敵を設定するやり方

ここで維新の会の、他の問題点について整理しておきたい。今は政治家ではない、橋下徹の姿勢についても述べることになる。かつて維新の会の中心であり、今でも維新に大きな影響力を持っているように見えること、そして同党の議員が、彼の政界復帰を唱えていること、大阪維新の会の法律顧問ではあることから、一体的だと見て問題はないと考える。

では始めるが、まずは敵をつくる姿勢だ。これは改革に熱心であることの裏返しでもある。民意を受けた改革であっても、それに抵抗する勢力はいつでも存在するものだ。それがもっぱら、保身のためだけの抵抗であるならば良いのだが、改革の問題点を指摘し、それを正そうとする勢力、あるいは改革自体のリスクが大きい場合、それを指摘する勢力を、国民の敵、住民の敵とすることには問題がある。「民意を受けた」と言っても、民意自体、有力、有名な政治家の作戦で変わり得るものだ。民意を軽視してはいけないが、独裁者が民意を武器にした例はいくらでもある。

改革が必要なものだとしても、問題点に目を向けず、感情的な対立に持って行って成功させたのでは、危険だ。これは反対派も気を付けるべきことだが、大阪都構想がもし何度も住民に問われれば、それは大阪を分断してしまう。時が経てば忘れるのが日本人だからと言って、理由が何であろうと、自分達と考えが異なる人々を必要以上に敵視し、ばかにすることを続けると、さすがに溝は修復しにくくなる。

情けないことだが、日本維新の会、れいわ新選組は、日本では珍しい、はきはきとした政党である。それが長所であるわけだが、どれだけ自分たちが正義だと思っても、自制心は必要だ。維新の会にはそれが欠けているように思えて、心配になる。もし、可決するまで住民投票を何度でもやるというようなことになれば、それは押し付けである。

確固たる姿勢を見せることは得意な維新の会だから、自民党に取り込まれていると見えるようなふるまいをなるべく避けつつ、硬軟のバランスを大事にして欲しいと思う。

橋下は深刻なコロナ禍の中、公務員が一律給付の10万円を受け取ることを、批判して見せた。理由は分からないではない。だから、問題だと考えることを冷静に指摘する程度なら良いと思うが、決して権力者でもない国民の一部を槍玉にあげるのは、もちろん差は大きくとも、皆が大なり小なりコロナのダメージを受けて、困難に立ち向かっている、少なくとも協力しているという現状にそぐわない。

「槍玉にあげる」としたのはもちろん、「売り上げが大きく減ったり、失業したりと、直接的な被害を受けているところに給付を限るべきだ」というのではなく、公務員に給付すべきではないというように、特定の職業を挙げたことだ。橋下は「受け取り禁止」にすべき対象として、議員と共に公務員を挙げた。「公務員は受け取るな」としたのではなく、「受け取り禁止」をルール化すべきだとしたのだが、「受け取り禁止」というのはあまりにきつい表現である。

10万円の給付については、マイナンバーカードが普及していなかったこともあるとはいえ(維新は以前からマイナンバーカード普及の推進を主張していたが、それが実現していないのは地方公務員の責任ではない)、多くの公務員が四苦八苦したはずだ。もちろん他のコロナ対策によっても、仕事量は大きく増えているはずだ(橋下氏はこれらについて、実際に業務が増えた分の手当を支給すれば良いという立場である)。また、公務員であっても、これから給与やボーナスが減らされる可能性がないわけではない。そして公務員であっても、子供がいて、休校によって精神面、金銭面での負担が増えたかもしれない。そんな中、妬みを生むようなことを言って分断をあおるのは、悪しきポピュリズムでしかないと思う。あるいは富裕層を敵視する社会主義、共産主義に通じると言っても過言ではないとすら思う。

分断をあおるだけなら、まだましなのかも知れない。かつての、橋下大阪市長の職員へのアンケートは、単なる弾圧であった。それは組合活動、特定の政治家を応援する活動への、参加の有無等を問うものであり、組合員以外に誘われた場合にも、その氏名を答えなければならかった。記名制、かつ強制のものであり、空欄が許されない仕組みが採られた。これについて橋下市長は謝罪に追い込まれた。公務員の労働組合が支持するのは民主党系である(社会党→民主党→民進党→立憲民主党)。実際には組合活動しかしていない職員がいたこと、公務員の立場を利用した選挙運動など、様々な問題があったのは事実だ。しかし橋下市長は、それを正そうとするだけではなく、対立する政党の支持基盤の破壊までをも狙って、大きく道を外れてしまったようだ。

ポピュリズムに関して言えば、吉村府知事が、自らの言葉で語っていることには好感が持てる。大阪の人には特に励みになるだろうし、安心感も得られることだろう。しかしいくら何でも、依頼があるのだとしても、さすがにテレビに出すぎだと思う。大阪都構想の是非をめぐる住民投票が近づいてきているというのにだ。小池都知事も、コロナ対策を呼び掛けるCMに自ら出演し、それが連日流れていた。小池知事自身も続投を目指して立候補する、都知事選が近いにもかかわらずである。これは今は仕方のないことでもあるが、有権者が割り引いて見る必要がある(小池都知事にある程度不満はあっても、コロナ禍の今は都知事を代えるべきではないという考え、逆に、だからこそ代えるべきだという考えもあるが、それはまた別の話である)。報道機関も、選挙などで特定の候補者、政党に有利になり過ぎないよう、留意する必要がある。もちろん、そのために報道自体しないというのは本末転倒である。今は委縮しているようにすら見える一方、権力者の宣伝になることを回避できていない。二重に問題なのである。

維新についてさらに言えば、部外者として振る舞う橋下が、吉村知事のことを、とにかく褒めたたえている。これについても、報道機関は気を付けるべきだ。以前は、橋下が意外と中立的だという印象を受けていた筆者だが、吉村知事、そして都構想のこととなると、そうはいかないようだ。

橋下は、2019年の松井府知事・吉村市町ダブル辞任・クロス出馬の時、それが自身ではなく、吉村と松井によって決められたことを強調していた。自らが政界復帰するにしろしないにしろ、橋下の後継者たり得る人物が育ち、認知されることは、維新の会、橋下が大阪で敷いた路線にとって、非常に重要だ。橋下は新型コロナとメディアを利用して、その実現を助けようとしているのだろう。

これらのことについて、橋下や吉村、そして小池ばかりを責められない。見る側も、派手さ、にぎやかさに負けず、分かりやすさに安心せず、反対派にも関心を持ち、冷静に判断しなければいけない。リーダーシップを求めるのは当然だが、その負の面にも気を付けていなければいけない。皆が気を付けて、その上で物事が進んでいくのなら、それは良いことだ。

吉村知事のポピュリズム的な面が表れたのが、甲子園大会中止の撤回を求める発言だ。甲子園大会の中止は、それを目指してきた高校生にとって、とても言葉にはできないような、辛く悲しいことであるはずだ。吉村知事の発言の起点にも、彼らへの思いはあるのだろう。しかしその発言によって、「高校生の夢を踏みにじる高野連に立ち向かう吉村知事」、という物語ができる。「古い体質の政治家や官僚に立ち向かう維新」というのと同じ構図だ。

しかしそれはあくまで物語である。甲子園大会の予選はできるのか、地域によって事情も違う。高校野球の大会を開催するのなら、それ以外の大会やコンクールもやるべきではないのか。高校球児以外の夢は、夢ではないのか。高校球児以外の青春は、青春ではないのか。そのような線引きは誰がするのか。吉村知事は高校野球自体の責任者でもない。

中止を決めた高野連を、保身優先の事なかれ主義などと、批判するのは簡単である。しかしそれは物語上の「名シーン」に過ぎない。現実はそんなに単純ではない。様々な配慮もするから、「上」の決定というのはすっきりしないものとなる。その配慮には確かに、事なかれ主義、事務的な面があり、「上」の利益になるようなこともあるだろう。しかしそれが100%だと思ってはいけない。それでは例えば、「悪の安倍総理を倒そう」というような、勧善懲悪の世界観を批判できない。

実際、この問題が浮上した時よりも、夏にはコロナの感染者は増えた(それが実際にどれだけ危険なことなのか、それより経済を優先すべきではないか、などということについては、話がややこしくなるので置いておくが、維新は「コロナはたいしたことがない」という立場では、少なくともない)。事はやはりそう簡単ではない。問題があれば批判すべきだし、異論があれば発信しても良い。しかし影響力と権力を兼ね備えているような政治家は特に、力の加減に注意する必要がある。リスクを取って甲子園大会を開催すべきだと言うのはかっこいい。何も起こらなければ、勇気があると言われるかもしれない。しかし、自らの管轄でない、つまり責任を取れないことについて、他者に強く促すことは、特に権力、影響力の強い政治家はすべきでない。

国民に声を届けるのは良いが、国民から見えるところでの、派手さばかりを求めてもいけない。それを改めて感じたのが、うがい薬に関する会見の件である。これについては後述する。

新型コロナの問題と、それに起因する、立憲民主党と維新の会の支持率の拮抗によって、野党の対案路線が目立つようになったのは良いことだ。しかしアピール優先、印象操作という、きれいごとではない政治において排除し難いものについて、国民は特に冷静にならなければならない。今までは、近くて遠い地方自治、「反対、追及ばかり」の野党であったから、変化の兆しを喜びたい気持ちは強いが、気を付けなければと思う。不幸中の幸い。せっかくの進歩を、悪しきポピュリズムに堕させてはいけない。