日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
維新の会はどこからやって来たのか?

維新の会はどこからやって来たのか?

ここまで話が進んだところで、維新の会がどこからやって来たのか。確認することにしよう。

民主党政権が誕生するまでの10年くらいは、第3極らしい第3極は存在しなかった(民主党政権誕生直前の、衆参系5議席のみんなの党を除けば。また、民主党がもともと第3極であったことについては『政権交代論』「民主党はかつて、第3極だった」参照)。公明党や社民党、共産党が第3極を自負していたようなことはあった。しかし公明党は自民党と恒常的に組むようになったし、社民党は、民主党(「社さ新党」として出発しており、労組から支持を得ていた点で、中道左派政党に分類されるべき政党)の左隣に位置しており、共産党はさらにその左。これでは、民主党が明確に保守政党を自認し、かつそう認識されない限り、社共両党は第3極たり得なかった。

この時期、明確に第3極らしい新党は誕生していない。例えば、あまりに小さかったということを別にしても、国民新党は本来の自民党の姿をしていた。さらに結成後まもなく、民主党の陣営に入った。

自民党は一時的に弱っていた状態から、自社さ連立実現による与党復帰をてこに復活していた。一方で、政治改革ブームの余韻は十分にあり、政治改革(選挙や国会の制度の改革、政治資金の規制)だけに限定しない「改革ブーム」全体で言えば、その中になお日本はあった。左に寄り過ぎていた社会党→社民党は拒否感を持たれていたが、社民党がなおも存続していたこと、民主党が自民党離党者を多く含み、彼らが党を動かすことも多かったことから、民主党は社民党の後継とはあまり見られず、むしろ流行りの改革派と認識されていた。

筆者の周りでも、「政権交代は必要だけど、民主党にその力があるのか? 政権担当能力があるのか?」という、理念、政策よりも、資質に疑問を持っている人が多かった。政治通の人が、党内のグループ、左右の力関係について多少は関心を持っていた、といったところだ。そのような状況では、自民党の一定規模の分派なら別としても、新鮮な新党というのはあまり意味がない。そのポジションにはまだ、民主党が身を置いていたのだ。むしろ党名が変わっていないという点で、自共両党が評価される存在であった。

そんな中、支持を減らしてはいた自民党は、小泉内閣期に一度、伝統重視・競争重視の色を強めたものの、結局あいまいな政党に先祖返りをした。一方で民主党は、小泉路線に対抗して社民系の色を強め(自民党出身の小沢による、社会党への「先祖返り」)、政権獲得後しばらく(第1次鳩山由紀夫内閣まで)、その路線に留まった。すると、「新自由主義的改革はどこへ?」ということになり、まずはみんなの党、次に維新の会が生まれたのである。2大政党の双方が明確化したところで、これらの一定数の国民が求める、やはり明確な政党が、支持を伸ばした。

そう考えると、第3極が第3極に留まる理由が浮かんでくる。新自由主義などという前に、そもそも明確な政党を求める人が、日本では比較的少ないのではないか、ということだ。それは中道に位置する国民が多く、右翼や左翼の国民は少ないという、世界共通の傾向(最近危ぶまれてはいるが)と同じことを意味するのではない。あくまでも、皆に良い顔をしようとする政党が、広く受け入れられるということだ。

民主党では、小沢らの社民路線が、菅直人や野田佳彦の保守政党に近い現実的な路線に退けられると、離党者が続出した。これによって第3極は、みんなの党や維新の会といった右派と、小沢ら民主党離党者による左派の、2種類が存在する状態になった(4極になったとも言えるが、今は3極構造として話を進める)。第3極に、スタンダードな保守政党と、スタンダードな社民系の政党があったと見ることもできるが、双方ともポピュリズムの色を、多少なりとも帯びていた。だから、あいまいな左右の大政党の他に、左右のポピュリズム政党があったと見ることもできる(これこそ4極構造か)。

だが第3極左派は、民主党と同じく総選挙で惨敗した。政権を獲得した頃の民主党にも、左派ポピュリズムの色が少しあったが、選挙の頃にはほぼなくなっていたし、第3極左派も民主党も、理念や政策ではなく、民主党政権で内紛を起こした事が否定的に見られたと考えられる。民主党は政権を取った後に変節した事が、第3極左派は、党内対立を起こして離党した事が、それぞれ敗北の要因に挙げられる。第3極左派が民主党内でもめ事を起こしたのは、まさに民主党が変節したからであった。だから彼らの敗北は理不尽であるようにも思われる。しかし党内対立はこの変節だけでなく、鳩山内閣の総辞職で非主流に転じた小沢派と、代わって主流派となった非小沢派の、権力闘争でもあった。それに理由がどうであれ、離党する事、新党を結成して民主党と無関係であるかのように民主党を批判する事(実際にそのような面があっても)が、特に第3極右派と比べて、有権者に支持したいと思わせなかったのだと思う。政党制の発展を願う筆者にとっても、理由がどうであれ、やっとどうにか自民党と対等になり得る政党ができたのに、それを分裂で弱めるという事には、失望しか感じなかった。

またこの事と共に、左派的な政策を採るとしても、その前に財源をねん出する改革が必要だと見られていた事も、新自由主義的な第3極右派の方が支持を得た要因だと言える。もちろん、民主党政権の成立と失敗が、その財源ねん出の難しさを多くの国民に認識させたわけである。そこで、もう無理だとあきらめる人は選挙に行かなくなり、引き続き改革を求める人は、第三極右派に投票したのだ。そしてさらに、秘書、元秘書の当時国会議員が逮捕された(政治資金規正法違反)小沢の当時のイメージの悪さも、彼に率いられた第3極左派が負けた要因であろう。

どうであれ、もともと第3極左派の路線には需要があり、第3極は右派同士ですら共倒れをし、第3極左派は、同右派、そして元々同じ政策を掲げていた民主党と共倒れをしたのだから、非常に残念なことだと思う。

こういった事はあるが、新自由主義が一部に好まれるという事と、改革に前向きな姿勢が求められる事が、当時改めてはっきりしたのだとは言える。それだけ多くの票を、そのイメージのある維新の会、みんなの党が得たということである(みんなの党は民主党ブームが起こり、自民党がまだまだ強い中でも支持を広げたのだから、新自由主義政党に対する期待は、民主党政権ができたことからあった。民主党は新自由主義的な期待と、新自由主義の弊害を是正する社民系としての期待を、つまり矛盾する期待を、一身に背負っていたのである・・・)。

主張が明確な政治家が、既得権益に立ち向かうというのは、分かりやすくドラマティックである。国民が民主党政権の事業仕分けに満足せず、そのような「劇」を他に求めたのだという面もある。とは言え、議席数の少なさ、議席を増やす力の不足が期待をそぐから、それはあくまでも「一定のブーム」の素質でしかない。

その点で言えば、安倍内閣は、あいまいな大政党という土台に、【戦後主流であった穏健保守に立ち向かう右翼】という性格を加えていた。穏健保守とは、【平和重視、平等重視の、左派野党とかなり合意できる保守】といったところだろう。癒着構造については改革の必要性を認めつつも、劇的な変化に消極的だと言える。

総理大臣という権力者ではあっても、日本の中心部を覆う穏健保守や、増税志向の財務省、金融緩和に消極的な日銀(黒田を総裁に就任させるまでだが、安倍・黒田路線を進めるという意味でも)と戦う安倍の姿は、中道~右翼には共感を得られるものであった(日銀や、集団的自衛権の行使を違憲としていた内閣法制局については、良し悪しは別として、慣例を違えて人事に介入した)。もちろん安倍を右翼的とするのは大げさだという見方もあるし、「右翼的な面は口だけ」というところもあった。だが右翼的な人々は、口だけでも十分だと言えるほど、そういったものに飢えていた(その口だけでも、大臣の首が飛ぶのだから)。

話を戻すと、かつての民主党的なもの(改革派の若い政党)を求める人、民主党ではもう自民党を野党にできない、自民党に緊張感をもたらすことができないと考える人々が、必ずしも新自由主義的な考えを持っていなくても、みんなの党や維新の会を支持した、という面があると考えられる。さらには、維新の会は大阪で改革などを進めていたから、それを支持する明確な「維新ファン」も、必ずしも大阪に限らず、増えた(長期的に見れば、維新の元祖であった大阪派について、なんとなく支持する人が大きく減って、明確に支持する人がある程度増えたのだと考えられる)。また、この当時の維新にはたちあがれ日本系が合流していたから、維新は右翼的な人々の一部の支持も得た(安倍以上に、石原慎太郎や平沼赳夫を支持する人がいた)。

 

維新の会が民主党系と同水準の支持率を得続ける時、日本は後退する→

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