日本では戦前にも、戦後にも、2大政党制に近付いていこうとする傾向が見られる。しかし1党優位の傾向、多党化の傾向が加わり、2大政党が議席数で他の政党、会派を引き離すことは多くあっても、2大政党制がしっかりと定着するには至っていない。
明治、大正期、日本は多数の政党、会派が存在する状況から、2大政党制へと近付いていった。表補-Aを見ると、2大政党の議席占有率が、多少の後退局面を経験しつつも、徐々に増えていったことが分かる。そして昭和初期、2大政党制と呼べる状態が現れた。
表補-A:2大政党の議席占有率
・第17回総選挙が行われた当時は分裂により鼎立状態となっていたため、合計を記さなかった。
・第21回総選挙は政党解散後の総選挙であったため省略した。
第1回総選挙(1890年) | 大同倶楽部、愛国公党、自由党計 35.7% | 立憲改進党14.3% | 左記4党派+ 九州同志会 50.0% |
第2回総選挙(1892年) | 立憲自由党 32.0% | 12.7% | 両党計 44.7% |
第3回総選挙(1894年) | 39.7% | 17.0% | 56.7% |
第4回総選挙(1894年) | 35.7% | 16.3% | 52.0% |
第5回総選挙(1898年) | 32.7% | 進歩党 31.3% | 64.0% |
第6回総選挙(1898年) | 憲政党 87.7% | ||
第7回総選挙(1902年) | 立憲政友会 50.5% | 憲政本党 23.9% | 両党計 74.5% |
第8回総選挙(1903年) | 48.1% | 22.3% | 70.5% |
第9回総選挙(1904年) | 33.8% | 24.0% | 57.8% |
第10回総選挙(1908年) | 49.3% | 18.5% | 67.8% |
第11回総選挙(1912年) | 53.8% | 立憲国民党 23.9% | 77.7% |
第12回総選挙(1915年) | 27.8% | 立憲同志会 37.8% | 65.6% |
第13回総選挙(1917年) | 42.8% | 憲政会 31.8% | 74.5% |
第14回総選挙(1920年) | 59.9% | 23.5% | 83.40% |
第15回総選挙(1924年) | 21.8% | 31.5% | 政友本党 24.1% |
第16回総選挙(1928年) | 46.6% | 立憲民政党 46.4% | 両党計 92.9% |
第17回総選挙(1930年) | 37.3% | 58.6% | 95.9% |
第18回総選挙(1932年) | 64.6% | 31.3% | 95.9% |
第19回総選挙(1936年) | 37.3% | 44.0% | 81.3% |
第20回総選挙(1937年) | 37.3% | 38.6% | 76.0% |
政権交代が総選挙の結果に基づくものであることを条件とするなら、2大政党制になったとはいえないのだが、ほぼ同格の第1、2党が交互に政権を担うようになった。少なくとも、2大政党制に準ずるものには到達したということができる。
その当時、複数の勢力の統一会派という面を持つ第一控室、立憲民政党から立憲政友会に移った議員達が一時的に結成した新党倶楽部を別とすれば、第3以下の政党、会派が単独で2ケタの議席を得たことはない。しかし政党内閣が不振の度を高めると、立憲民政党を脱した安達謙蔵らの国民同盟(1932年12月結成)、無産政党が集結した社会大衆党(1932年7月結成)、立憲政友会離党者による昭和会(1935年12月結成)のように、第1、2党のいずれとも一線を画す、単独で2ケタの議席を持つ政党、会派が出現して多党化が進み、2大政党の議席占有率は低下した(表補-A参照)。この間、政党内閣期は、1932年5月の斎藤実内閣の成立を以て幕を下ろしている。
日本では戦前、戦後を通して、無視し得ない規模の第3の極が存在する期間が長いといえる。もちろん戦後も同様である。ただし、第3の極は1つの政党に担われていたわけではない。同時期に複数の政党、会派が存在していた。
この第3党以下、第3会派以下を、第3極としてまとめて捉えて良いのか、という問題はある。筆者も全てまとめて良いという考えは持っていない。しかし最近では2012年、交わることがないであろう日本維新の会と日本未来の党がまとめて第3極として扱われることがあった。これは双方が自由民主党とも民主党とも距離を置いていたためだ。
第2次大戦以前の日本の第3党以下の勢力は、多くの場合、互いに決定的に断絶していたわけではない。筆者が4極構造だと捉えている時期ですら、最も右の勢力と最も左の勢力の合流が議論となっていた(『キーワードで考える日本政党史』第10章で見る)。総選挙の結果を受けた政権交代は見られなかったものの、2大政党制に準ずるものであったといえる政党内閣期には、無産政党と、無産政党ではなかった革新倶楽部の流れを汲む革新党、新自由主義を掲げていた中立の明政会が会派を共にしたことがあった。またその後も、立憲民政党の分派であり、かつての吏党の流れも汲む国民同盟と、無産政党の多くが結成した社会大衆党の合流を模索する動きがあった。そのような諸勢力を第3極とまとめて捉えた上で検証を行うことは、第1、2極との関係を考える上でも、合理的な方法だと考える。第3党、第3会派以下の諸勢力の相違は、第3極内の相違として論じればよい。まずはそのように見るということであって、第3極の他に第4極、第5極が存在していたという見方が合理的であるならば、それを避けるつもりはない。
多くの勢力をまとめて見ても違和感がないほど、帝国議会開設当初の第3極の諸勢力は曖昧であるか、同根であった。中小会派には、明確に第2極(ここでは、すでに述べた通り、第4回帝国議会までは民党、その後からは改進党系とする)の陣営にあった勢力もあるが、それらは第2極の一部であったと捉えれば、問題はないと考える。また第3極の諸勢力は、無所属の当選者が中心の、院内会派に留まるものであることが多く、よって統一性に乏しかった。第3以下の政党、会派から、明確に第2極の陣営に属していたものを除き、残りをとりあえず第3極としてまとめて捉えておくことは、分析、考察する上で有意義であると思う。
さて、第3極の勢力はそもそも、無所属議員によって結成されることが多かったわけだが(②、③参照)、これは日本特有の現象であったといえる。総選挙における無所属の当選者の多さは、第2次大戦前の日本の特徴の1つである。表補-Bを見て欲しい(他国との比較は次の⑤で行う)。
表補-B 戦前期の無所属議員の数
・占有率は議席占有率、当選数は無所属の当選者数、議員数は総選挙後初の議会の、開院式当日(第1~15回)、または召集日(第16~24回)の無所属議員の数であり、その議席占有率は欠員を除いて計算した。
・政党内閣期の総選挙である場合は、「備考」に記した。
総選挙 | 当選数 | 占有率 | 議員数 | 占有率 | 備 考 |
---|---|---|---|---|---|
第1回(1890年7月) | 79 | 26.3% | 41 | 13.7% | 以後小選挙区制 |
第2回(1892年2月) | 155 | 51.7% | 52 | 17.3% | |
第3回(1894年3月) | 50 | 16.7% | 22 | 7.3% | 無所属で当選していた吏党系の議員の多くが国民協会として選挙に臨んだために減少。立憲政友会からの同志倶楽部参加議員の離党後 |
第4回(1894年9月) | 64 | 21.3% | 64 | 21.3% | 開院式の3日後に39に |
第5回(1898年3月) | 69 | 23.0% | 17 | 5.7% | |
第6回(1898年8月) | 17 | 5.7% | 28 | 9.3% | 憲政党内閣期(首相は改進党系) |
第7回(1902年2月) | 66 | 17.6% | 35 | 9.3% | 以後大選挙区制、憲政党の2大民党への再分離、立憲政友会結成後 |
第8回(1903年3月) | 72 | 19.2% | 39 | 10.4% | |
第9回(1904年3月) | 120 | 31.7% | 55 | 14.5% | 立憲政友会から大量の離党者が出た後 |
第10回(1908年5月) | 64 | 16.9% | 5 | 1.3% | 政友会内閣期 |
第11回(1912年5月) | 56 | 14.7% | 48 | 12.6% | 政友会内閣期 |
第12回(1915年3月) | 39 | 10.2% | 7 | 1.8% | 第2次大隈内閣期、立憲同志会結成後、立憲政友会から一部議員が離党した後 |
第13回(1917年4月) | 61 | 16.0% | 23 | 6.0% | 半年後に半減 |
第14回(1920年5月) | 48 | 10.3% | 18 | 3.9% | 政友会内閣期 以後小選挙区制 |
第15回(1924年5月) | 67 | 14.4% | 14 | 3.0% | 立憲政友会大分裂(政友本党結成)の後 |
第16回(1928年2月) | 18 | 3.9% | 7 | 1.5% | 政友会内閣期 以後中選挙区制 |
第17回(1930年2月) | 5 | 1.1% | 0 | 0.0% | 民政党内閣期、同党から旧政友本党系の一部が立憲政友会に移った後 |
第18回(1932年2月) | 12 | 2.6% | 1 | 0.2% | 政友会内閣期、立憲民政党からの国民同盟参加議員の離党後 |
第19回(1936年2月) | 28 | 6.0% | 6 | 1.3% | 岡田内閣に入閣して立憲政友会を除名された議員等が省和解を結成していた |
第20回(1937年5月) | 26 | 5.6% | 3 | 0.6% | |
第21回(1942年4月) | 48 | 10.3% | 8 | 1.7% | 翼賛選挙 |
日本が男子普通選挙制となり、2大政党が交互に政権を担当するようになるまで、つまり昭和期に入るまで、無所属の当選者が多いことが分かる(昭和期に入って最初の総選挙であった第16回総選挙―昭和3年2月―では立憲政友会の革新倶楽部等との合流、憲政会と政友本党による立憲民政党の結成が済んでおり、再編によっても2大政党化が進んでいた)。彼らの一部は中立的な会派を結成し、他の一部は無所属に留まり、また既成政党に入る者もあった。
当初無所属の当選者が多かったのは、政党の組織化、基盤の全国化が不十分な状況の下、また政党が今日のようには認知されていない状況下、帝国議会が開設されたためだと想像される。しかし無所属の当選者数は、政党の組織化が進み、また認知されるようになってからも比較的高い水準を維持したといえる。そこには他の要因が働いているのだろう。
戦前の日本において無所属が減っているのはいつか、ということを見てみたい。まずは当選者数である。その議席占有率が10%に届いていない総選挙は、次の6回である。
第6回総選挙:憲政党の結成と政権獲得後の総選挙(首相は改進党系)。
第16回総選挙から第20回総選挙:立憲民政党が存在していた期間の全総選挙。
もう少し例を得たいと思うので、10%以上、15%未満であった回も挙げてみよう。次の4回である。
第11回総選挙:政友会内閣期の総選挙。
第12回総選挙:立憲同志会結成後初の総選挙、同党を与党とする内閣期の総選挙。
第14回総選挙:政友会内閣期の、小選挙区制に戻ってから初めての総選挙。
第15回総選挙:立憲政友会から政友本党が分裂した後の初めての総選挙。
第21回総選挙:第2次世界大戦期の翼賛選挙
長期的に見れば無所属の当選者が徐々に減っているのだと考えられる(有権者が増えていき、選挙にかかる費用が増えたという事情もある)。そう捉えた場合、傾向を大きく逸脱しているのが第6回における少なさと、第9、13、15回における多さである。
第1回総選挙から第20回総選挙のうちで、第2次大隈内閣を含めた政党中心の内閣の下で行われた総選挙は、第6、10~12、14、16~18回である。この時に無所属の占有率が相対的に低いことが分かる。ただし第10回総選挙が、例外的に少しだけ高い。第18回総選挙以外では、前の総選挙よりも低くなっていることも確認できる。非政党内閣の下で行われた政党内閣崩壊後初の総選挙では、まだ高いとまではいえないものの、それが上昇している。無所属の当選者の第6回における少なさと、第13、15回における多さは、この、政党中心の内閣の下の総選挙では無所属の当選者の割合が低いという傾向に、含まれるわけのである。特に、改進党系が首相を出している政権下の総選挙(第6回―自由党系と合流していた―、12回―大隈首相は改進党系だといえる―、17回総選挙)において、無所属の占有率が特に低い傾向がみられる。時期の近い、自由党系が首相を出している時の総選挙(第10、11、14、16、18回総選挙)、その他の総選挙の結果と比較すると、明確である。しかし様々な変化が起こっていた中で、政党内閣であるかどうかと、無所属の多さの間に因果関係があるのかどうかを見極めることは難しい。政党に勢いがあったということのように、想像はさせられる。しかしそのような想像では、改進党系主導の政権下で特に低いことについて、仮説すら生まない(もっとも個別の選挙を見ると、それなりの理由は考えられる)。
無所属の占有率が上昇する前には、2大政党の一方が一定規模の分裂を起こしている場合がある。第5、9、15、18、19回の5回の総選挙であり、それ以外で上昇しているのは、第2回(大規模な選挙干渉が行われた)、第4回、第7回(選挙制度が大きく変わり定員も増加した)、第8回、第13回、第21回(翼賛選挙)の6回である。上の5つの例の場合、離党者が大規模な新党を結成しており、無所属として総選挙を戦っているわけではない(ただし第9回総選挙では、自由党参加者以外が無所属として戦っている)から、分裂が直接無所属を増やしたわけではない。反例もあり、やはり因果関係の有無を特定することは難しい。
次に、総選挙後初の議会の開院式当日、召集日を見てみよう。無所属議員による会派が結成されるため、無所属の数は総選挙の結果と比べて減るのが通常である。無所属の議席占有率が5%に届いていないのが、第10回、12回総選挙後、そして第14回総選挙以後の表補-Bの対象の全総選挙である。第10回は第1次西園寺政友会内閣に対する実業家等の不満が高まった時期であり、無所属として当選した内閣不支持派の多くが総選挙後にまとまって、戊申倶楽部を結成したことが要因である。第21回総選挙後はほとんどの衆議院議員が翼賛政治会に参加した。第12回と第14回から第20回は、無所属の当選者が比較的少なかった総選挙である。
今見ている議員数の場合も、当選者数における傾向と、概ね同様の傾向が見られるといって良いだろう。無所属の数が、総選挙後の議会の召集または開会までに3分の1以下となった回を挙げる。なお、第1、2回総選では吏党系の会派を結成する議員のほとんどが無所属で当選しているため、総選挙から議会の召集までに無所属が減っているが、3分の1以下にはなっていない。
第5回総選挙 :中立派が大きく結集して山下倶楽部を結成。
第10回総選挙 :第1次西園寺内閣に不満を持つ実業家派等が戊申倶楽部を結成。
第12回総選挙 :大浦兼武と近い無所属議員達が大隈伯後援会と会派を結成。
第15回総選挙 :異なる立場の無所属議員達が中正倶楽部を結成。
第17回総選挙以降:第16回総選挙から約5ヶ月後に、無産政党を含む複数の小政党、無所属の議員達が会派を結成し、以後、第1、2党以外が幅広く集まって会派を結成することが定着した。第21回総選挙後は上述の通り、翼賛政治会の結成があった。
第30回帝国議会以降、25名未満の会派に常任委員が割り当てられないようになったことで、小会派に属していた議員達がより多くの無所属議員を引き込んで大きくまとまろうとしたということ以外、筆者には、総選挙後になって無所属が大幅に減った直接的な原因は、思いつかない。
結局、表補-Bを用いるだけでは、無所属議員が多い理由を考える有効な手がかりを得ることができなかった。次に無所属の当選者、議員に地域的な偏りがあるのか、見てみたい。