日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
左派野党の目玉政策

左派野党の目玉政策

さて、日本の左派政党は何を目玉にするべきか。左派政党なのだから、弱い人々の立場に立つことが条件であろう。とはいえ、自分を特に弱者だと思っていない人々の共感も得るものでないと、支持は広がらない。弱者・少数派ばかりを狙っても、労働組合(組合幹部、そして組合の支持政党・支持候補に本当に投票をするという意味での、しっかりした組合員)の方ばかりを見ていても、だめである。最低でも双方をまとめなければならない。もちろんそれ以上であるべきだし、その一部を「捨てる」のなら、他の無党派層の、より多くの支持を得なければいけない。あるいは他党のライトな支持者を振り向かせなければいけない。今述べた、自分を弱者だと思わず、自分の本来の利益とは一致しなくても、格差や貧困について問題意識、志を共にし得る富裕層も、すでに多くが左派政党の支持者であるかも知れないが、その対象であろう。

飲食店等、多くの個人事業主が自民党のコロナ対策のまずさの犠牲になっている。個人事業主はこれまで、多くが自民党を支持していたと考えられる。しかし今後彼らは、優遇される一部の業界を除き、野党の支持者となり得る。自民党がTPPに積極的であったことで、農家の一部も自民党から野党に支持を変えていると見られる。これまで経営者として強者の側に名を連ねていた個人事業主、中小企業も、自らの立場の弱さから、変化しつつあるのかも知れない。それらの人々に向き合う事も、庶民、客車の見方たる左派野党の使命である。個人事業、小さな企業で雇われている人は、被用者でありながら、労組とも無関係で、雇用主と同様の投票をしていたと考えられる(かつての農村にも同様の傾向があり、戦後は農地改革で、みな事業主になった)。戦略的にも重要なところである。

そう、もともと弱かった経済(日本ばかり賃金が全然伸びない)にコロナの影響が加わり、生活が苦しい人、不安を持つ人がますます増えている(逆に得をした人もいるだろうが、人数、期間を見れば、限定的だろう)。それに対して、得意げに「強くなろう」と唱えるのではなく(これはこれで必要だから、新自由主義的な保守政党が担えば良い)、左派政党はとにかく人々に寄り添う。貧困の苦しみを味わわせないと同時に、「心も死なせない」と言う。無責任に聞こえてはいけないが、人々の苦しみ、心配を、つぶしていくような政策を示していく(政治にはどうしようもないもの、関わるべきではないものもあるだろうが)。

本当は、国防についても同様に不安を小さくすべきであるが、左派政党にはとりあえず、最低限のことを求めれば良いと思う(過去の例を見れば分かるように、政権を取れば変わる。もっと与党経験を積めば、むしろしっかりしたものになると思う。確認しておきたいが、中国の国内外におけるやり方は危険であり、それを指摘するのは決して不必要な敵対心を国民に植え付けるものではない。危機意識を持つ者に、ある程度異なる選択肢は存在し得る)。

財源についても柔軟に考える。今のままだと、歳出削減、消費増税しても、財政赤字の削減、法人税の引き下げ(低い税率の維持)に回り、多くの人々が持っているお金を貯め込み(そうなると企業も内部留保を積み上げ、悪循環から脱出できない)、日本は自分で自分の首を絞めることになる。

そうすると、掲げるべき政策はやはり、人々の暮らしを少しでも楽にする給付か、負担軽減策しかない。新型コロナのために、収入が減った企業、人、借金が増えた企業、人、職を失った人の再起、前進を、費用以外の面でも、必要に応じて支援するのは当然重要だ。しかしそれは当然、給付・負担軽減と両立する。その際、これまでと違う事をするための後押しをするのも良いが、押し付けるのは問題だ。コロナ後には成立しないという仕事自体はほとんどないと思う。よって、「産業構造の変化に協力して下さる方がいましたら、どうぞお願い致します」ということになる。「成功するための機会、再起するための機会は与えたはずだ」と冷たく言い放つためのものには、決してしてはいけない。

賃金を上げることも重要だが、これは中小企業、個人事業主を苦しめる。これを強制するなら、引き上げが過度な負担になるところを、国が支援するしかないと思う。要するにこれも給付になる。他の給付との兼ね合いを、規模と共に左派政党間で議論し、一致点を見出すべきだ。

上で述べた「再起」に関しては特に、経済が好調であることも非常に重要だ。そしてそれには、何よりも消費の拡大である。もちろん産業の強化それ自体も重要であり、策を練るべきだが、最も国民に訴えるべきは「安心して消費できる社会にする」ということである。これを阻み得る策は、可能な限り控えるべきだ。

給付はもちろん社会保障と重なるが、その中でも、あるいはそれを越えて、なるべく普遍的な性格のものが、万人に訴えるだろう。「社会保障関係費が年々大きく増えていっているから、消費税を引き上げるしかない」という決まり文句があるが、「どうせ次に増税が来るんでしょ?」と思われてもいけない。増税が必要なのだとしても、それで人々の気持ちが盛り上がらなくなれば、消費喚起にはならない。

だから本当は、政権が信頼されることが重要なのだが(追記:『枝野ビジョン』にもそう記されている。まずは国債に頼り、信頼を得てから、必要な負担増―まずは累進性の強化―を頼むという枝野の姿勢を筆者は高く評価する。しかしそれでも、今、どうせ負担増になると思われては問題なのだ)、政権交代が再び奇跡的に実現して、そこから新政権が厚い信用を得るまで、待つことはできない。何らかの根拠が必要になる。それは、多くの人が「これなら、後発の増税とセットでも大丈夫だ」と思える策か、MMTのように財源を確保できる理論だ。これらについては、「実際にやってみれば大丈夫だと分かる」ということではいけない。政権を任せたいと思われなければ、やって見せる事すらできないのだから。

もし、貧困層等に限定した給付や負担軽減策を謳うのであっても、「この先の人生に危機が訪れても、乗り越えられる、安心して生きられる国にする」ということを、強く、広く、工夫して訴えなければいけない。なぜこのことを強調するかというと、「弱者優先か」と思われないため、というだけではない。今こそ、どんな国にするかというビジョンが重要だと考えるからだ。【目玉となる政策が、実現を信じられる、分かりやすく、希望の持てるビジョン】に乗っているという形であるべきだ。「もはや右だ左だ」という時代ではないという声があるが、すでに述べて来たように、そんなことはない。実際、全ての人に多くの金額を給付し続ける事は難しい。ベーシックインカム導入論の中にも、安心して暮らせそうにない額を想定しているものが目立つ。他の給付が残るとしても、また家族が多ければ世帯に給付される額の合計が増えるとしても(反対に一人暮らしに手厚くするとしても)、それで十分だと思える提案は少ない(十分であったとしても、実現できるか心配にはなるのだが・・・)。そうなると、皆を守るための(国民が互いに守り合うための)ベーシックインカムが、弱肉強食の社会に文句を言わせないためのものになってしまう。

皆に何でもしてあげる事が難しいからこそ、どこに重点を置くかが問題となる。左派政党だって産業振興は重視する。しかし分配に関しては、弱い立場の人を最も重視する。そうでない人も、自分の立場が弱くなった時、国を頼れるからこそ、安心できる。挑戦もできる。そんな国にする。右派政党は競争重視の立場を採りつつ、経営者層を重視する。これも大事なことだ。「重視する」としたように、どちらかだけをやるのではない。どちらかを優先にするだけだ。国民は政権を時に交代させることで、政府の優先順位を決めることができる。バランスをとることができる。腐敗をある程度阻止することができる。

生活に不安のある人々のための救済策は、給付のようなものだけには限らない。良い制度があったも、それを知らなければ、その恩恵にあずかることを恥だと思えば、意味がない(節約のために故意に知らせなかったり、手続きを複雑にしたりという危険もある―今も指摘されることがある―)。人々が救済策を知り、安心してアクセスできるような工夫をしなければならない。

救済策は怠惰な人間を増やしてしまうという意見もある。分からないではない。だが、怠惰な人を選んで放り出すことなど、できるわけがない。努力している人を優遇する策は採っても良いと思うが、その選別を人間がすることが、本当はおこがましく、危険な事であることは、認識されていなければいけないと思う。

努力しない人の多くも、単に怠惰なのではなく、そこに何らかの原因があるはずだ。そこに他者が踏み込むことにも、消極的にという意味ではなく、慎重さが求められる。とにかく、「怠惰」という言葉で片付けて、軽視して良いはずがない。生活保護を、必要でない人が、制度を悪用して受けるという問題は、感情を揺さぶるものであるからこそ、過大に捉えず、切り離して解決策を考えないと、話が進まない。

中間団体が弱ってきている今、また、その弊害ばかりが指摘される中、中間団体の良い面を代わりに担うようなものをつくることが重要だ。例えば、地方自治体に細かく、様々な問題で悩む人、孤独に苦しむ人の拠り所となるスペース、相談する機会を設ける。あるいは民間と協力して、そのようなものを充実させる。かつそれらの存在を、垣根の低いものとして、さまざまな手段で人目に付かせる。その上での福祉だ。そこに新たな雇用も生まれる。

人の心に関わる事だ。簡単ではないだろう。費用も当然かかる。しかし、それで少しでも多くの人を救えれば、社会の活力が増す。そのことを訴えるべきだ。

ITも活用できる。インターネットについては、過度な依存、SNSでの誹謗中傷など、色々と問題がある。しかし利便性が高いのはもちろん、人と人を結び付ける機能も確かにある。昔のように、皆がマスメディアを通して、またマスメディアの影響を受けて、同じものを見たり聞いたりする時代ではなくなっている(家族がお茶の間で、同じテレビ番組を見ながら団らんした時代を懐かしがる人がいる。その気持ちは筆者も分かる。しかしその時にはその時で、「テレビがついていることで、昔と比べて家族の会話が減った」などと、言われたものだった。インターネットも同じだ。人間関係を壊す事にも、築いて深める事にも使える)。自然に良い使い方ができるような社会を、政治も一緒に作っていく必要があると思う。良い使い方を定めて押し付けるのではなく、苦手な人に変われと言うのでもなく、孤独を防ぐ使い方、人を傷つけない使い方を広め、アクセスしたい時のハードルを下げるのだ。安心へとつながる選択肢、楽しみへとつながる選択肢、それがあることを誇りに思えるような選択肢を、皆で充実させるのだ(悪質な使い方は取り締まるべきだが、それが政府批判を封じるのに利用されることは、絶対に避けなければいけない)。

そのIT等がさらに発展し、人間がする仕事が減ることに備えて、上で少し触れたベーシックインカムについても、究極の給付として検討すべきだろう。

「目玉」という割にはいろいろ、そこまで具体的でない話をしているが、これはあくまで筆者が考えたことだ。そして複数あるように見えるとは言っても、「こんな国にしたい」というシンプルなビジョンにまとめることはできるものである。このビジョンについても、筆者には少し案があるが、後述する。

1つ、分かりやすい目玉政策が必要だとしても、いやそれと同じ理由で、どんな国を目指すかという事が、細かなプラン以上に重要である。ほとんど誰から見ても、同じように対処すべき問題は別として、その目指す国家像の上で、プランができるのが当然の順序だ。「今、それなりに豊かな人の暮らしまですぐに良くすることは難しいが、それも一生懸命目指しつつ(それができない限り負担増を回避して)、何より、老後を含めて生活が苦しくなった場合の助けが、高福祉とされる国に劣らないほど、充実した国にする。これ以上の格差の拡大を、可能な限り防ぎ、中間層を維持、修復する」ということを、なるべく具体的なプランと共に打ち出すべきだ(プランは、様々な事態を想定した、幅の大きなもので良い)。それも、「そう言っても実際はケチるのだろう。簡単にあきらめるのだろう」と思われぬよう、それこそが政権の最大の使命であると、掲げるのだ。同時に、「資金面だけでなく、機会、精神の面でも、救われるような国にします」とすべきだ。

安心で、誇りを失わずにいられるような、分かりやすい再起の手段があり、それがうまく回れば、治安を維持できるだけでなく、社会全体の活力が増す。それは社会保障の歳出の増加を、少なくとも緩める(結果として抑えられる部分があるということであり、意図的に抑えるのではない)。愛国心も自然と育つ。国だけではなく、自分自身についても誇りを持てるような愛国心(他国をしっかり警戒はするとしても、敵視、軽蔑はしない、明るい愛国心だ)。

「国土強靭化」もある程度は必要だが、全てはできないのだし、利益誘導にならないためにも、厳選するべきだ。それは民主党(政権)の「コンクリートから人へ」に近いが、れいわの「コンクリートも人も」と、必ずしも矛盾するものではない。「必ずしも」というのは、全てはできないということだ。ここでも、「れいわはMMTだから可能だ」という話になるが、それでも無限ではないのだから、新自由主義政党ほどではなくても、優先順位を決める議論をすべきだ(インフラについては「自立連立(自立公連立)の先にあるもの・・・」でも述べた)。

自民党政治(田中派流の政治と言っても誤りではない)を社会民主主義的だと言う人がいるが、それは違う。確かに格差の拡大を防ぎ、縮める効果(特に東京一極集中の弊害を緩和する効果)はあった。しかしそこには、強い権力で、恣意的に予算を付けるという傾向が強くあった。【党内抗争に勝つ→予算、法案を利用して利益誘導→資金と票が集まる→党内抗争に勝つ】という路線であったことは否定できない。データで冷たく線引きをすることも回避しつつ、つまり柔軟さはある程度残しつつ、恣意性をなるべく弱める必要がある。

さて、何度も述べていることだが、今後、仕事を変えなければならない人も、それなりにでてくると予想される(世代交代を利用して、個々人が仕事を変わることなく、全体的に変化する、ということができるだけの時間があるのだろうか・・・)。その時、職業訓練、次の職に就く機会さえあれば良いのか。機会があっても、変化自体が大きなストレスになることもある。多くの人が、AIとベーシックインカムに助けられて、仕事をしない生活ができるようになったと仮にしても、それで皆が幸せに暮らせるというわけでもない。少なくなった仕事、その中で、より大きなウエイトを占めることになるであろう、特別なスキルがいる仕事を、どうやって、訓練も含めて、人々に振り分け、人々が分け合うのか。それによっても充実感、自己肯定感を得るのか。これについて左派政党(社会民主主義政党)は、保守、新自由主義とは違う立場で、考える必要がある。

平等重視の姿勢を採るとどうしても、「弱者を救うための政党」と見られる。「救う」というのはやや上から目線であり、それは本来保守政党の側の見方である。左派政党はもっと、弱い立場の人々、そうなる危険がある人々(よほど分かりやすい才能か、財産がなければ普通はそうである)が協力して、生活の向上を実現させるというイメージだ。そこには、弱い立場とは言えなくても、同じ理想を持つ人々も加わる。

皆でお金などを出し合い、危機に陥った人、弱い立場の人、教育・子育て(未来の働き手・納税者)に使うわけだが(増税するかどうかは別として)、そこで問題なのは、次のことである。格差の下を上げる、余裕があれば下だけでなく、全体をあげる。それだけなら、可能であれば誰もが賛成するだろう。それだけではなく、上の方を下げるかどうか、ということだ。「上を下げる」とは、何より財源を確保するために、富裕層からより多くの税を取るということだ(強い企業からも取るべきだが、日本最強のトヨタ自動車さえ、エコカー、自動運転と変化が起きている中で、安泰ではない。負担は求めるべきだし、あまりに不公正な優遇も「すべきではないが、日本の国力の事も考えなければいけない。これは保守政党が積極的に取り組むべき課題だが、左派政党も当然、逃れられない)。それができれば税収が増えるが、富裕層、大企業のの国外流出を防げるのか、という問題もある。現時点だけを見ればそこまで深刻でなくても、さらに負担を求めれば分からない。

資本主義なのだから、皆が(ある程度)豊かさを感じる生活をすることができるのなら、すごい贅沢ができる人との間に、格差があるのはおかしくない。資本主義を否定しない限り、金銭面での平等を徹底するのは無理がある。

ただ、日本はまだかなり平等なほうだが、「上位」のごくわずかな人々が、世界の富の多くを手にする状態は危険だ。さすがにいずれ強い反発を生むか、(多くの人が知らない間に)その少数の人が完全に支配する世界になりかねない。豊かな人々が、もっぱら本人の努力によってそうなるのなら、才能が平等でなくても尊敬されるし、個人の話、一代限りの話であって、富裕「層」、支配「層」というようなものは形成されにくい。しかし、富裕層には皆が自分の努力ばかりでなるのではない。そのような人もいるが、今述べたように才能の違いもあるし、何より、富裕層の多くは生まれつき富裕層なのではないだろうか。

そう考えると、上を抑える格差の解消が、民主主義を守るためにも、もっと重要視されても良い気がする。これは他の国に言った方が良い話だともいえ、日本ばかり「上」を下げようとすれば、それこそ皆海外に逃げてしまう。才能が流出する、そもそも育たないという問題も起こり得る。

だが、グローバル化が進む時代、しかし国家を不要にするだけの変化には至っていない時代(至ると良いという意味ではない)、活力を生むような、日本国民としての一体感を維持するうえでも、無理は禁物だが、考える必要はあると思う(多くの税を取る代わりに、本人に限り何らかの名誉を与えるというようなことの効果、是非も、考える価値はあると思う)。富裕層からより多く税を取るには、やはり国際協調が重要だし、その芽はある(もっと豊かな人、企業が税逃れをしているし、一部のIT企業が国家並みの力を持つことに対する危機感もある)。富裕層をあまりうんざりさせ過ぎると、確かに活力が失われるかも知れない。しかしより平等にチャンスがあることで、活力が増すということもあるだろう。極端になるのは良くないと思うが(もちろん社会主義も望まない)、やはり考えても良い気がする。

話は変わるが、筆者は次のようなビジョンを描いている。それは、1日を大雑把に4分割し、労働、学習、遊び、睡眠に振り分けるというものだ。単純に等分すると6時間ずつになるが、それではもちろん多い、少ないがあるだろうから(6時間睡眠は本当は少なすぎるのだろうし)、あくまでも目安である。というよりも、時間を自由に使えるようにするための、左派政党の取り組みを知らせ、変化を訴えるためのイメージである。もちろん強制ではない。例えば仕事には当然家事を含んで良い。この4つ以外にしなければいけないことも多くあるが、それをこの4つに含めて考えるということもできる。

労働時間が今より短くなる。ベーシックインカムを補助的に導入し、足りない分を、皆で仕事を分け合って稼ぐ、というイメージである(仕事を得られない場合、その分だけ給付が増える)。学習というのは、今の仕事、次にしてみたい仕事のスキルを上げる、身に付ける事、経験を豊かにする、様々な体験をすることである。趣味的なものとして、「遊び」と重なるものもあるかもしれないが、あくまでもイメージであり、人それぞれで良い。収入を得つつ、そういった時間を持てるようにするという事である。

無理やり仕事を変わる必要はないが、やってみたい仕事を人生の中で、複数できるということがもっとあっても、充実すると思う(同時に複数の仕事をしたい人は、学習、遊びの時間を割けば良い)。格差は、このビジョンの中で多くの人が不満を持つに至らない程度に収める努力をする(多くの人が充実すれば、簡単に不満が高まる事はないだろう)。

日本人は本当に働き過ぎだと思う。働きたければそれも良いのだが、本人、あるいはその配偶者が無理をしているように見える事も多々ある。それに特に不満を持っていない人が、実際には自分の子どもと接する時間などを、(取りたいのに)あまり取れないことも多くある。周囲の人も同様だと、そのことに疑問を持ちにくいが、決して良い事ではないし、家族と過ごせる時間に格差が生じるのも問題だ(長く過ごせるほど良いという事でもないが、望んでいても一緒にいられないのは問題だ)。

長時間ゆったりと働いている人もいることは否定しない。短期集中よりも、それが自分に合っているという人もいるだろう。しかし待遇の良くない非正規と共に、長時間働いてくれる正規に甘えている面も、日本にはあるだろう。そのせいで、介護をしなければならない人が、正規雇用で働けなくないことも多い。育児についても同様のケースがある。介護の時間的な負担を軽くすることも重要だが、介護と両立し、かつ安定した働き方を可能にすることも重要だ。

このような分かりやすいビジョン、目標を、左派政党には、政策の前提としても打ち出してもらいたい。右・保守の人々もそれをある程度共有できると思う。平等は左派政党が、競争は右派政党が、主に重視する。政権が変わった場合は、左派は右派の、右派は左派の、この役割をある程度引き継ぎつつ、国を自らの理想に近くする努力をする。矛盾する課題には、双方が取り組むとしても、左右のどちらかが、けん引役になる必要がある。左派政党がその一方を担い得る、政権交代を実現させ得る、勢力にならなければいけない。国民も左派勢力を、そのように育てなければならないと思う。

 

その財源について→

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