には社会民主主義よりも、新自由主義が適した。もちろん、裁量権が小さい社会民主主義もあり得るが、日本、つまり自民党政治は「成功した社会主義」などと言われたくらいなので、新自由主義への転換の方が、「分かりやすい」変化であった(本来社会民主主義は、業種や地域ごとというクライエンテリズム的なやり方ではなく、満遍なく格差を縮小しようとするものである。せいぜい労働組合の利益を優先するくらいだが、これとて、雇われている立場の、あるいはその家族である、大多数の人々のためであるはずだ)。

その後、非自民連立政権では確かに、中心となった新生党の対米追従・新自由主義的路線と、与党第1党であった社会党の、それへの反発が目立つようになった。だがそれ以上に、小沢新生党代表幹事と、武村さきがけ代表の権力争い、社会党左派の、独善的な小沢に対する反発という面が大きかった。だからこそ、自社さ連立が成立したのである。自社さ連立を反新自由主義連合と見ることもできなくはないが、そのような認識が明確にあったようには見えない。「改革は必要だとしても、小沢のように強引にはやらない」という程度だろう。実際、非自民連立政権内の政策面での最大の対立を探せば、それは消費増税(国民福祉税構想)の是非であるが、これとて、協議もせずに深夜に突如、細川総理が発表したことへの反発が中心であった。これに反発した社会、さきがけ両党は、自社さ連立では消費増税を決めている。他の政策的な対立についても似たようなものだ。そもそも、羽田・小沢派が自民党を離党したのも、派閥の後継争いに起因する。

この当時は、新自由主義路線を巡る対立はあまり明確ではなかった。対立軸は、小選挙区を中心とした選挙制度導入の是非、(事実上の)消費税増税の是非、アメリカが強く求めていたコメ市場の部分的開放の是非、小沢が非自民連立の主導権を握っていたこと、その強引さの是非であった)。

もはや、共産党を除けばどんな組み合わせもあり得るということになっていき、自共両党を除けば党名もどんどん変わる。新党がどんどん出て来る。自民党でも出入りがある。ということで、もはや昔からあるというだけの自民党と、何だか分からないが、その挑戦者であるらしい第2党という区別に、完全になってしまったのである。それを象徴するのが、かつての民主党に対する評価である。その所属議員を含め、中道左派という人もいれば、中道右派と見る人もいる。党としては「民主中道」という造語を使い、まあ平均的には中道なのか、という程度で、不明瞭であった。中道では何でもありの自民党と区別しにくいし(かといって明確にすれば、得られるはずの票が減るリスクがある・・・)、小沢一郎により左傾化が明確になっても、その小沢はもともと新自由主義・対米追従であったし、小沢より左であるはずの菅直人が、官僚のはたらきかけもあったのだろうが、政権担当能力を示そうと、右傾化する分かりにくさであった。

こんな状態では、わりと無難な自民(現状維持っぽいベテラン)対、危なっかしいその他の素人というイメージは変えられない。一度まともな対立構図と競争にしなければいけないが、それには、時間がかかり不安定にもなりやすい政界再編や、自民党に対するチャレンジャー(野党第1党)の交代を繰り返すよりも、自民党と民主党系がそれぞれ姿勢を明確にする方が確かだ。

かつては自民党で幹事長まで務めながら左傾化した、そんな小沢一郎が民主党の代表になったことで、民主党は姿勢を明確にしつつ、素人っぽさを薄めた。このことが、国民に政権を任せられるための土台となった。しかし現状、その手は使えそうにないし、同じことを繰り返すだけでは信用されにくい。実現すればパワーがあるのは、野合であれ何であれ、何とか左派に限らない、しかし自民党と違いはあるような非自民連立政権を作り、その姿勢を徐々に明確化し、自民党の明確化を促すか、イタリアのように、優位政党(自民党)をバラバラにして大再編をおこすか、というものである。

ここで問題となるのが維新の会だ。自民支持派と事実上は拮抗しているはずの非自民の有権者を、さらに左派野党と、右派(保守)の維新の会とが、分け合う(有権者がもともと左右に大きく分かれているというのではなく、左寄り、右寄りの有権者をおさえた上で、中道的な有権者を左右から取り合おうとしている。なお、維新を「左」であると捉えるのだとしても、他の左派野党と同じ「左」ではない)。これでは政権交代など、まず起こらない。それでも起こるという時には、自民党は失望というよりも、憎悪、軽蔑されるという、危険な状態となる。言い方を変えれば、ひどい汚職と不景気が合わさりでもしなければ、野党分断のハンデを乗り越えるだけの、投票行動の変化は起こらないということだ。だが、そんな荒れた状態では問題解決は期待できない。自民党に代わる政権に対する視線についても、冷静さ、穏健さは期待しにくい。2009年の政権交代はやや、そういった状態に近かったと筆者は捉えている。その反面今のように政権交代失敗の記憶は薄かったから(細川内閣・羽田内閣には、政権交代と共に、政権の組み合わせの変更という面もあり、また離合集散が激しかったこともあって、どの党にどういった責任があるか、国民に広く理解されなかったというところがある。自民党に関しては明確であったようにも思えるが、ほとんど自民党政権鹿経験したことがなかった日本人にとっては、政党を比較して客観的に見ることも難しかったと言える)、せっかくの選挙による政権交代ではあったが、「一度やらせてみよう」という程度の、「万年野党への政権交代は失敗するだろうが、乗り越えなければいけない」という覚悟に乏しい決断であった(民主党も「一度やらせてくれ」という、いささか軽いノリであったようにも見えたが・・・)。

 

維新の会はどこからやって来たのか?→

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