日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
国民の覚悟

国民の覚悟

次に、前節(「第3極が浮上する時」)に続き国民の覚悟についてだが、第1、2党を育てることを優先し、それ以外の党を支持するのは、よほどのことがある場合に限るべきだ。その時々で、民主党系より共産党が良いとか、維新の会が良いとかいうことはあるだろうが、そのような目移りは、1強多弱(化)に与することになる。極端なことを言えば、2位争いが始まり、第2党のエネルギーが、対優位政党に使われなくなる。それで得られるものもないわけではないが、国民が政権を任せられる、かつそれに十分な議席を取れるような第2党が育つのを、阻むことになる。

第2党はどうしても、第1党を見た上で、戦闘スタイルを調整せざるを得ない。それが阻まれるのである(追記:この点で言えば、有利な立場にある優位政党自民党が、党首、つまり総理大臣をタイプが異なる人物に代えること、ましてや、ご祝儀相場で支持率が高いうちに解散するというのは非常にずるい)。このようなことが全てではないが、相手チームを研究して試合に臨むのは、当然のことではないか。その研究対象を第3極にしてしまったら、第2党は自民党(第1極)とどう戦うと言うのか。

戦後の日本の野党第1党は、基本的にずっと社会党系である。自民党結成前の1945~55年は、社会党が左右2党(正確には+最左派、最右派の4党)に分裂していたこともあって、自民党を結成する自由党系と改進党系が、第1、2党であることが多かった。その場合社会党系はキャスティングボートを握る第3極であったか、それでも保守vs革新(社会党)という構図は、間違いなくあった。今まで色々と分析や批判がなされてきたが、とにかくそれは変わらなかった。

総評(公務員の労組が中心の、連合左派)がついている党が第2党になるのだという見方がある。しかし総評がつくだけで、立憲民主党は第2党になれただろうか。新進党は、創価学会や旧同盟(連合の右派)がついていたわけだが、旧総評なしで第2党の地位を維持し、参院選では第2党になった。仮に、旧総評の支持する政党が第2党になるのだとしても、総評も日本人の一部であり、総選挙の投票は無記名で、誰が誰に入れたか分からないのだから、立憲民主党に投票した総評の組合員も、強制されて投じたわけではない(信仰で投票をするわけでもない。就職してから総評のような考えに触れたという人も少なくないのではないだろうか)。

ならばこの社会党の系譜に与党としての経験を積ませ、人材も集まるようにするしかないのではないだろうか。人材や意見がきちんと多く集まれば、変化すべきは変化する。社会党時代は、今の共産党よりは間違いなく左であった、最左派の党員の割合が高すぎたのである。

左右(極端でない中道の左右)の2大政党を中心とする、政権交代のある政治は、欧米の基本である。確かに欧米も今、変化してきている。しかしそれは基本をマスターした上でだ。日本が基本をマスターできないことについて、納得できるような違いが欧米との間にあるだろうか。そして「日本は日本だから」というあいまいな理由で、欧米から取り入れた議会政治の基本をマスターしなくて本当に良いのだろうか。改めて考えてみたいが、あまり言い訳にはならないと思う。つまり、「基本をしっかりやりなさい。」という注意を免れるものではないと思うのだ。

しかしあえて挙げれば、国内に分断(溝)がないということだ。日本国内には民族間の対立はもちろん、地域間の対立もない。沖縄の基地問題などはあるが、溝としては深刻な問題ではない(だから軽視され、一部の人々が苦しむということが問題なのだが)。文化の違いなどを巡る対立もない。しかし階級間、地域間の溝がないというのはどうだろうか。例えばヨーロッパのように、階級社会とその名残りが深刻なわけではないし、「本州国が九州国を併合した」などという歴史もない。しかし大都市と農村、富裕層と貧困層の格差は大きな問題だ。

姿勢のあいまいであった民主党の左傾化、その後継の民進党の分裂と、その左派による立憲民主党の躍進は、そう考えると当然の結果であった。その後、国民の期待をつなぎ止められなかった立憲民主党にも落ち度はあるが。支持した国民も、支持した以上はすぐに見捨てず、目移りせず、いやなところがあれば声を届ける必要があった(大変なことだが、それが民主主義である。すぐあきらめて目移りするのは自殺行為だ。立憲民主党に対するデモをするのでもよい)。

それとも1党優位の日本に今、欧米とは違う近道、抜け道があると言うのか。筆者はないと思うが、どうであれ、国民が政党システムの「全体像」を考えるべき時である。そして当然のことだが、その要素である民主党系を、冷静に見なければならない。政党システムに関しては、近く改めて述べる。

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