3-03. 明治、大正期の第3極②~立憲政友会結成以後~3.補論

3. 明治、大正期の第3極②~立憲政友会結成以後~

第4次伊藤内閣の増税に賛成した憲政本党から反対者が離脱して、三四倶楽部を結成した。さらに模索された憲政本党と三四倶楽部の再統一に動いていた新潟系が三四倶楽部を離脱し、新潟進歩党を結成した。旧日吉倶楽部系と旧議員同志倶楽部系の立憲政友会不参加者は中立倶楽部を結成した。第4次伊藤内閣が大蔵大臣と他の閣僚の不一致によって幕を下ろすと、第1次桂内閣が成立した。その前身である国民協会の時代から山県系の色を濃くしてきた帝国党が、これを支持した。

第1次桂内閣の下で行われた第7回総選挙(1902年8月)は、市部を独立の選挙区とし、大選挙区制を基本とする制度に改まって以後、初めての総選挙であった。

市部選出の無所属議員達は、厳正中立を志向して壬寅会を結成した。新潟進歩党、議席を大きく減らした三四倶楽部は、同志倶楽部を結成した。憲政本党は内閣への接近を試みたこともあったが、桂の関心の中心は、衆議院に過半数の議席を持つ立憲政友会との妥協、またはその切り崩しにあった。結局、立憲政友会と憲政本党は共に地租増徴の継続に反対して桂内閣と対立し、衆議院が解散された。

第8回総選挙(1903年3月)の後、旧中立倶楽部系、壬寅会のそれぞれ一部が中正倶楽部を、桂との内通を疑われて立憲政友会を除名された議員等が政友倶楽部を結成した第8回総選挙の前、その所属議員の除名により、立憲政友会は初めて、わずかながら衆議院の過半数を下回る勢力となっていた。同会では総裁専制を改めようとする運動が起こっていたが、その一部は第1次桂内閣と接近していた。立憲政友会の総裁であった伊藤は独断で、桂と、地租増徴によらない海軍拡張について合意をした。同会内部からは反発が起こり、伊藤が枢密院議長となって同会を去ったこともあって離脱者が続出、一部が民党的名同志研究会を、一部が新潟進歩党と共に中立の交友倶楽部を、立憲政友会の中心的な存在となることができなかった土佐派が自由党を結成した。立憲政友会は再度憲政本党と組んで第1次桂内閣と対立した。憲政本党の河野広中衆議院議長が起こした奉答文事件(『キーワードで考える日本政党史』第8章第3極・2大民党制(⑤~⑦)参照)が衆議院の解散を招いた。その後、日露戦争が勃発した。

第9回総選挙(1904年3月)の後、旧中正倶楽部系、旧交友倶楽部系等が甲辰倶楽部を結成した。旧同志研究会系は河野広中等を加えて無名倶楽部を結成した。戦争は日本の勝利に終わったものの、国内では賠償金のない講和に対する反発が起こった。憲政本党、無名倶楽部の後継であった同攻会は第2次桂内閣と対立したが、立憲政友会はそうはせず、党の総裁であった西園寺による第1次内閣の成立を実現した。この間、市部選出の無所属の実業家等が有志会を結成した。そして帝国党、自由党の多く、甲辰倶楽部、有志会のそれぞれ約半数等が大同倶楽部を結成、有志会の他の約半数と旧同攻会系が政交倶楽部を結成した。

第1次西園寺内閣は立憲政友会、桂と近い大同倶楽部の支持を得たが、独自色を出したことで、大同倶楽部が離反した。ただしその一部は切り崩され、立憲政友会に移った。政交倶楽部は猶興会として再結成された。度々立憲政友会に裏切られる結果となっていた憲政本党では、立憲政友会に対抗して桂に接近しようとする改革派と、民党的な立場を維持し、立憲政友会との連携に尚も期待する非改革派による、党内対立が深刻化し始めた。

第10回総選挙(1908年5月)で議席を増やし、さらに新規入会者を得た立憲政友会は、衆議院における過半数を久々に回復した。しかし山県が財政政策の不備と、社会主義者取締りの不十分さについて上奏したことを契機として、第一次西園寺内閣は総辞職、第2次桂内閣が成立した。旧猶興会系が又新会を、無所属の実業家等が戊申倶楽部を結成した。非政友会勢力の再編が模索されたが、憲政本党、又新会は、桂と近い勢力を含めるかどうかについて揺れた。桂に近い大同倶楽部、そして戊申倶楽部の一部は中央倶楽部を結成し、彼らの廃除に傾いていた憲政本党、又新会の一部、そのような再編を策して又新会を脱していた議員達による無名会が、立憲国民党を結成した。第2次桂内閣は、揺れる第2党を当てにできず、立憲政友会と妥協し、同党は内閣への協力と引き換えに次の政権を得た。

こうして第2次西園寺内閣が成立し、第11回総選挙(1912年5月)が行われた。旧又新会系(残部)等が同志会を結成した。第2次西園寺内閣は陸軍の求める二個師団増設を拒み、陸軍大臣の辞任を招き、後任を得られず総辞職、第3次桂内閣が成立した。立憲政友会の一部、立憲国民党の非改革派はこれに反発、第1次護憲運動が起こった。同志会の内部は桂支持と不支持に分かれていた。桂系は立憲国民党改革派、中央倶楽部等と合流するも、その合流による立憲同志会旗揚げへの途上で内閣は総辞職、桂は死去した。これにより桂系の一部等が新党参加を取り止めた。

立憲政友会は第1次山本内閣と提携したが、これに反発する議員達が離党して政友倶楽部を結成したことによって、衆議院の過半数を僅かながら下回った。同志会は亦楽会と改称した。立憲同志会、亦楽会、政友倶楽部、中立を宣言していた立憲国民党(残部、以下同)は内閣と対立したが、政友倶楽部からは離脱して立憲政友会に復帰する議員が続出した。そして政友倶楽部と亦楽会は、合流して亦政会を結成、同会は中正会と改称された。シーメンス事件の影響で第1次山本内閣が総辞職すると、立憲同志会、中正会を与党とする第2次大隈内閣が成立した。内閣成立以前、双方と野党として共闘していた立憲国民党であったが、中立的な立場を採って、内閣と距離を置いた。第2次大隈内閣の支持派が衆議院の過半数を下回っていたため、同院は解散された。

第12回総選挙(1915年3月)では立憲同志会が躍進、新たに結成された大隈伯後援会が衆議院に進出、中正会が勢力を維持し、与党2党、そして大隈伯後援会等が結成した無所属団の合計が衆議院の過半数を上回った。対華二十一箇条の要求等、独断的に動いた内閣が元老の支持を失う中、大隈は後継に加藤高明立憲同志会総裁を推したが、山県系の寺内正毅に大命が降下、寺内内閣が成立した。立憲同志会、無所属団が改称した公友倶楽部、中正会は合流して憲政会を結成した。憲政会は立憲国民党と同じく野党となり、同党が提出した上奏案に賛成することを決めた。これが可決される見通しとなったため、衆議院は解散された。立憲政友会は野党ではあったが、中立的な立場を採っていた。この間、公友倶楽部と中正会の憲政会不参加者は、公正会を結成した。同会の旧中正会系には野党的な気質があったが、中立的な姿勢を採ろうとする議員も少なくなかった。

第13回総選挙(1917年4月)では、立憲政友会が第1党に返り咲き、憲政会が第2党に転落したが、立憲政友会も過半数には届かなかった。無所属議員の半数以上が維新会を結成、さらに無所属議員を加え、新政会を結成した。立憲政友会、立憲国民党は内閣に協力的になった。新政会は山県の3党鼎立論に基づいて、内閣側の勢力として2大政党を牽制する役割を課せられ、立憲国民党と同派による政府党結成の構想も浮上したが、立憲政友会に近い者を含む実業派の一部などが反発して同派を離脱、清和倶楽部を結成した。寺内内閣は米騒動の影響で総辞職をし、原政友会内閣が成立した。無所属議員の一部を加えて無所属団→正交倶楽部へと発展する清和倶楽部がやや内閣寄りの姿勢を示し、他はとりあえず野党となった。立憲国民党の一部の議員達が普通選挙制の実現を唱えていたことから同党を離党、純正国民党を結成した。無所属団は正交倶楽部へと改称した。立憲国民党、そして憲政会が男子普通選挙制の実現を唱えるようになっても、原内閣はこれを時期尚早とし、選挙権の拡大、小選挙区制の導入を含む衆議院議員選挙法の改正を行い、衆議院の解散によって過半数の獲得を目指した。

第14回総選挙(1920年5月)では立憲政友会が過半数を獲得、純正国民党系は大敗して解散となった。旧正交倶楽部系等が庚申倶楽部を、普通選挙制に積極的な無所属議員の一部が無所属倶楽部を結成した。憲政会の一部と立憲国民党には合流して立憲政友会に対抗しようとする動きが起こった。しかし大規模な再編とはならず、立憲国民党と、憲政会の一部、無所属倶楽部の約半数が合流して革新倶楽部を結成した。原が暗殺され、高橋政友会内閣が成立すると、立憲政友会内の対立が深刻なものとなった。これは内閣総辞職を招き、以後、立憲政友会が閣外協力をした加藤友三郎、革新倶楽部が犬養の入閣によって与党となった第2次山本内閣、立憲政友会の約半数が離党して結成した政友本党が準与党となった清浦内閣と、非政党内閣が3代続いた。立憲政友会の分裂によって、政友本党、立憲政友会、憲政会がそれぞれ第1、2、3党となったが、それらの議席数はそれぞれ約150、130、100であり、第1党が突出しているといえる状況ではなかった。衆議院における内閣の支持基盤は過半数に届かず、同院は解散された。

第15回総選挙(1924年5月)によって憲政会、政友本党、立憲政友会が、それぞれ第1、2、3党となった。憲政会146議席を獲得して113議席を獲得した政友本党を多少引き離してはいたものの、それらの議席数はやはり、100から150の範囲内であった。旧庚申倶楽部系を含む、異なる立場の無所属議員達がまとまって中正倶楽部を結成した。小さな政府を志向する実業同志会は八議席を得て衆議院に進出した(同名の独自会派を形成)。そして、衆議院の過半数を維持した憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の3党を与党とする、加藤高明内閣が成立した。

その後、田中義一を総裁に迎えた立憲政友会に革新倶楽部と中正倶楽部が合流し、この合流に参加しようとしなかった革新倶楽部、中正倶楽部の議員達が新正倶楽部を結成した。立憲政友会は政権を離脱し、憲政会と政友本党は合流して、衆議院の過半数に迫る立憲民政党を結成した。しかし2党が接近した段階、本格的に合流に動き出した段階で、それに否定的であった政友本党の議員達がそれぞれ同交会、昭和倶楽部といった会派を結成し、結成から間もなく立憲政友会に復帰した。立憲民政党の結成時には、政権は立憲政友会に移っていた。

男子普通選挙制、そして所謂中選挙区制となった第16回総選挙(1928年2月)では、無産政党群が計8議席と伸び悩み、実業同志倶楽部が半減して4議席となり、新正倶楽部の後継であった革新党が3議席に留まった。こうして全議席の約92.9%(直後の議会の招集日には定数から欠員を除外して約94.0%)までもを、2大政党が占める状況となった。その2大政党の議席数は拮抗したが、立憲民政党から旧政友本党系の一部が離党、独自の会派、新党倶楽部を経て立憲政友会に復党し、同会は衆議院の過半数を上回った。この新党倶楽部の結成から第17回総選挙前までを例外として、2大政党が議員総数の9割以上を占める状況が、昭和初期の政党内閣期が終わりを告げるまで、続いた(斎藤実内閣成立から約2ヵ月半後、立憲民政党離党者等による国民同盟準備委員会結成の影響で9割を下回り、以後、基本的には低下する傾向を見せた)。

昭和期に差し掛かったが、以上が明治、大正期の第3極等の大まかな歩みである。