日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
1. 第3極の定義と役割

1. 第3極の定義と役割

第3極を分析するためには当然、何をもって第3極とするのか、定義を明確にする必要がある。それは意外に難しいことであると気が付く。第3党が必ず第3極であるというわけではない。その政党が第1党、あるいは第2党と恒常的に連携していれば、それは第1極、または第2極の一部であるからだ。また、第3極に、志向の異なる複数の勢力が含まれている、ということもあり得る。

ここでは第1、2極の間に位置しているか、双方と異なる独自の立場を採り、第1、2党より小さな勢力をまとめて第3極と呼びたい。議院内閣制であれば、第1党の陣営を第1極、第2党の陣営を第2極とすべき場合が多い。しかし大日本帝国憲法下の日本は議院内閣制ではなかった。ここでは伊藤系と自由党系による政界縦断の漸進が始まる前(明確に区切ることは難しいが、第4回帝国議会までとする)については、薩長閥・吏党が第1極、民党が第2極であったと捉え、後については自由党系、改進党系をそれぞれ第1、2極と捉えることとする。なぜなら、伊藤系と自由党系が接近して以降は、政党の存在感が示された後であり、自由党系と改進党系が、基本的には対立していたからだ。第6回総選挙前後、第1次桂内閣期は例外であるが、前者はごく短い期間であり、自由党系、改進党系をそれぞれ第1、2極としたままでも問題はないと考える。後者についても、衆議院の勢力を中心に見る限りにおいては、とりあえず問題はないと考えて進める。

議席数等において、しばしば第1、2勢力となるようなものは、第3極とは呼び難い。そのような変化がないか、少なくとも長期間起こっていないという状態でなければならない。あるいは、起こっていたとしても、例外とし得ることが明確であれば、良いだろう。
第1、2極のいずれかに長期的に与するものも、第3極とは呼び難い。ただし、第3極でありながら長期的に第1極、あるいは第2極に協力をしていることについて、合理的な理由があり、かつ、選挙における協力が恒常化していないなど、高度の自立性を維持している場合は、例外として、認めても良いだろう。

また、何をもって「第1、2極の間に位置している」とするのか、これも難しい問題だ。ここでは、敢えて厳密には考えないこととしたい。この不徹底がもたらすマイナス面は、第3極に該当する各勢力をさらに分類することで補う。

ここでは、院内会派をも対象としたい。詳しくは後述するが、明治、大正期の、政党に属さない議員達による会派には、特定の政策の実現のために結成されたものもあり、それらを排除することは有意義だとは言えないからである。そもそも、政党であるのか院内会派であるのか、明確でない勢力も多かった。そうはいっても、第1、2党の主戦場ではなかった貴族院における院内会派は、煩雑さを回避するため、対象から外したいと思う。

以上のこと、また明治、大正期を扱うことから、第3極の定義を次のものとする。

  • 薩長閥政府と民党、または第1党と第2党の対立について、その間、または外に位置し、双方と異なる立場、あるいは双方の間に立つか中立の立場を採り、自らの主張を実現させるために、一方と接近することはあっても、その陣営に恒常的に組み込まれる意思はない、第1、2党よりも小規模な政党、または衆議院の院内会派。

この定義に当てはまる政党、院内会派が、第1、2極の間に同時に複数存在する場合、それらは、各々が第3極という存在の一角であったということになる。そして第1、2極の左右か間に分かれて存在する場合、第4、あるいは第5の極が存在することになる。とはいえ、第1、2極の左にあるのか右にあるのか、または間にあるのかということを判断するのは難しい。ここでは煩雑さを避けるため、これが明確でない場合は、全て第3極であったと捉えたい。それで済まそうというのではなく、そこを出発点にしたいと考える。幸いなことに、議会開設当初の状況は、それを許してくれるものである。

第3極の役割についても考えたい。1つは、第1、2極が取りこぼした民意をすくい上げることである。これは、政策的な対立軸を、時代に合うものに変化させることにもつながり得る。もう1つは、第1、2極が共に過半数に届かない場合、または議院内閣制でない制度の下において、政権と議会の多数派が対立関係にある場合など、政治がこう着状態にある時に、本来どちらの勢力にも属さない立場を利用して、これを打開することである。多元的な政治制度を採っていた大日本帝国憲法下の日本においては、衆議院の多数派が野党であった場合、政府と野党が何らかの妥協をするか、再編が行われることが不可避であった。

なお、改進党系(議会開設当初は第2党・衆議院における第3会派)が薩長閥と自由党系の取りこぼした民意をすくい上げ、双方の展望なき対立の打開に挑戦しても良かったのだが、同党は、自由党系と共に薩長閥と対峙することを優先していた。

最後に、我々は薩長閥と民党の展望なき対立が終わったことを知っている。問題は多々残されていたが、政党内閣期に辿り着いた。この時、第3極は一つの大きな役割を失った。しかし我々は、薩長閥中心の内閣から一夜にして、安定的な政党内閣期に入ったのではないことも知っている。この変化の過程で、第3極は新たな役割を担った。優位勢力に対する対抗である。

議会開設当初、優位勢力は薩長閥であった。しかし衆議院では自由党系が着々と自らの優位性を確固たるものとし、その影響力は薩長閥と肩を並べるほどになった。薩長閥という優位勢力と戦ったのは民党である。第3極にも民党側に立つようになる勢力が現れた。

では自由党系と戦ったのは誰か。第2党だと言いたいところだが、そうではない。第2党の改進党系は戦わなかったわけではないが、迷走を繰り返した。そして改進党系の立憲国民党の残留派の中心であった犬養毅達は、遂には自由党系の立憲政友会に合流したのである(ただし当時、立憲政友会は優位政党の地位を失っていた)。

第2党に代わって自由党系と戦ったのは、第3極の勢力であった。そして自由党系と戦うようになった第2党、立憲同志会の系譜には、立憲国民党の約半数の議員達と共に、その第3極の議員達が参加している(既存の2大政党がすくい切れなかった民意の反映も、新たな第2党に託された)。薩長閥政府と民党の展望なき対立の打破、それに代わる役割とは、優位勢力への対抗と、優位性を弱める再編であった。この役割は第2極も担ってはいたが、第2党の議席数の推移を見ただけでも分かる通り、単独で果たせる状況ではなかった。

もちろん、立憲同志会の系譜も、直ちに自由党系と肩を並べるものとなったわけではない。このことは、第3極から立憲同志会の結成、その後継の憲政会の結成に参加した議員達に、第2極の中で、引き続きこの役割を担うことを強いたのである。

 

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