日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
起こり得る、「保革連立」の再来

起こり得る、「保革連立」の再来

保革連立とは、保守政党と、かつて革新と呼ばれた左派政党との連立である。かつての自社大連立がそうだし、今で言えば、普通に考えれば自民・立憲大連立がそうである(自民党と民社党系の連立をそう呼ぶこともできるだろうが、印象としては少し違う気がする。民社党系はより中道色が強いし、保革連立とは陣営を越えた大連立というイメージが強い。大連立とは、第1、2党の連立を指す)。

自社さ連立が再現され得る理由としては、自民党内の力関係というものもある。優位政党であり、少なくとも2大政党の1つではあり続けるであろう自民党は、内部の権力争奪戦が、その勝利によって得られるものの大きさから、時に激化する(配分できるポストに乏しい野党内の不満→対立とは、また別物だと言える)。自民党内が1強状態になる傾向は間違いなくある(かつては田中派→竹下派→小渕派→橋本派、今は小泉・安倍の、森派→町村派→細田派)。しかしその優位派閥の内部あるいは外部から、「隙あらば」ということがある。竹下派の後継争い、小泉総理誕生による優位派閥の交代が、その代表例である。ちなみに、竹下派の後継争いの敗者による新生党には、安倍派の後継争いの敗者であった、加藤六月(自民党の加藤勝信の岳父である)らが参加した。改革派として自民党を離党した議員達が結成したとされる新生党には、このような面もあるのである。

党内対立においては、他党とのパイプも一つの強力な武器となり得る。今の自民党では、公明党とのパイプを持つ議員、維新とのパイプを持つ議員が強い。連立のパートナーであり、創価学会員の票を得続けるために、絶対に切ることのできない公明党とは、必ず調整が必要になるのだから、前者については当然だ。また、野党とパイプがある場合、与党の過半数割れを起こすだけの人数(派閥単位)があれば、「自民党を離党して野党と組むぞ。そうしたら自民党は野党に転落するぞ」と、脅すことができる。

ここで、自社さ連立について簡単に確認しておきたい。以下の通りである。

・万年与党自民党の癒着・利益誘導の政治が、汚職事件が続いたこともあり、また問題となった。

・万年野党の社会党は、【自衛隊、日米安保に反対する非武装中立路線】からの変化を目指しつつも、それができず、内部対立にばかりエネルギーを注ぐ状態で、支持を減らしていた。

・他の野党は状況を打開しようとしたが、勢力が小さく、限界があった。

・自民党内の最大派閥であった竹下派が、後継者争いによって大分裂(1992年)。派閥は小渕派となり、敗者は離脱して羽田・小沢派を結成した。

・羽田・小沢派が、政治改革への消極的な姿勢を問題とする、野党の内閣不信任案に同調した。これが可決、衆議院解散となり、羽田・小沢派は自民党を離党して、新生党を結成した(一足先に、不信任案には反対していた改革派の議員達が、自民党を離党して新党さきがけを結成していた)。

・新生党は、英米で主流となり、日本でも過去に中曽根内閣が模索した、新自由主義路線を採った(中曽根内閣は鉄道、電話、たばこの製造・販売の、民営化を実現)。それは、バブルの崩壊に苦しみ、そもそも大きな成長が難しくなっていた日本において、理想的な選択肢と見られるようになった。

・総選挙(1993年)の結果は、自民党の現状維持、社会党の第2党維持であったが、選挙前の分裂によって自民党が過半数を下回っていたため、非自民・非共産連立が成立した。社会党は議席を半減させ、第3党(新生党)との議席数の差はわずかなものとなった。

・与党第1党の社会党と、与党の主導権を握る新生党の理念・政策は相容れず、また感情的な対立もあって、連立は崩壊し、自社さ連立内閣(村山内閣)が成立した(1994年)。

・【新自由主義、軍事力強化を排除しない対米追従路線】の新生党等vs【古い政治の改革は必要だが、そこまではしたくない勢力、そもそも改革、対米追従に否定的な勢力】による自社さ連立政権、という構図ができた。ただし総選挙(1996年)では、新生党や公明党が結成した新進党も、自民党も、そして社さ両党から生まれた民主党も、似たような改革を唱えるという、改革競争が繰り広げられた。

・社さ両党の連立離脱(1998年)後ではあったが、与党自民党内において、新進党と協力しようとする保保連合路線が、社さ両党または民主党を優先する自社さ路線に敗れ、新進党も崩壊すると、状況は混とんとした。自社さ派は、社さの多くが結成した民主党が野党化し、社さが連立を離脱した後でも、自民党の主流派であり続け、新進党を解党した小沢が結成した自由党、新進党解党を受けて復活した公明党と連立を組んで、自民党不人気の状況に耐えて、その優位政党の地位を守った(1999年)。

※自社さ派は自民党左派、保保派は自民党右派であるのが自然であり、自民党内の双方への分化の原型には、そのような面もあった。しかし、保保派の陣営にはどう見えても自民党内では左派であり、自社さ連立の中心人物であった河野洋平(村山内閣で副総理兼外務大臣。河野太郎の父)が参加した。一方で自社さ派は、社民党残部も民主党も自民党に敵対的になっていく中で、自民党の右に位置していた自由党を連立相手する、自自連立を主導した(小沢は現在でこそ民主党系でも左派であるが、当時は全く違った)。

※社さ両党の連立離脱、参院選での大敗、与党に復帰して時間がたってきたことが、自民党内の激しい対立を復活させた。しかしそれはかつての、【優位派閥中心の主流派vs反主流派】という形とはやや異なっていた、各派の後継争いとリンクしていたのである。派閥の世代交代の時期に入っていたことも、その要因である。次の通りだ。

・小渕派:自社さ派が主導する小渕派を、梶山静六ら保保派が離脱

小渕らの勝利と羽田・小沢らの離脱によって、派閥の後継争いは終わっていたが、参院選大敗の責任をとって辞任した橋本龍太郎(小渕派)の後継を決める総裁選に、小渕とは別に立候補した梶山と、それを支持した菅義偉ら2名が離脱した。

・宮沢派:離脱者・・・保保、残留・・・自社さ派

後継争いを加藤紘一が制した。加藤のライバルであった河野洋平らが離脱し、河野派を結成した(正確には当時は、総裁選に立候補するための推薦人の数に届かない派閥は、グループと呼ばれていた)。河野は自民党では左の方であったし、社さ両党と近かったから、彼の保保派側への転換は、自民党総裁でありながら、自社さ連立で総理大臣になれなかったこと、似た姿勢であった加藤が宮沢派の後継者の座を得たことから、保保派で展望を開こうとしたのだと考えられる(河野はもともと父親がつくった河野派→中曽根派の出身であったが、自民党を離党して新自由クラブを結成し、自民党に復党した後は宮沢派に属していた。つまり外様であった)。

・三塚派:離脱・・・保保派、残留・・・自社さ派

後継争いは終わっていたが、小泉純一郎の総裁選出馬と、それを支持した森喜朗に反発した、亀井静香らが離脱した。亀井らは渡辺派と合流して、村上・亀井派を結成した。亀井はもともと自社さ連立の実現に動いた議員であり、自社両党合流による新党結成を唱えていた。

・渡辺派:離脱・・・自社さ派、残留・・・保保派 ※他派とは逆である。

渡辺美智雄は死去していたが(だから正確には旧渡辺派とされていた)、事実上のトップの中曽根康弘が山崎拓を後継に指名しない中、山崎が離脱し、山崎派を結成した。残留派は亀井らと合流し、村上・亀井派を結成した。ベテランが残留、中堅・若手が離脱という傾向があった。

 

以上の通り、規模の小さかった高村派を除く、全派閥が分裂したのである。それでも党の分裂には至らなかった。

 

・自民党の古い体質は問題にされ続け、結局、一進一退を繰り返しつつも新自由主義化せざるを得ず、それを見て社民路線に回帰した民主党との、いわゆる左右の2大政党という欧米の基本に到達し、不可能に見えた政権交代が実現した。

 

以上だが、そもそも非自民連立には、小沢一郎(竹下派)と公明、民社両党との関係、自社さ連立には竹下亘らと、社会党の村山らとの関係が背景にあった。どの野党にも、竹下派は強いパイプを持っていたのだ。自民党内の派閥間の対立と野党間の溝・対立は容易に結びつき、時にそれが派閥間・野党間の溝をさらに広げる。あり得なさそうに見える自・立連立も、昔ほどには与野党間のパイプが強くないとは言っても、おどろかされた自社さ連立同様、実現し得るのである。

 

ブームという矮小化現象→

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