日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
れいわは民主党系を補える

れいわは民主党系を補える

民主党系に期待したいと思っている筆者でも、不安な点はある。それについて述べる前にしかし、次の事も述べておきたい。それは枝野立憲民主党代表が、かつての民主党の失敗を繰り返さないため、期待値を上げ過ぎないようにしていることである。

枝野代表は他にも、左に寄り過ぎたかと思えば、それを打ち消すような姿勢を見せたり、中道っぽく振舞ったかと思えば、やはり左派だと思わせる。左派政党らしさを持っていながら保守を名乗る。これはもちろん、どちらかに偏り過ぎて、票や協力関係にダメージを受けないようにするためだ。期待値を上げないようにすることと共に、スレスレの路線を行っている。

それは、何でもありの自民党に対抗するには、ある程度幅が必要なことだ。一方で、党内がまとまらなければいけないのだが、立憲民主党は、本来の民主党と比べて、社民系の姿勢が明確である。だからこそ、他でバランスを取っているし、そうできるのだ。

確認しておくと、結成後の民主党は、曖昧な政党であり、さらにそうなっていった。しかし自民党が新自由主義的路線を明確にすると、社民系の色を強めた。その後与党になって迷走し、安倍自民党が権威主義的、軍事力強化の路線を見せると、それに反対する意味で左傾化した。結局野党第1党は、特に相手が優位政党なら、相手を見て姿勢を決めるしかない。今の枝野代表のやり方は、その負の面を小さくしようとするものでもある。批判するのは簡単だが、理解しなければいけないと強く思う。

かつて民主党政権は国民の期待に応えられずに失望された。民主党政権もひどかったが、国民の期待も高すぎた。初めての総選挙によるものと言って良いような政権交代が、いきなりうまくいくわけはない。しかし今度は二度目である。今度こそうまくいくだろうと思う人もいるからこそ、また、かつてと同じような期待も起こらないとはいえないことから、それが過度な期待とならないようにする必要はある。何より、できないことを掲げる事はもう許されない。何ができて何ができないかも、民主党政権を経験した議員たちには分かるだろう。

もう一つ補足すると、かつての民主党政権は公約を実現できなかったが、それには、与党経験に乏しいがゆえの甘い見通しと共に、そこまでしないと注目されないということ、政権を取った後の官僚の非協力もあった。官僚の非協力については、民主党が官僚を敵視したためでもあるが、政(自民)・官・財の癒着構造があり、民主党がその改革を訴えていたことも、忘れてはいけない。

さて、話を戻して、民主党系についての不安だ。それは以下のことである。

①民意をすくい上げるのがうまくない:前衛政党的(自分達のほうが、自分達に票を投じるであろう国民より知識があって優れているから、彼らの希望を真に受けず、導くという意味で)だとまでは言わなくても、独善的な面がある。気持ちは分かるが、自分達に少しでも批判的な人々については、「どうせ分かってもらえない」と思っているようにも見える。

例(追記:2021年の前半に書いたもので、9月には色々打ち出されました)

・税負担の大胆な軽減を打ち出せない:コロナ対策としての10万円支給は良かったが、民主党系全体(立憲民主党中心)で、分かりやすく魅力的な経済対策を打ち出せていない。民主党系が打ち出す政策が、国民を「これだ!」と引き付けるほどではない。菅義偉総理の「自助」を批判するなら、国民が「助かる」と思える政策も打ち出さないと、広く共感を得るのは難しい。政策を打ち出しても信用されないなら、実現可能だということを論理的に示すこと、民主党政権の反省点を示すことに、さらに積極的になれば良いだけだ。

※新たな立憲民主党では、みんなの党、維新の党出身の江田憲司が、経済政策を担当する代表代行に就いた。社民系の左派政党に、その在り方を受け入れた上で、第3極出身の議員(民主党系への出戻りは除き)が少なからず参加していることに、筆者は期待したい。かつての欧米の「第三の道」とはまた異なる、社民系の路線の模索が可能だと考えるからだ。

・野党陣営への国民の参加が不十分:支持者が参加する代表選が行われていないことについては、旧立憲、国民両党の結成から日が浅く、双方の合流も、総選挙の可能性を見て急遽なされたものであることから(それはそれで問題なのだが)、仕方がない。旧立憲民主党も、代表選の規定をついに設けた。野党全体の候補者予備選挙にはマイナス面もあるが(「野党候補の統一予備選挙」参照)、草の根民主主義を自負している割には、旧立憲民主党すら、国民を巻き込む策が不十分であった(旧民主党系等の結集に動くようになってから、「草の根」の部分もやや軽視されるようになったのではないだろうか)。

 

これらには仕方のない面もある。上で述べたこと以外にも、そう言わなければならない理由がある。大胆な経済対策を求める人もいれば、それがすぐに増税につながること、新たな世代の負担をますます深刻なものとすることを心配し、財政再建を優先させるべきだとする人もいる。

このような差異は多くの場合、政党ごとの支持者の差異になる。例えば右派政党(保守系)が緊縮財政を唱え、左派政党(社民系)が、「それでは庶民が苦しむ」と反対する。欧米では、左右の主流が共に緊縮寄りになってきたため。ポピュリズム政党が台頭した。ところが日本では、自民党は何でもありで、あるいは短期間で変化し(何でもありの政党だからできること)、不利な野党が、「それをどう改める気か?」と問われる。「国の借金が増えているけど、どうするのか?」、「格差が拡大しているけど、このまま絞って大丈夫か?」と。もちろんこの声は自民党も行くのだが、自民党はそれらを調整し、なんとなくまとめる政党として、通用している。批判もあるが、自民党に依存している人、他の政党より経験があるとして評価する人が、ほぼ無条件で支持するから、政権を維持できる。

それに対して野党は、自民党より良い方法を示さざるを得ない。そこで、一部の非自民の人々からは節約を求められ、別の非自民の人々からはバラマキを求められる。【財政健全化を進め、大胆に無駄を省くことで財源をねん出し、国民の生活を助け、格差の拡大を阻止する】というような民主党の政策は、こうして生まれた。しかしそれが非常に難しいことが明らかになったわけである。

それが明らかになっても、矛盾は今も当然あり、一方を維新の会が担う状況、つまり以前よりは政党の色が明確にはなっても、今度はそれが野党の共倒れを招くという、元も子もないような状況になっている。民主党系が民意を信じられなくなる気持ちは分かるが、矛盾をある程度克服する策が絶対にないというわけではないし、矛盾があるとしても、それを乗り越えるだけの何らかの魅力を、民主党系が備える必要はあると思う。

②内輪もめが多く、くっついたり離れたりを繰り返している

これには2つ背景がある。1つには、優位政党が存在していることが多い日本では、非優位政党は、【優位政党(自民党)と似た、あるいはそれに歩み寄る路線】を採るのか、【反対する路線】を採るのかということについて、遠心力が働く(①で見たことにも、それは表れている)。前者については、優位政党というのは、「何でも屋」の色が強いからだ(筆者はそれに否定的だが、それは1党優位事態に否定的なのである。1党優位であり、かつ優位政党が「何でも屋」でなければ、永遠に不利な立場に置かれ、希望を聞いてもらえない人々が出て来る危険性が高い)。

もう1つは、優位政党に対抗するために無理な合流をしているせいで、遠心力が働くということだ。政党というものは、政権を取れそうな場合、つまり調子が良い時には団結しやすい。しかし選挙に勝てそうになければ、遠心力が働く。中選挙区制の時代なら、社会党は自民党の半分程度の力でも、少なくない議席を長期的に維持し得た。しかし1人しか当選しない小選挙区中心の制度だと、自民党の半分の力では、ほとんどの選挙区で議席を失うということになる。そうなれば第2党の地位を失い、第2党だから得ていた力も失いかねない。自民党と対等になり得ると、少なくとも思われていないと、存亡の危機に直面するわけである。選挙区選出の唯一の衆議院議員が永遠に野党というのは、その選挙区の住民にとっては確かに不利なことだし(そのような構造が良いかどうかは別として)、それを気にしないくらい自民党に依存していない住民であっても、いや、あればこそ、永遠に選挙区で当選できなさそうな(永遠に自民党に勝てなさそうな)候補を、いつまでも応援するということは考えにくい。自民党に挑戦する政党を取りかえることになるのではないだろうか。

 

③労働組合の味方 ※労組のナショナルセンターと政党の系譜、関係については簡単な図があります→

民主党系の支持基盤は労働組合だ(民主党系を支持する、非常に多くの労働組合がまとまっているのが「連合」)。それに、左寄りの国民(社民党に近いが、小さくなり過ぎた社民党には期待できないと考える人々)、自民党(とその優位性)に反対の国民の支持が加わっているといった感じだ(改革をかなり重視する国民の多くは、維新支持に変わったか、様子見になっていると想像する)。労働組合は、時代に応じて変化してはいても、現状ではまだまだ、正規雇用の味方という面が大きい。雇われている人は、基本的には雇っている人よりも立場が弱い(人手不足の時など、例外的なケースはあるとしても)。かつて社会党は、労働組合の組合員より、もっと立場が弱かった人々(その多くは貧しかった)の多くに、うまく支持を広げること、支持を定着させることができず、そのような層を共産党と公明党に奪われた。そして今は、雇われている人々の2極化がより深刻だ(再びそうなったという言い方も、長期的、部分的にはできる。またコロナ禍で、一部の個人事業主も、雇う側ではあっても、深刻な危機に直面している)。

雇われる立場の人々の中での勝ち組は、職を失う心配が小さく、またその心配も、企業の業績が上がれば小さくなるという立場である。待遇についても同様である。これは当然と言えば当然なのだが、もう十分待遇が良いからこそ、雇い主との交渉で状況を良くする余地が小さく、経営者との違いが小さくなる(それでも多くの人が働きすぎなのではないかと、筆者は思う。これも労働問題なのだが)。一方の負け組は、不安定な非正規雇用だ。なお、「勝ち負け」という言葉はきついが、あえて使う。あくまでも立場の強さ、待遇に関する現状についての、「勝ち負け」である。

このことに関して民主党政権の問題を挙げると、経済状況が良くなく、人員削減が避けられない状況で現役の被用者を守ると、学生等の就職が難しくなるということだ(民主党は与党時代、労働組合員の雇用、待遇維持のため、公務員の採用を抑えた)。このことには、若者の投票率が低いから、政治家に軽視されるという問題も表れている(少子高齢化の時代、人数の上で若者が不利になるという問題もある。上の世代が、自分達の子ども、孫の世代のため、配慮する必要がある)。

 

④経験不足

少しは与党経験ができているし、そこから学び、それを総括することも非常に重要だが、最も重要なのは、さらに与党経験を積むことである。

与党経験以前の問題もある。政界再編によって誕生し、選挙と共に、再編によっても勢力を大きくした民主党系のベテラン議員は、次の通り、その先輩と離れて来た人々である。

・1996年の民主党(社さ新党)の結成における、社民、さきがけ両党の大物の排除。

・自民党出身者の自民党離党(派閥ごと離党した、羽田・小沢派の出身者にも、かつて所属していた竹下派等の、上の世代から離れたという面はある)。

・解党して新進党の結成に参加した民社党では、それ以前の委員長・書記長経験者は、引退していた80歳前後の佐々木良作を除き、死去していたか、党の流れを離れていた(塚本三郎、大内啓伍で、二人とも自民党入り。解党時の米沢委員長も書記長経験者だが、それはもちろん別として)。

・小沢に非がある面が大きいが、反小沢派の活動の結果でもある、新進党の解党。

これで上の世代を完全に排除したわけではないし、味方となった上の世代の議員もいた。しかし、それまでの主要政党の縦社会とは明らかに異なる文化ができた。国会議員は有権者に選ばれたのであり(比例選出は別としても)。縦社会が必ずしも良いというわけではない。悪いことを学ぶための縦社会という面もあるし、政治家としては素人でも、政治家として活かせる経験を持つ者もいる。しかしやはり、自分より経験のある者に謙虚に従う事で、学ぶこともある。そこが大きく欠けた上、自民党のように選挙区等に密着して地盤を育てる方法(良し悪しは別として)よりも、(政策通として評価されることも含めて)目立つことで無党派層をつかむ方法が中心になった。このことにより、全体的に見れば、個人主義的になり過ぎた。これも党がまとまりずらいことの、一因であると思う。

 

⑤人気のある魅力的な議員が少ない

党自体が自民党よりずっと弱く、当選回数を増やすこと自体が難しい状況において、選挙以外のことに冷静に目を向けることが、より難しい(これは一般の国民にも責任がある)。また、④で述べたこともあり、目立とうとする姿勢、泥臭さを否定する姿勢が、国民に反感を持たれることもある。

 

⑥非現実的な国防政策

ミサイルが飛んでくる時代、敵基地攻撃能力が必要なのは当然だと、筆者はずっと言ってきた。また日本は残念ながら、アメリカの意向に反して生きることが特に難しい。高い理想を持つことも重要だが、現状と折り合いをつけることも重要だ。対米追従を改めるには、本当はかなりの戦略やしたたかさがいる。それでも現実には、選択の幅が狭いということは確かだろう。

例えば、鳩山民主党内閣の路線であったと言える「アメリカと中国と等距離で」というのは、無理せずとも可能であるのならば、日本の立場を強くする可能性もある。しかし、それには日本に今よりはるかに力がいる。そこにはもちろん、軍事力も含まれる。現状では、米中の仲が良くなっても、悪くなっても、日本は大変だ。それに、アメリカか中国かを選ぶのなら、当然、民主主義国のアメリカだ。

それなのに日本では、左派政党にとっての関心事・争点が、再分配(平等)以上に、その選択の幅が狭い安保や、憲法となっていった(経済が成長し、日本が豊かな国になる中、自民党が再分配についても国民を満足させることができたため、社会党が、他の分野で違いを出す必要に迫られたからでもある)。そしてそれが、社会党が社会主義から社会民主主義へ明確に転換した後でも、他の党や国民との間の、壁になっている。社会党の流れを汲む民主党の、不統一の一因にもなっている(別のことに不満があって離党する時の、口実にもされる)。このような状況下、国防にやや真剣な自民党が、中道・バラマキであっては、政権交代が起こらなくて当然だ。本当は違うのだが、どっちも社民系だと感じられてしまう。

ここから、主に上の①~⑥について、れいわが民主党系をどう補えるのか、述べていきたい。その前に、①と③に関して、左派陣営が示すべき主な対立軸について、筆者の考えを簡単に述べておきたい。

それは、「階級」の対立にするということである。今の、そしてこれから来そうな格差社会は、本当に危険である。中間層が溶け続ければ、消費は停滞するし、テロや革命にすら、つながり得る。贅沢の度合いの格差ならしかたないが(それが活気をもたらすというのも、分かる)。それが命の格差になれば(食べて行けなくなる人が増えるか、そこまではいかなくても、富裕層だけが健康な食事を許され、病気になっても最新の高額な医療を受け、助かる)、社会は間違いなくすさんでいくと思う。もちろん、すさんでいかないとしても、貧困はなくさなければいけない。

自民党という「ぬえ」は、実際には「貴族政党」だということを示さなければ、多くの国民が知らないうちに軽視されるか、軽視されることを受容してしまう(維新は自民を「豪族の政党」と表現している。またこの時には、民主党系は違うのかということも、問われる)。国内をいたずらに分断するのではない。事実として存在する溝を、明確にすることで、逆にすっきりさせ、立場の違いに基づく、主張の対決にしていく。なんとなく不満がたまるよりも良い。

それがフェアな対決になれば、少数となる富裕層の側は不利になる。それが目的ではない。彼らは不利であるがゆえに、「正しい政策」を求める。そうなれば、富裕層でない人々も、その政策を見て賛同する。これは富裕層に騙されるのとは違う。皆が賛同しては怖いが、「庶民の政党」が別にあれば、そうはならない。対等な、左右の大政党の競争になる。

社会が変化していけば、左右対決の在り方も変化していく(それでも左右の対立なのだと、筆者は思う)。そのためにも基本が必要で、基本を身に付けず、変化を前に右往左往すれば、(その時々の)弱い立場の人々が、おきざりにされるか、だまされてしまう。

 

①の税負担の軽減については、かつてバラ色の公約をかかげて、実際にはできなかったということがある。とはいえ、民主党政権はリーマンショックの後であり、さらには、自業自得という面も大きいとはいえ、政権獲得から1年も経たずにねじれ国会となり(しかも自民党は「目には目を」と言わんばかりに敵意丸出し)、東日本大震災が起こった。官僚に対抗できなかったということもある(官僚との、対立と協力のバランスが悪すぎた―当初は極端な対決姿勢を採り、その後は丸め込まれた―)。

かつての過ちを繰り返さぬよう、慎重になることは大変良いことだが、それだけではだめだ。経験を教訓に、武器にして、謙虚さを持ちつつ、信じた道に進んで行かなければいけない。とは言え、そしてバランスが大切だとはいえ、一つの政党が慎重さと大胆さを単に兼ね備えているというのも、実際には分かりにくいし、何より難しい。

そこでれいわ新選組なのだ。彼らには民主党系のような過去の呪縛がない。バラ色の公約はかつての民主党以上だが、かつての民主党とは異なる根拠を示している。

山本太郎・れいわ新選組は、民主党の失敗から学ぶことができる上に、民主党政権の負の部分を認めることが、自己否定にならない(民主党系の場合だって本当はそうなのだが、当時入閣していたような議員達には、失敗を認めることが容易ではなく、失敗を認めるような発言はあるものの、不明瞭であったり、個々の議員の感想レベルである。野党転落を後の、菅直人、枝野、長妻が出席した、民主党青年委員会主催の民主党公開大反省会では、小沢のせいにされていたようだが、小沢に「反乱」や離党のきっかけを与えたのは、消費税の増税やTPP推進である。消費税については、小沢路線の公約を実現させるための財源を、予想と違ってひねり出すことができなかったのだとしても、これらが小沢を排除して考えられ、進められた以上、小沢の主張の方が正論である)。

そして、結成されたばかりのれいわ新選組はもちろん、その代表である山本太郎も、かつての改革ブーム(※)を議員としては経験していない。これは大変な強みである。改革は重要だが、戦後、いや戦前から基本的にはそれ一色であったと言っても過言ではない、自由党系→自民党の利益誘導政治に対する反発や、その限界に対する危機感から、改革とは新自由主義的であるべきだと考えられてきた(それは1980年代、90年代の欧米のスタンダードでもあった―社民系に近くなっていた保守系が、その路線に限界(保守系にとって有利となるような限界)を感じて新自由主義的になり、社民系もそれを部分的に取り入れた―)。実際、新自由主義的な改革も必要なのだが、主要政党が全て同じ方向を向いてしまっては、国民は選択できないし、その改革の負の面を冷静に点検し、改修することが、長期間不可能になる。

効果がないとは言わないが、自分達に満足に届かない(直接の助けにも当然ならない)ようなバラマキをされたあげくに、「そのせいで節約しなければならなくなりました。緊縮財政・新自由主義をやって、一部の企業が成功し、経済も活性化されれば、実はそれでみんな豊かになれるんです」というのでは、またまた「そのうちみんな間接的に助かる」とだけ言われるのでは、多くの国民が納得できなくて当然だ。そんな国民に、「社会保障のために必要なんです」と言って、消費税を上げるのは、そのような面も確かにあるのだとしても、人質を取って、無理やり国民を言いなりにさせるようなものでもある。少なくとも、「この内閣・与党なら、増税になっても安心して暮らせる国にしてくれる」という信頼がなければ、消費の低迷を招くだけである(追記:『枝野ビジョン』でも、まずは信頼であり、それを得られるまでは国債に頼る事も避けられない、という姿勢が示されていて、評価できる)。

緊縮財政が必要な時もある(日本国の借金を問題視しない見方もでてきているが、限界はあるのではないだろうか。MMTすら、あくまでも一定のインフレ率になるまで、通貨の発行・歳出を増やせるというものである。景気が過熱した時、特に供給能力を超える需要がある場合には、歳出を抑える必要がある。しかしそれでも弱者の保護は必要)。

しかし緊縮財政でも、公共事業中心のバラマキでも、約30年間うまくいかなかった。どちらかを強く支持する人々は、それを続けていれば良かったと言うだろうし、ブレーキとアクセルを同時に踏んだり、不十分なうちに踏みかえたりしたことによる失敗は確かにある。内閣と日銀の不一致が災いした面も大きい。しかし、だからと言って、緊縮財政や公共事業のバラマキが、今度はうまくいくという保証はない。別の方法も考えるべきだろう。

しかし、「何でも屋」の自民党が支配し続ける限り、別の方法が少し試されることはあっても、同じことが繰り返されるばかりだと思う。もし、自民党が維新と(一時的に)組むとしてもだ。れいわ新選組は、この、失敗と認めたら打撃を受けるような、道を見失ってしまうような、負の歴史からは自由なのだ。

日本の経済はずっと、決して良い状態にはなく、そこをさらに、コロナウイルスに襲われた。少なくとも今はまず、弱者を優先するれいわの方針が、手当として必要である。その上でさらに、全体的には沈むような、格差の拡大を止めなければならない。今、新自由主義とは、それに手を付けた上での、その後の対案でしかないと思う。

今の民主党系がそれを言っても、かつての、どっちつかずで揺れ動いた歴史、政権の失敗、それらを踏まえた今の慎重さから、説得力に欠ける。それでも民主党系が、与党時代にかすませてしまった平等志向を、より明確にしたのは良いことで(立国両党についてそう言える)、慎重に主張し続けるべきだが、その時、れいわが力になるはずだ。違いはあっても、議論し、まとまることができれば、支持は離れないと思う。また、維新の会のような、主張のはっきりした突撃型の小規模政党の対決相手にも、れいわは向いている。

民主党系を分けて見ると、立憲民主党は社民系の志向を明確にしつつ、慎重さを持っている。国民民主党は、自民党や維新のほうに行ってしまいそうな危なっかしさ、党内の一致が疑われる面があるものの、玉木代表は消費税の時限的な引き下げ、弱者保護、コロナ救済策、経済対策としての給付に積極的に見える。同党の前原元民主党・民進党代表も、負担増の下、社会保障を充実させる考えである(これは特に民進党代表選挙で明確にされたものであり、それまでにも変化しているので、変わることもあり得るが)。

この、近親憎悪もある(特に、劣勢である国民民主党の側に)2党を直接まとめるのではなくても、平等重視の陣営に共存させる力が、れいわにはあると感じる。具体的には、左派陣営で政策をある程度詰める、その議論、交渉をする中で、れいわとの関わりが、一定の道筋を浮かび上がらせると思うのだ。たとえれいわが議論に加わらなくても(加われなくても、それぞれを評価することで、論点、問題点が整理される。これらの政党が組むことの重要性、これらの政党と保守政党との違いも、改めて認識される。もちろんそのためには、れいわ新選組がある程度注目され、他の左派野党にとって気になる存在でなければならない(総選挙が近づけば、ある程度は自然と注目されるだろうが、それでは間に合わないかも知れないし、れいわが引き続き努力することも重要だ)。

安全のための公共事業、生活のためのインフラの老朽化対策は、全てとは言わなくても、やらなければならない。かつての民主党の「コンクリートから人へ」に対し、れいわは「コンクリートも人も」という姿勢だ。これは民主党系と一致できるはずだが、その際、公共事業の取捨選択が問題となる。こればかりは、弱者を後回しにせざるを得ない面が出てくる。人が多い地域を、どうしても優先せざるを得ない面があるからだ(仮に財源があったとしても、人手に限界があるから、全て同時には進められない)。左派政党が、維新のように民間に委託することは、なかなか難しい(主張をひっくり返すことになる)。

しかし日本の政治家らしくない、はっきりした話し方をする山本代表なら、れいわ新選組のみならず、左派陣営で決定したことを、きちんと国民に伝えられるだろう。皆に良い顔をしつつ、実際にはいい加減に事を勧めたり、問題を先送りしたりするよりは良いということを、伝えられるだろう。

消費税の引き上げについては、民主党が財務官僚に丸めこまれたという面もあると思うが、山本太郎・れいわ新選組にそれは通用しないだろう。民主党が政権交代の頃、あくまでも「今は引き上げの話はしない」というスタンスであったのに対して、れいわ新選組は、消費税廃止のワンイシュー政党と言っても、大げさではないからだ(もちろん結党の経緯や理念、「住まいは権利」というキャッチフレーズも知っているが、消費税廃止を目玉、自らの姿勢の象徴とする政党であることは間違いない)。他党と歩み寄るため、廃止を貫くことはなくても、大幅に下げようとし続けることは間違いないし、仮に変節したとしても、消費税増税まではさすがに唱えられないだろう(その時は、貧困層に給付金を支給するなどして、今の路線と実質は変わらないようにするだろう-その部分が後に他の政党、政権によってひっくり返される危険はあるが、それを言えばほとんど何でもそうだ-)。

一般の国民の参加、党内の民主化に関しては、れいわ新選組にも問題がある。しかしそれは、結成からまだ2年ほどしかたっていないこと、第2党から誕生した立憲民主党等とは違って、自由党という小党から誕生し、実際は、山本太郎がゼロから立ち上げたに近いことを考えれば、まだ許容範囲である。過去に縛られないがゆえの、あるいは小党ゆえのアイディアがあれば、これを乗り越えるどころか、国民を引き付けることもできると考える。

大西つねき立候補予定者の問題(※)は、つらくとも良い経験であったと思う。筆者は大西の発言について、まだ目を背けていられるだけで、日本がすでにぶちあたっている壁があることを指摘したものとして、理解はできる(その壁を取り払えるかどうかは別として)。コロナに関しても、発言の当時は、若者と高齢者の間でリスクにかなり差があると、少なくとも考えられていた(だから確実でない事に関しては、極端なことを言わない、極端な表現を用いないことが重要だ)。それを前提とすれば、高齢者に合わせて経済を止め、国が傾いては問題だということも、頭に浮かばないわけではない。高齢者を犠牲にするといっても、その場合は自由な外出を控えてもらうということであり、議論の余地も当時はあったと思う。ただしもちろん簡単ではない。強制はなかなかできないし、すべきでないとも考えられる。外出しなければ生活できない高齢者に限って外出を認めるならば、その人達は、高齢者以外はあまり規制されていない、かなり怖い空間に身を置くことになってしまう。

このような事を考えてみても、やはり、一部の人だけに何かを強いるようなことは、政治が極力回避すべきことだと思う。差別につながるだけでなく、そのこと自体が差別となり得る(確認しておくと、一部の地方自治体にだけに適用される法律の制定には、その自治体の住民投票での、過半数の賛成が必要になる)。

安倍晋三が総理時代、街頭演説において「こんな人たちに負けるわけにはいかない」と言った時、当然そう思っているだろうと分かっているはずなのに、そして、そのような批判は良くも悪くもお互い様だと分かっているはずなのに、筆者は戦慄を感じた。政治家とは支持者のためだけにいるのではない。当選すれば、国民全員のものという面もある。政権につけば、なおさら皆のものである。そう考えると、しかもれいわ新選組は弱者に寄り添う政党であるから、大西の除名に至ったのもやむを得ないと思うし、代表の独断という形にしなかったことも、評価できる。

ただし、本当の弱者は、未熟さ(投票率が低いことも含めて)、少数派というハンデを抱えた若者ではないかという問題提起も成り立つし、れいわは新党なのだから、支持者を減らさない気配りに注力しなければならないような、大政党にはできない大胆な問題提起をしても良かったと思う。そこから議論をすればよいのだと思う、平等重視をベースに、ある程度足したり引いたりすれば良いと思うのだ。志を持った人々の議論なら、おかしな結論にはならないはずだ(『政権交代論』「そして、民進党の再建、変革、強化~新しい合流の形~」参照)。

枝野立憲代表は草の根民主主義(市民―国民・住民―の日々の運動や参加を基礎とする)を重要視している。れいわ新選組は、山本代表の人柄と、ミニ政党ならではの在り方によって、身近な政党であるという印象を、一定の人々に持たれている。しかしどちらも、現状ではトップダウンの政党だ。これをどうするかということが、重要課題であることは間違いない。

民主党系については、かつての民主党のように、すぐにもめる性質の改善、それを抑える党組織の工夫がなされるまでは、強いリーダーが必要なのは理解できる(すぐにもめる性質は、【対案と対決のどちらが優位政党に対して有効か】、【非優位政党が合流している】という2点も強く影響している。一番の克服方法は、結局政権を担い、自民党と対等になることである)。しかしそれを言えば、枝野、玉木という2人の党首がいるという状況は(もう決着がついているようなものだとは言っても)、これに反すると言える。

さて、れいわ新選組は、民主党系と一致できるのだろうか。そもそも非常に難しそうなのだが、筆者は、合流までは、早期にはすべきでないと考える(本人たちにもその意思はないであろうが、山本が所属していた当時の自由党は、国民民主党より先に、立憲民主党に合流を持ちかけていたようだ)。党対党の交渉の方が、外から見ていても分かりやすいから良いと思う。

新たな立憲民主党とれいわの協力が難しいのは、立憲が大政党であるがゆえ、守るべきものがあり、各方面に気をつかわなければならないからだ。分かりやすく言えば、中道の有権者+連合の右派(と国民民主党)と、左の有権者+共産党(左の有権者の中でも、最も左の部分を中心とする。ただしそれだけではなくなってきていると思う)では、求めるものが違うからだ(旧立憲の時は旧立憲の時で、れいわとは、一定のブームを起こしたスター政治家が率いる新党同士、ライバルとならざるを得なかった)。

自民党との違いを出すには左重視で行くのが自然だ。右に行っても、自民、維新と競合するからだ。与野党と競合するのはきつい。しかし一方で、日本では【左=非現実的な安全保障】などのイメージがあり(実際そうである面も小さくはない)、支持を広げにくい。このイメージは、何らかの方法で変えなければならないが、それで左の有権者を納得させられずに失ってしまっては、決して有利にならない)。また、非自民側において左右でもめているようでは、自民党に太刀打ちできない。だから立憲民主党・枝野代表は、【保守系の自民に対抗する社民系の立憲】という立ち位置を定めつつ(それは自民党の一部、そして自民党に近い維新の新自由主義に対抗するものでもある)、双方から疑われたり、批判されたりしても、左翼と中道(ど真ん中)のどちらかに寄り過ぎないように、振る舞っている。

一方のれいわは、ミニ政党であるがゆえ、左に傾いても、まだまだ伸びしろがある。むしろはっきりしていた方が、伸びやすい面もある。確かに、既存の左派野党が弱いとされ、れいわに期待したくなる若者の取り込みについては、リスクはある。しかしその明確なスタイルと問題意識は共感しやすいものであることから、左派政党を敬遠していた人々、若者にも支持を広げやすいと思う。自党より右側にある勢力と妥協することは、この問題意識がかすむという点で、危険である(経済政策以外の、政局ばかりが話題になってしまいかねない点も含めて)。

山本代表が、消費税ゼロを主張しつつも、5%(ただし恒久的)まで譲歩しようとするのはなぜか。それは、立憲民主党とれいわ新選組が違うからこそ、お互いに補い合えるということを、分かっているからだろう。立憲の路線でも、簡単に政権交代を実現できるわけではない。れいわの力では政権交代などできるわけがない。しかし双方の支持者、これから票を投じてくれそうな人々を失うことなく合わせれば、可能性は大きくなる。失わずに合わせるには、対立し続けていては当然ダメだし、合流してもだめだ。お互い歩み寄り、それぞれの支持者等を納得させるしかないのだ。

次に、②に関してだ。れいわ新選組はもちろん、無理な合流でできた政党ではない。だからここでは、立憲とれいわが連立政権を形成した場合、その無理な合流に近い、無理な連携になるのか、考えてみたい。

山本太郎の考えに近い議員が、立憲民主党には少なからずいる(2020年、旧立憲民主党、無所属の43名の国会議員が2020年3月、消費税の5%以下への引き下げを政府に求めることを主張する提言書を、同党の逢坂政調会長に提出した)。立憲民主党は積極財政志向の政党だと言えるし、国民民主党の玉木代表は、コロナ対策という面もあるが、それ以前から積極財政、消費税の時限的な引き下げに前向きな姿勢を見せていた。しかし民主党系全体には、財政赤字の解消(まずはプライマリーバランス)を優先する、かつての姿勢が残っているように見える。政権を取った時、立憲とれいわが連立を組んだ時、その矛盾が噴き出す危険はある。

しかし政権交代後の対立なら、立憲民主党と国民民主党、(国民民主党に気をつかう)立憲民主党と、共産党(閣外協力等であったとしても)との違いも問題になる。国防に関する違いも思い浮かぶが、かつての民主党のように、公約の達成、財源に関する対立も十分起こり得る。前者の国防に関しては、後述するが、れいわの山本代表を含めた議論によって、妥協点を見出すことが可能なように思われる。実際は現実に妥協しなければいけないのだと、理想と現実を分けることで、共産党をも説得できるはずだと、筆者は思う。れいわが2019年の参院選当時の支持を回復できれば(筆者はできると思っている)、みな山本・れいわを軽視はできない。山本は人の話に耳を傾ける政治家である一方、剛腕で恐れられた小沢一郎とも渡り合える政治家であるから、期待できる。

経済政策については、困難があることを前提とした議論をし、ある程度一致しておかなければ、政権交代が実現してから対立が起こり、民主党政権の二の舞になりかねない。ただし、山本にはかつての小沢のような力はないし、小沢の場合は政策的な対立と共に、純粋な権力争いであったから、今度の内部対立は、そう深刻なものにはなりにくいだろう。しかしそれでも、国民の多くが失望する状況になれば、対立、動揺は深刻なものになりやすい。何より、少しの対立であっても、そのせいで、長く優位政党であった自民党に勝てなくなることは、十分に考えられる。「失敗はしても、またまた国民を失望させることだけはしない。」という心がけが、他の何よりも重要になると思う。

このことについて筆者は、山本なら国民への説明を含めて、うまくやってくれるという期待と共に、政策を無意味に捨てるような譲歩をしない政治家だと思うからこそ、不安もある。しかし物事がうまくいかない場合、いい加減に、あるいは何となく後退するのと、その現実に向き合って後退するのでは違う。この点でやはり、山本は民主党系を補えると思うのだ。れいわも民主党系も国民の幸せを願っているなら、その上での相違点を国民も理解し、それについて考えることができると思うのだ。

「ある程度一致」としたのは、ガチガチに細かく決めてしまうと、政権を取ってから身動きができなくなるからだ。経済情勢、すぐには過半数を得られないであろう参議院の状況によって、一定の変更の余地は残しておくべきだ。それでは何でもありになり、それこそもめてしまう。そういう心配はあるだろう。しかし民主党政権の反省だと言えば、国民の理解は得られると思う。枝野(現実路線だが理想を持つ)と山本(理想主義的に見えるが、現実的な面を持ち合わせている)という、上で述べた異なる立場を代表し得る、知名度も実力もある「大物」議員同士が、公開で行うものも含めて、節度を持ってその都度話し合えば、過渡期としては上出来だと見てもらえるはずだ。権力争いを、国民に隠れてやられるよりはずっと良い。

2つの選択肢(「反対」か「対案」か)については、れいわ新選組も、議席が増えれば逃れることはできなくなると思う。そこまで議席が増えることがあるのか、ということは置いておいて、反対路線を採りつつ、自民党にはなかなかできない提案をすることで、それはかなり回避できると思われる。もちろん、自民党がそれを受け入れる姿勢を見せれば話は変わるが、維新の会と国民民主党が存続する限り、自民党がれいわに手を伸ばすことはないだろう(追記:その後自民党内で、経済政策についてれいわ・山本に近い主張をすることで知られた議員が、不倫問題で議員生命を失いかけており、政略だという見方も一部にある)。れいわも、財界、特に彼らが敵視している竹中平蔵と近い自民党とは組めないはずだ(民主党系から譲歩を引き出すために、その素振りを見せることはあるとしても)。

③の労働組合に関しては、まさに、民主党系とれいわが互いに補い合える。それが労組に良い影響をもたらすことすら、期待できるかも知れない。非正規雇用の割合が増え、労組も変化を迫られている時代、れいわと民主党系が協力すれば、連合(労働組合)を刺激し、その変化を加速させることが十分あり得ると考える。

非正規雇用の良くない待遇をどうするのかという問題を、その本心は別として、連合は軽視できない。もし左派野党がのらりくらりしていれば、まだ少し話は違う。しかしそうではなく、活発な議論が起こり、様々な提案がなされた場合、「以前からそのようなことは考えており、率先してそれに取り組む」という姿勢を見せるくらいでなければ、連合の存在意義というものが問われるからだ。

連合の中でも、正規雇用だけを守ろうとする労組、経営者層と変わらないマインドの労組は、自民党に寝返っても仕方がない。これ以上与野党の体力差が大きくなるのは、本当は危険なことだし、経営者の団体と被用者の団体が同じ政党(自民党)を支持するのは、あきれるくらいおかしなことだ。しかしそのような組合は、もはや被用者一般の立場を守る団体とは言い難いし、それらが左派陣営で、かく乱要因、財界や自民党のスパイとなるよりは良い。

共産党に批判的な労組が存在するのは良い。しかし民主党系の、共産党との協力を妨害する労組はいらない。労組は政策を実現させる利益団体であり、そのために政党の政策、戦略に意見するのは当然だとしても、積極的な介入までするべきではない。不満なら支持を辞めれば良いのだ(それにおびえなければいけない民主党系も問題だが)。要望を受け入れるかどうか、あるいはどの要望を受け入れるかという事と同様に、それをどう実現させるかは、政党が自ら考えるべきことなのだ。利益団体という存在が悪いとは言わない。だが政党は、利益団体の専有物ではないのだ。

国際競争が激しい時代、労組が左派陣営において企業(経営)の苦しさに一定の理解を示し、解決策を模索するのはかまわないと思う。しかし、労組が経営者と渡り合うための組織であることを忘れてはいけない。経営者とつるんで、あるいはそこまでいかなくても、共感をし、物分かりばかり良くなってしまっては、元も子もない。これから職が減る時代、オーナー、経営者と、被用者との力関係は激変し得るのだ(立場が弱く、オーナーと被用者の間で苦しむ、雇われ経営者もいるかも知れない)。

例えば自動車産業。これから電気自動車が中心になると、工程が減り、職を失う人が増える。代わりに必要になる職もでては来るだろう。例えば自動運転など、AIの分野だ。しかしそれが、職を失う人の多くを吸収するものになるだろうか。自動車をつくり、組み立てる技術を持っている人が、明日からAIを、というわけにはいかない(これを大げさな話だとは言えないだろう)。尊厳を維持したまま、そう長期を要さず、職を移る、内容を変えるということができるだろうか。

この例については、直接影響を受けるのは、エリートと呼ばれるような人々ではないだろう。しかし自動運転への移行で、これまでの勢力図、力関係が変わる可能性も高い。大手自動車メーカーも安泰ではなく、危機に直面し得る。だからこそ被用者も、労働政策以上に、産業政策に関心を持ち得るわけだ。

しかし、である。このように競争が激しくなる時代だからこそ、エリートだろうと何だろうと、被用者の立場が弱いことを、忘れてはいけないと思う。今後は多くの分野で、人のする仕事が減っていくと予想される。オーナーや経営者もかつてのように盤石ではないが、倒産しても財産(違法性がない場合、連帯保証人になっていない場合。出資した分は失うが)やコネを残し得る。一般的な被用者の立場は、それと比べればはるかに安定している(雇われ経営者の一部は別だとしても)。彼らの中にはたたき上げも多くいるが、親の企業をそのまま継いでいる世襲の経営者や、親の企業、またはコネで入った企業で早くに有利な立場になり、そこでの経験を利用して、あるいは親の財やコネなどを利用して、経営者の立場を得るような人もいるようだ。たたき上げの成功者の子どももそうなり得る。非常に有利なのだ。

例外はあるし、一般の被用者であっても、独立することも含め、強者になることは十分あり得る。しかしこの社会に階級がないとまでは言えない。特にコネのない、特別目立つ才能のない、好むと好まざるとにかかわらず、(まずは)普通に就職して働くしか道がない(尊い事だが)一般の、普通の、働く人々の組織は必要だ。被用者として一生を過ごすのが普通であるような、一般の人々が、豊かなオーナー、経営者層と対峙することは、自らを守るため、正当に扱われるために必要なことである。これを正規雇用と非正規雇用に分けるのは、弱者の分断である。そうは思えないという人もいるだろうが、そうだと思う。非正規雇用はもちろん、正規雇用だって、これからの時代、それだけで安心してはいられない。逃げ切れる人も多くいるだろうが、正規雇用自体が大幅に縮小する可能性は低くない。そうならないとしても、限られた職を巡って、「私の方があの人よりも安い給与で働きます。」という「下」への競争が、分断によって深刻化する。

いくら世の中が不平等であっても、貧困の問題がなければ、まだ良いだろう。しかし今はそうではないし、今後命の格差が拡大することも考えられる。

繰り返しとなるが、改めて述べたい。どんな病気でも治るが、あるいは健康的な食材が充実するが、それは非常に高額で、富裕層しか手にできないかも知れない(現に今、新たな高額の治療法、治療薬を保険適用にし続けられるのか、問題になっている。し続けるのだとしても、社会保険料や税の負担が大きくなる)。食品、外食については、非常に安いものがあふれても、「それらがことごとく体に良くない」というようになることも、考えられなくはない。収入が違うだけなら受け入れられても、健康な食品とそうでない食品の価格差が大きくなり、また健康保険が適用されない高額医療が存在するようになり、健康面、寿命に格差が明確に出てきたとき、どうするか。コネ入社やコネ出世は、「うらやましいな」ですんだり、「自分はいい。実力でやる」ということで何とかすまされるとしても、病気について、自分の家族は助からず、富裕層の家族は助かるということになったら耐えられるだろうか(今はどちらも助からないとしても、これからは高額医療の発達でそのような格差が出て来るだろう。それも全て健康保険で負担したら、保険料の負担が急伸しかねない)。

その時、格差に対する不満はもっと大きくなる。自分の命、大切な人の命が、大金があれば簡単に助かる。しかしないから助からない。それを仕方がないと受け入れる人は、そう多くはないだろう。

何を言いたいのかと言うと、今自分が経営者側に近いと受け止めている人を含めて、被用者は決して、特にこれからは強者とは言えず、正規、非正規に関わらず、被用者が組んで自分達を守るということを、軽視すべきではないということだ。

人々の意識の変化によって、働き方は今後変わっていくだろう。ベーシックインカムを導入し、その足しにする収入を得るための仕事を、みんなで分け合うのか。みな非正規雇用にするのか。希望に応じて正規、非正規を選べ、正規であることの負担に見合う分を除けば、同じ待遇にするのか。議論すべきことは多くある。だからこそ被用者は、正規、非正規関係なくまとまらなければならない。

このような「労組改革」、変化の際の被用者の主導権の確保は、立憲(とれいわ)が順境になければ難しい。

なお、ストライキが他者の理解を得にくいのは、特に最近では、正社員が特別な身分になっているということもあるだろう。しかしそれ以上に、国民と政治との距離が遠いということが大きい。賃上げ等の待遇改善を求めること、それが認められない場合のストライキが、被用者の権利であることを忘れてしまっている人も多い。

もし、非正規雇用の人々が団結してストライキをしたらどうなるだろうか。これほど数が多いと、困る経営者も相当いるように思われる。組織化できれば効果はあるだろう。全員とは言わなくても、もっと組織化することで、可能性は広がる(非正規の公務員のスト権剥奪は大問題だが、これは当然民間に限っても十分成り立つ話であり、全体的な問題提起になり得るものだ)。

④の経験不足については、れいわ新選組は民主党系以上に深刻だが、上で述べたことから分かるように、互いに補い合えるのだし、組む上ではそれは強みにすらなり得る。

離党者による新党として始まり、一度の例外(郵政選挙)を除いて、国政選挙で少しずつ議席を増やしていった民主党は、もともと中堅、若手の割合が高い政党であった。与党経験に乏しい指導者層(非自民連立と自社さ連立のみ、あるいは前者のみ)、与党経験が全くない他の議員によって構成され、そこにわずかな、与党経験が豊富な小沢や羽田(新生党の中心人物達の生き残り)がいた。社会党の土台をかなり受け継いではいたものの、中央、地方組織も、社会党、自民党から分かれてできたものであった。そのような党が、党として初めて与党になるのと、旧民主党→民進党系の多くが結集した、つまり自らが中心であった民主党政権の経験が残る新立憲民主党とでは違う。そこに与党経験がなく、だからこその良さがある、小さなれいわ新選組が加わるのは、民主党政権とは全く異なる(れいわを、民主党政権―民主、社民、国民新3党連立―の社民党と同一視すべきでもないと思う。社民党は組織化され、党首個人の考えでは動けない政党であるからだ。与党経験もあるが、それをどう捉えるかは難しい。社民党の福島党首とれいわの山本代表だけを比べても、消費税減税と野党共闘を優先して、原発廃止を棚上げする姿勢を見せるなど、山本の方が柔軟だ)。民主党系がれいわを軽視し過ぎなければ、バランスの良い連立になると思う。

⑤については、山本太郎には、民主党系の今知られている議員の多くにはない、カリスマ性、発信力、演説力、人を引き付ける力があることは間違いない。民主党系はそれを認めるべきだし、そこに危うさがあるというのなら、それこそ山本太郎を認めた上で、「補う」べきだ。

⑥については、確かにれいわにも、他の左派野党と同じ欠点があると感じられる。しかしれいわは、かつての社会党とは異なり、そして、野党に戻り、左傾化した後の民主党とも異なり、弱者救済最優先の政党である。他の左派政党ほど、国防で左派票を集めようとする政党ではない。柔軟さも持っていると思うから、あまり心配する必要はないと思う。

今の左派野党には目玉がない。各党が合意する、目玉となる政策があれば、それぞれのマイナス面、組む事のマイナス面はかなり払拭できると思う。良し悪しは別として、日本人は「これだけはやりたい」と言う政治家が好きだ。小泉、橋下、山本・・・。どうしてもやりたい事を、その必要性と共に分かりやすく掲げれば、反対派は一気に、水を差すだけの存在になる。ただし、民主党政権の記憶があるから、「あれもこれも」では信用されない。このことにも注意する必要がある。

もちろんそれでも、左派陣営(左派野党)全体における、民主党政権の総括は重要である。目玉となる政策ができれば、以前の民主党政権との類似性、違いが問題となり、前者であれば、次はできるのか、前回できなかった時と何がどう違うのか、ということは問われる。前を向くからこそ、総括することも避けられないのだ。総括だけをするよりも、希望を伴う、前向きなことであるから、ハードルは低いはずだ(それができない限り、政権交代が実現するほどの支持は得られないだろう)。民主党系だけでやるより、民主党政権と無関係の、れいわとの討論が重要だ、相手が敵意丸出しくる討論や、議論で生まれる成果よりも、「論破」を目的とする討論ではないのだから、ハードルは低いはずだ。共産党もれいわも(そして国民民主も)、2020年の首班指名投票において、立憲の枝野代表に投じている。それで十分ではないかと思う。

民主党系+れいわの目玉とは何かを考える前に、次のことを確認しておきたい。

「かっこつけ、きれいごとの、平等重視風のセレブ政党などいらない」というのが、今のヨーロッパの左派大政党不振の要因だと言えるだろう(もともと非常に強かった北欧の社民系は、そこまで深刻な打撃は受けていないが)。

しかしその一方で、左派ポピュリズム政党が生まれ、議席を増やすことは、なかなか難しいようだ。民族主義的な右派ポピュリズム政党のほうが、敵を明確に設定する、分かりやすさを背景とした力を持っており、それまでの主要政党と、議席数において同格にまでなるものも、少なくない。

ヨーロッパの場合は、EUという地域限定の超グローバル化が進んでおり、統合重視の姿勢を採り、それを主導する「EU政府」の、まだまだ国際機関のようである非民主性(※)の温存(遅い民主化)に加担している左派政党が、失望されているわけだが、その失望する人々を最も捉えるのは、自国民優先の(以前からの国民を優先する)民族主義なのだ。だから右派ポピュリズム政党の人気が高まりやすい。しかし、その排他的な主張は危険でもある。

成功している左派ポピュリズム政党と言えば、イタリアの五つ星運動、スペインのポデモスが思い浮かぶが、後者は議席を減らしている。前者は、議員を二期までしか務めてはいけないなど、自らに厳しい制約を課している。それに賛成の立場の人々は、厳しいとは捉えないだろうが、それによる限界もあると思う(なかなか割り切れないのが現実なのだと思う)。

この五つ星運動は、右派ポピュリズム政党とし得る同盟(これが政党名である。本当は経済的に強い北部の独立を志向する地域政党であり、強い右翼政党が他にあった)と組み、次に社民系の既成政党と組んだ。このような実験も必要だとは思うが、右翼的な面のある勢力と組む事、魅力を失った左派政党と組む事には、それぞれ別にリスクがある。五つ星運動は、支持を失いかねない危険な橋を渡っており、同党を第1党にしたイタリア自体が、意義はあることだが、危うい道を歩きながら答えを求めているのだと言える。なお、ポデモスも、既存の中道左派政党である、社会労働党と連立を組むに至った。

左派ポピュリズム政党は、社民系の大政党が真に庶民、弱い立場の人々の味方でなくなっている(と少なくとも多くの人に思われている)中、そのような人々の声を代弁する使命、そのような人々の不満を危険な右派ポピュリズム政党に向かないようにする使命を背負っている(そんなものは不要だと言う人、使命は前者の方だけだと考える人もいるだろうし、右派ポピュリズムの全てが危険だとまでは、筆者も言うつもりはないが)。排外的な民族主義のようなものだけでなく、右派ポピュリズム政党が存在することで、立場の弱い人々が、左右のポピュリズム政党に分断されてしまう危険もある。「それなら左派をなくして右派ポピュリズム政党に統一すれば良い」という人もいるだろうが、移民、外国人を敵にすることは、彼らを引きずり下ろすことにはなっても、自分達を上げる事にはなりにくい。移民、外国人を追い出しても、今度はAIに仕事を奪われるかもしれないし、雇用主がその人達の母国に行ってしまうかもしれない(国内でしか存在し得ない仕事は別として)。「底辺への競争」は、出自や細かな違いに関係なく、被用者全体がまとまることでしか、止められない。

ちなみに、移民の問題がまだそこまで深刻ではない日本では、右翼的政党、右派ポピュリズム政党は全く伸びなかった(もちろん敗戦→GHQ支配の影響も大きい)。その代わり、自民党の安倍晋三らがその役割を担っているように見える。優位政党が右翼化していると、警戒される所以である。しかし安倍前総理は、改憲を唱えながら本気で進めようとはせず、移民の本格的な受け入れに道を開いた(人手不足を懸念する財界の意向を受けて、まずは限定的なものとして進められたが、それゆえに外国人の人権に配慮していないという批判もある)。右寄りの有権者の、票だけを狙っているように、あるいは自尊心を満たすために発言しているようにしか見えない。

話を戻したい。今後人のする仕事が減っていけばなおさらそうだが、移民がいなくても格差は広がるし、今いる移民を追放する事など、さすがに非現実的だし(人道的に許されないだろう)、それが実現したとしても、グローバル化を完全に止めることは出来ないから、また同じ問題にぶつかる。移民をこれ以上増やすことに反対するのは良いとしても、移民の人権も守るべきだとする左派ポピュリズム政党(これも全てがそうではないし、人気を維持するにも右傾化せざるを得ないという面もあるが、少なくとも右派ポピュリズムよりは)の考えの方が、【数で劣る富裕層vs立場が強くない人達みんな】という構図に近付きやすい。一般の人々の要求も(少しは)通りやすい。正規雇用の公務員を敵視しても、その待遇が悪くなるだけだというのと同じだ。公務員の待遇が良くてずるいと思うのなら、「自分の待遇も良くしてくれ」というのでなければ意味がない。個人の活動はもちろん、労働組合だけでも限界があるから、左派政党が存在するのである。その欠点を補う左派ポピュリズム政党はだから、重要な存在なのである。

 

左派野党の目玉政策→

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