野党第1党のあるべき姿

コロナ禍における維新の支持率上昇はうなずけるとしても、それはその行動力に対する評価であるのだろう。だが、新型コロナ問題に対応するのとは違い、維新の政策、行動全体は、本来賛否が分かれるものだ。つまり維新は、何でもありの自民党に対する、絶対無二の挑戦者というわけではない。そうであるなら筆者は、自民党の挑戦者をコロコロ代えるべきではないと考える。自民党に対する挑戦者は、ずっと社会党系であった(しかし社会党としては、自民党より多くの議席を得た本当の勝利は、1989年の参院選しかない)。1993年の総選挙において、社会党は議席を半減させたが、それでもまだ、第2党ではあった。それが第3党に転落したのは、新生党、公明党、民社党、日本新党、自由党、新党みらい、改革の会、高志会が合流したためだ。1994年12月の、新進党の結成である。

その新進党が衆議院第2党になったことを、国民は受け入れて、95年の参院選において、新進党を第3党から第2党にした。しかし新進党は、1997年末に分裂した。国民はこれも受け入れて、新進党分裂の結果野党第1党となった民主党(社会党の流れを汲む)を、決して第3党に落とさなかった(比例票に限れば、野党転落後の2012年には維新に次ぐ第3党―野党第2党―に、2013年には公明党に次ぐ第3党にしたが)。それどころか2004年、2007年の参院選(この2回の勝利で第1党になった)、2009年の衆院選では第1党にした-比例票だけなら2003年の衆院選も第1党-)。

2017年の総選挙では、15議席に過ぎなかった(前議員の数。参議院は1議席)を、総評(公務員の労組を中心とする、連合の左派)の力があるとは言っても、野党第1党に押し上げ、小池都知事とそれに乗った民主党系、つまり希望の党を、第3党に転落させた(希望の党は民進党からの参加を得て、衆議院第2党となっていた)。1953年と同様に、分裂した社会党系の中での上位を、右派から左派に取りかえたのである。しかも2017年は、第2党にまで押し上げたのである(1953年には自由党が第1党、改進党が第2党で、左派社会党は第3党)。

何度も述べているが、保守政党と社民系の政党が対峙するのは、欧米の議会政治の基本形だ。日本人も、現状追認である場合が多いとはいえ、それを(きちんと)受け入れていると言える。

だがしかし、第2党をしっかり取りかえることはしないまま、新党ブームばかり起こるのでは、優位政党のライバルに定めたはずの政党(社会党系)が、その地位を維持しつつも弱るだけだという、最悪の結果になる。挑戦者について、国民がちょっとした目移りを繰り返せば、自民党優位が続き、国民が選択肢を得られないという状態が永久に続く。

1998年1月に民主党が第2党となってから後を見ると、2005年、郵政民営化反対派による国民新党・新党日本の2党と、自民党との対決が注目を浴びた。しかしそれは、自民党と明確に対決することを恐れて無所属に留まった議員達と、合わせて注目されたにすぎない。2党に自民党のライバルになって欲しいとは、その支持者すらほとんど考えていなかったであろう(新党日本はすぐに各院1議席になったし、国民新党も、議席が最も多い時でも衆参計10議席を超えることはなかった)。郵便局の利益を代表するためだけの政党に、両党は事実上はなっていた(新党日本は、都市部の郵政民営化反対派が、改革派知事の田中康夫を担いで、改革に対する抵抗勢力のイメージを薄めようと、国民新党とは別に結成した政党であった。だがそれゆえに、総選挙では1議席しか取れなかった。国民新党は反新自由主義であり、菅直人内閣以降の民主党政権が取り組んだTPP、消費税増税については反対したから、そこで、良し悪しは別として役割を担うこともあり得た。しかし党の多数派は、TPP推進、消費税引き上げに転じた民主党との、連立維持を最優先とした。なお、国民新党は自主憲法制定を唱え、永住外国人への地方参政権の付与と、夫婦別姓に反対であったから、自民党が新自由主義路線さえ止めるなら、民主党よりも自民党にずっと近い政党であった。実際にたちあがれ日本と組もうとしたが、与党のまま、たちあがれ日本を民主党政権側に引き寄せようとしたので、拒まれた。たちあがれ系については、『政権交代論』「真の保守も何どもつぶれ仲間を見捨てる」等参照)。自民党の造反者が注目され、民主党が本当は郵政民営化に反対ではないという見方もあったにもかかわらず、自民党のライバルは民主党しかないという状態が。続いたのである。だから民主党は、この郵政選挙で敗北したものの、弱体化しなかったのである。

「対案路線か対決路線か」ということについても、郵政問題における反省も踏まえ、民主党はその後、明確に答えを出した。ただし短期間で変更することはあった。

まずは前原新代表によって対案路線が明確にされたが、次の小沢代表で対決路線となった。ところが与党になってから、この2つの路線を巡って分裂した。無理な合流もたたったとも、言えないことはないが、それは「理念や政策が異なる政党が合流したから」ということではなく、あくまでも主導権争いであり、同時に、路線を巡る対立でもあった(どちらが先かは、小沢一郎らの心の内を見られない以上、分からない)。

その後について確認しておくと、民主党政権の後半は対案路線(政権党なのでこの表現はおかしいが、長期的な自民党1党優位体制の中で見れば、ということだ)、野党転落後はしばらくの思考停止状態を経て、対決路線、後継の民進党が分裂した後は、希望の党→国民民主党が対案路線、立憲民主党が対決路線である。ただし国民民主党は、立憲民主党より弱いため、同党に寄ることがあり、いささか不明瞭になることがある。

ここで大事なことがある。民主党は対決路線で支持を得たのだ。ただしこれは、「国民の生活が第一」という、自民党と異なる選択肢となった上でのことであった。それを実現するために、今はとにかく何でも反対して、自民党にダメージを与えるということが、国民に認められていたのだ。【国会における対案】ではなく、【国会における反対と、選挙における提案】、この組み合わせが支持されたということを、「対案信奉者」も「対決信奉者」も、理解していないのではないだろうかと思うことがある。それが唯一の正解だということではないし、自民党の路線が、修正できないほどひどい路線、あるいは民主党系と遠くかけ離れた路線であるとまでは思わないが、これが重要な手がかりになる。れいわ新選組が支持を広げた背景にも、このスタイルがあると思う。

少しさかのぼって、【自民党のライバルは新進党か、民主党(社会党系か)か?】という、過渡期にならなかった過渡期について述べたい。新進党が分裂したのは、自民党に勝てるめどが立たなくなったためだ。公明党系が自民党を敵に回し続けることをためらい、自民党出身者の多くも動揺し、自民党に戻ろうとした。

では、新進党が自民党に勝てなかった理由とは何か。今考えると勝てなくて当たり前だが、新進党には創価学会がついていて、自民党は五十五年体制下よりは弱っており、人気もなくなっていた。新進党はそれでも勝てなかった。これが今とは違う。一方で連合の支持は、新進党、民主党、社民党残部に分散していた。そのこととも関係するが、新進党が自民党に勝てなかった要因は、民主党と共倒れになったことである。共倒れ、まさに今懸念されることだ。ただし新進党は維新よりずっと大きい。それでも自民党出身者、公明党中心の政党ではあったから、こらえ性がなかった。新進党内でも、民社党(1960年に社会党離党者が結成)の流れが最も動揺していなかったことが、それを示している(ただし民社党の力を失っていた委員長経験者2人が自民党に移っている―うち1人は元議員―)。やはり、社会党にルーツを持つ勢力は、こらえ性がある(その分反対、追及で憂さを晴らすことも、ある程度は許されるべきだろう)。

以上から、そしてもちろん欧米の基本にあてはまることから、自民党に対する挑戦者は、民主党系しか考えられない。その中でも、今野党第1党であり、保守色のより薄い立憲民主党である。あるいは立憲民主党と国民民主党が、立憲中心に合流した政党である。

野党第1党を今から取りかえることには、大き過ぎるエネルギーがいる。このことからも筆者は反対なのだが、もしそれをやるのなら、早期に、しかも国民自ら選挙で実現させて、本当にそれで最後にするという覚悟でなければ、いつまでも与野党に、ただ文句を言うだけの国民だ。