日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
6. 他国との比較

6. 他国との比較

※執筆が遅れた関係上、⑦以降を先取りする内容が含まれています。初めの方を読んで用語が気になる方は、先に~⑨(または~⑫)をお読み下さい。

明治、大正期の日本における無所属の当選者、無所属議員の多さを見た。当時の日本の、薩長閥から政権を奪おうとしていた2つの民党以外、つまり自由党の本流でも立憲改進党の本流でもない第3極については、改めて⑦、⑧で見るのだが、下記の勢力が存在した。真っ二つに割れた後の立憲国民党(残留派)は、立憲改進党の本流とはし得るものの、離党者の方が多く(衆議院議員)、その離党者が吏党系等と合流して第2党になったので、第3党に転落してしまった残留派の方を第3極と見る(当然と言えば当然だが)。また、前提として確認しておくと、ヨーロッパの国王にあたる日本の天皇は、薩摩、長州の出身者に担がれていたという面が大きく、政治を動かしていたのは、その薩長閥であった。国や時期にもよるが、議会政治が定着する過程におけるヨーロッパの国王は、日本の天皇と比べ、直接政治を動かすことが多かったと言って良いだろう。日本において、ヨーロッパの国々の国王を支持した保守派にあたるのは、薩長閥だと捉えられる。政党を結成し、民選の衆議院の力を用いて、その薩長閥から政権を奪おうとしていた民党は、自由派にあたると言える(詳しくは後述)。さて、第3極の勢力は次の通りであった。

・薩長閥(の政府)の支持派・・・・・吏党系

・無所属議員が形成した勢力・・・・・中立派

・政党、会派の離脱者による勢力・・・新民党

離脱者による勢力は、薩長閥に対して、そして多くの場合は他国に対して、民党よりもさらに強硬な、衆議院の最左派であることが多かった。このため、筆者はそれらを新民党と呼ぶ(補論⑦参照)。右から順に吏党系、自由党系(民党であったが早々に変化した)、改進党系、新民党と並ぶ、4極構造であったようにも見える。しかし中立派が存在していることが多かったし、新民党が常に存在していたわけではなかった。

新民党は、組織化された大政党の離党者達、薩長閥に従おうとする議員達が比較的多かった会派の離脱者達であったから、トップダウンとなりがちな組織化には消極的で、結局は自らに比較的近い、改進党系と合流することが多かった。改進党系(立憲国民党)の約半数と、吏党系が合流してできた立憲同志会→憲政会にも、一定数が参加している。この再編によって、吏党の系譜も消滅したと言いえる。それまで吏党系は、時に中立を標榜し、また大勢力の間を漂った。

中立派とは、無所属議員が形成した勢力であった。それらは中立の立場を採るものがほとんどであったのだが、みな統一性に乏しく、実際は所属議員の多くが、他の大勢力(基本的には薩長閥)に寄っていることが多かった。このような中立派を、中立だからといって真ん中にして、5極構造であったと見ることにも違和感がある。

政府支持派が第3極の一部であり、かつ立場が安定しないというのは、矛盾しているように見える。これは、政党(へと発展する勢力)が政権を担うことが原則である、議院内閣制ではなかったからこそ、起こり得る現象であった。しかし、ヨーロッパの議院内閣制ではなかった国々でも、見られない現象であったと言える。ヨーロッパでは、変化に慎重であり国王の権限の維持を志向する、あるいはそれに近いような保守派(保守政党)が、選挙で議席を減らしていき、野党である自由派に、最大勢力の地位を取って代わられるという例が多くある(イギリスの保守党は、やや長期的に見れば自由党と対等の地位を維持したが、イギリスでは自由派の方が、保守派より王朝と近かったことがある)。その変化を受け入れた国王は、自らに最も近い保守派ではなく、自由派を政権に就けるようになり、保守派は恒常的な与党、準与党ではなくなった。

日本でも、自由派とし得る民党の系譜が政権を担うケースがでてきたが、その場合でも吏党系(保守派)は、薩長閥(保守派)の内閣の時と同じく、準与党であったことがある(第1次西園寺内閣成立当初。完全な政友会内閣―自由党系の内閣―ではなく、薩長閥との協力体制であったためだが、吏党系は自由党系と、薩長閥政府の野党として協力していたこともある―第2次松方内閣―)。反対に、薩長閥(保守派)が政権を担っていても、それと対立する野党であったことがある(第2次伊藤内閣、重複するが第2次松方内閣)。そして何より、どちらの場合でも、第3党以下であった。これがめずらしいのだ(ただし第3回総選挙―議会開設から4年たっていない―まで吏党系は、第2会派―時に第1会派―であった)。

保守派が、下院とは制度の異なる上院において、比較的よく勢力を維持したという点は、日本もヨーロッパの君主制の国々と似ているところがある(通常の選挙によるものではなかった上院が、下院よりも保守的であったのは当然だ)。ただし日本では、薩長閥政府が政党を無視する立場であったため、上院(貴族院)に政府支持政党は存在しなかった。下院(衆議院)ではヨーロッパとは違い、上院の政府支持派とは別の、小規模な勢力としてそれが存在し、時には薩長閥政府に対する野党になったのである。さらには、自由派とし得る2大民党の系譜を、さらに保守派と自由派に分けた場合、自由派とし得る改進党系に組み込まれるような形となった(改進党系の半数以上、吏党系、そして新民党の一部が参加した、桂新党としての立憲同志会の結成と、桂の死)。これもかなり特殊だ。

より右の、薩長閥を誤った改革派と見るような、排外的な勢力も当初は存在した。しかし衆議院ではほとんど議席を得られず、国政レベルにおいては早期に、薩長閥支持派の吏党系に吸収された。

民党(自由党系と改進党系)の指導者層は、基本的には、もともと明治政府の中にあった。つまり彼らにとって薩長閥は、かつての同僚であった。確かに、薩長閥を保守派、民党を自由派と見ることができる。しかしそれらの対立は、政治理念の差異によるものというよりも、権力闘争の面が大きかった。薩長閥は現状維持(改革は慎重に少しずつ、薩長閥が行う)、そして民党は、早期の議院内閣制の実現(政府を辞めて政党を作った自分達が政治をする)という違いであった。民党は、制限選挙における有権者の多数派(となるであろう)地主層の支持を得るため、また薩長閥政府を困らせるために、地租軽減(後に地租増徴反対)を唱えた。

しかし自由党系や改進党系が存在していても、またいなくても、地主層が有権者の多数派であれば、そもそも地租の増徴は容易ではない。一方で日本の産業構造から、議会開設当初は、税収を増やすには地租の引き上げが不可欠と言える状況であった。そうであれば、薩長閥と民党との間にも、決定的な違いは表れ難い。だからこそ彼らは、「手打ち」をすることができた。民党が政権にポストを得ることが、その「手打ち」であった。そうなると、政党を無視する建前を薩長閥が採っていたことから、優遇されることを期待しにくい立場にあり、それでも薩長閥を当然支持すべき立場であった吏党系は、存在意義を失わざるを得なかった。

日本の自由派は、ヨーロッパの国々のそれのように、自ら政権を担うまでにはなったが(第1次大隈憲政党内閣)、それはまずは一度きりの、ごく短い期間であった(第1次大隈内閣。2大民党合流の力で政権を譲られたが、旧自由党と旧進歩党―改進党系―の対立で崩壊し、議会すら経験できなかった)。そしてその後の歩みは、保守派対自由派という構造における自由派の勝利→自由化、保守主義と自由主義の負の面を追い風にさらに左の社会(民主)主義勢力が台頭する、という歴史をたどったヨーロッパの国々と、日本が完全に異なる点である。日本では自由派政権をほとんど経ずに、そして社会(民主)主義勢力の台頭を待たずに、保守派と自由派をまたがる再編が行われた(ヨーロッパでは保守派と自由派のどちらかが没落するか、双方が結び付くことになったが、これについては後述する)。

日本では自由派の政党が2つあり、互いに対抗意識を持っていたため(選挙もある以上、不思議なことではない)、それらはむしろ、それぞれが薩長閥(保守派)の別々の要人の勢力と合流することになったのである。自由党系は薩長閥の伊藤らと、改進党系の約半数は薩長閥の桂らと、前述の通り合流をした。薩長閥と2大民党の間には、2大民党間よりは大きな差異があったが、合流することにはお互い大きなメリットがあった。合流は、薩長閥にとっては、衆議院で民党に拒否権を行使されないためのものであった。そして民党にとっては、自力では難しい政権獲得を実現するためのものであった。伊藤の方が桂よりも政党に肯定的であったという差異はあったが、桂が政党を肯定するどころか、自ら結成までしたのだから、薩長閥内の差異の意味は小さくなっていたのだと言える(山県系に反政党色が残ったが、山県も立憲政友会に政権を渡した)。安定的な差異のない2大民党が、政界縦断型の2大政党になったのである。

ただしどちらも別の理由で、その薩長閥要人の影響力が失われた。だから再編後の2党もやはり、自由派と見るべき政党であった(実際には違いがあるが簡略化して述べている)。こうして自由派が政権を担うことのある政党になっても、それは自由派と保守派の談合のようなものでもある。そもそも明治政府の離脱者であり、地主層を支持基盤としていたことも考えると、日本の自由派は、欧米の自由派とはずいぶん異なる(欧米では大土地所有者は貴族である場合もあり、保守的であった)。

吏党系が自由派に吸収された背景にも、この再編(政界縦断)があるが、事情はやや複雑だ。

自由派の中で、薩長閥への接近に早期に舵を切り、政界縦断を、薩長閥伊藤系との合流による、立憲政友会の結成という形で成功させた自由党系は、もう一方の民党であった改進党系よりも、右に位置したと言える。改進党系は自由党系の劣位に立たされ、薩長閥とは反対側の、左から自由党系を攻めた。そして機会を見つければ、自由党系を左に連れ戻そうとした。しかし内部が、その路線を維持しようとする勢力と、自由党系のまねをすることで、自由党系に対抗しようとする勢力に割れた。

薩長閥の、政党に否定的であった山県系の中でも、桂太郎は、総理大臣を務める中で、自前の政党を持つ必要性を感じるようになった。その桂の新党(立憲同志会)の結成に参加したのが、改進党系のうち、自由党系のまね(薩長閥への接近)をしようとした勢力と、吏党系、そして新民党の一部であった。これは第2党となり、改進党系の残部は、衆議院の最左派の1つとなった。桂新党は、政党に否定的であり続けた山県系(山県-桂系)から生まれた政党であるから、立憲政友会よりも右に位置してもおかしくはない。しかしそうはならなかった。当時すでに、立憲政友会が度々政権を担う「強者」となっていた上に、桂が死去したことで、「桂新党」の指導者は、薩長閥に否定的であり、かつて衆議院の最左派に参加していたことすらあった、加藤高明になった(山県らはそもそも桂新党に参加せず、桂系でも参加を取りやめる者があった)。また、新民党からはさらに、この桂新党の系譜に加わる者達が出た(立憲同志会等による憲政会の結成)。ようやく第2党の地位を取り戻せることとなったと、言えないこともない吏党系(政党になったのは約10年前の、衆議院の解散後であったが、前議員の数ですら、政党として第2党であったと言えるか分からない)は、桂の死後、新党への参加を見合わせなかった。こうして、相対的には保守派ともし得る立憲政友会と、自由派の立憲同志会の系譜が第1、2党となり(自由党系と改進党系が第1、2党である状態が、維持されたという見方もできる)、立憲政友会の大分裂などといった紆余曲折を経て、交代で政権を担うようにまで、なるのである。山県系は新たに独自の会派を形成したが、2大政党制へと進む流れには抗えず、2大政党が衆議院のほとんどの議席を占める状況となった。欧米との比較を念頭に置いて言えば、自由派が2つ存在し、同様の道を歩むも、その現実主義的な面と理想主義的な面のウエイトの差異によって、保守派と自由派ともし得る、政策の異なる2大政党になった。

次に、無所属議員が形成した勢力について述べたい。それらこそ、大量の無所属の当選者達が結成した会派である(無所属の当選者達は、中立的な会派を形成する者達と、会派に属さない者達に二分されるものであった)。そのような会派は、総選挙の度に議員を大きく入れ替え、名称も変更された。形式的には、総選挙の度に新会派として、理念や政策が異なる当選者達、いやそもそも、理念や政策に乏しい者も多かったと見られる当選者達が、とりあえず結成したものであった。後述する通り、姿勢、政策が明確なものもあるにはあった。しかしそのような会派、そのような状態が、維持されることはなかった。強いて言えば、それらは保守的で、大勢力と対立することに消極的であった(地価の修正を求める議員達が結成した溜池倶楽部、対外強硬派は例外とし得る)。

そもそも、差異に乏しい複数の勢力が、権力を巡ってしのぎを削る中で、何の間に、どう立とうというのか、という問題がある。だから明治、大正期の日本における「間」とは、理念、政策的な背景とは無関係に、いずれの勢力とも一線を画す、中立のための中立というものでしか、ほとんどなかった。このような立場を採ることには当時、全ての有権者が歓迎していたわけではない政党(民党)、その政党と薩長閥との対立と、一線を画すことで評価を得ることにつながる可能性があった。しかしそのようなこと自体、本来の議会政治からはかけ離れたものだ。中立会派の議員達には、それを存続させる意思すらなかった。日本にしばしばみられる「無所属クラブ」的な存在の源流は、ここにあるのかも知れない。

野党的な姿勢が強かった戊申倶楽部(第10回巣選挙後に結成された会派)についても、そのカラーはあくまでも、その内部の、一部実業家達のものに過ぎなかった。消極財政を求める、実業家による会派という面はあったのだが、同派には山県-桂系の議員達も参加していた。そしてそれが原因で、統一性のない勢力となった(そもそも無所属議員の会派に過ぎなかったと言えるのだが)。実業家達は、自分達だけではあまりに勢力が小さくなってしまうことから、共に反政友会であった勢力と、と会派を共にしたのであった。しかも戊申倶楽部結成後まもなく、政友会(自由党系)中心の内閣から、山県-桂系中心の内閣に代わり、結局は薩長閥政府寄りの会派という面が大きくなった。そしてついには、吏党系と合流した(『キーワードで考える日本政党』の第10章⑩で見る)。

理念、政策について言えば、やはり度々名称を変えた吏党系も、薩長閥中心の内閣、あるいは薩長閥との関係が良好な内閣を支持する姿勢が先に立ち、それらを重視していたとは言い難い。

ここで吏党系と無所属議員の会派との関係について確認しておきたい。第1回総選挙後の吏党は、薩長閥支持派を含むものの、単に民党に属していない議員達の集まりであった。だからこそ、自由党系の会派に次ぐ第2会派になれたのであった。しかし短期間で分裂し、そこから民党寄りの会派、中立の会派が誕生した。新民党の第1号も、中立的な会派も、吏党系から誕生したのである。第2回総選挙後、選挙干渉の影響もあり、吏党系の残部は第1会派にまで拡大した。しかしそれでも、明確に薩長閥支持を打ち出すことはできず、改めてそれにとりかかったところ、中立的な実業家の議員などが離れ、いくつかの新たな会派を形成した。残部は薩長閥支持派による会派、国民協会となり、政党化された。しかし政党化については、その残部すらまとまることができず、薩長閥の要人でありながら彼らに否定的であった伊藤博文が、総理大臣であった時、取り締まりの対象としての政党(正確には政社)に指定したことで、政党となったに過ぎなかった。

もともと衆議院は、自由党系、改進党系、吏党系の3派が並び立つ状態であり(改進党系は小さく、むしろ自由党系と吏党系が並び立っていたという方が正確なくらいだ)、そのうちの、政党化されていなかった吏党系から、新民党や中立派は誕生したのである(その後、自由党系、改進党系からも新民党が誕生するのである。もともと、吏党として1つであったと見ることもできる第3極だが、分かれてからはもう、1つの塊になることはなかった。衆議院における会派が3つ(2大政党+1)となったことはあったが、そのような状況が、1回の総選挙からその次の総選挙まで維持されること、総選挙をまたいで維持されることはなかった(総選挙後早期に新たな会派が結成されるため)。そのようなことが起こるのは昭和期に入り、2大政党の議席占有率が非常に高くなり、他の小党がまとまって会派を結成するようになってからだが、それも、社会民主主義政党の伸長や、大政党の分派を中心とする右翼的政党の誕生によって、ごく短い期間で終わった。第3会派以下の勢力が、第1、2会派のいずれかと連携し、同じ陣営に入っているような状況はあっても、恒常的なものではなく、全てがそうなるというのはまれであった。

大正期に入ると、吏党系は、2大民党の一方の立憲国民党(改進党系)を離党した議員達と、桂の新党構想に乗って、立憲同志会という新たな第2党を結成したわけだが、この時までに無所属議員の会派は、主に吏党系に合流した。会派の上でも無所属になる議員、他の勢力に合流する議員もいたが、会派としての中立派は一度消滅した。しかし立憲同志会結成後初の総選挙では、山県系に支援された候補者、与党となった立憲同志会の所属ではなかったが、その事実上の指導者という面もあった大隈重信総理(党首は加藤高明であった)を支持する議員らを中心に、新たに無所属議員の会派が結成された。ここからは立憲同志会と合流する議員も出て、一時は、政権に戻った山県系の色を濃くしたが、内紛、分裂を経て、かつての中立派に近い会派に戻った(それだ薩長閥の流れであろうが、立憲政友会であろうが、時の政権に比較的近いことが多かったようだ)。

立憲同志会は憲政会、立憲民政党へと発展し、特に、真っ二つに分裂した立憲政友会の一方(離党者達が結成した政友本党)と合流したことで、立憲政友会と渡り合える政党になった(政友本党系からは、合流前だけでなく合流後も、立憲政友会に戻る議員が続出したが)。こうして自由党系の立憲政友会と、立憲民政党が交互に政権を担うようになったわけである。

その当時の新民党はバラバラになり、その残部は、振るわなかった新たな山県系の勢力や、他の無所属議員と合流し、上で述べた、かつての中立会派に近い会派となった。大正期が終わるころには、その新たな中立会派も、新民党に近いポジションを担った立憲国民党残留派→革新倶楽部も、多くが立憲政友会と合流したことで小さくなり、昭和期に入ると、第3会派以下がわずかな状態となった。それらは共に会派を組んだ。その他の議員による会派であった中立会派の幅が、社会主義者(分裂後の労働農民党系がそうだと言える)を含むほどに広がり、衆議院で少しでも影響力を持つためだけの会派という面を大きくした。やがて、立憲民政党の分派で、かつての吏党系の流れも汲む、右翼的な政党(国民同盟)が一定の規模を持って誕生し、その後、衆議院の新たな最左派となった社会民主主義政党が伸長し始めたことで、再び4極化の傾向が見られることとなった。

近代的な議会を持っていた国々では、第1、2党が出そろった後では、総選挙における無所属の当選者は、日本の場合よりはるかに少なかった。たとえ政党員でなくとも、~派などの名称で呼ばれるような、一定の主張を持った、あるいは立場の明確な勢力の当選者であることがほとんどであった。日本では、政党員ではない当選者の場合、薩長閥に否定的な態度をとっていた候補者が、当選すると好意的になったとして、有権者の反発を招くケースがあった(註1)ように、立場が明確でなかった(総選挙の時には無所属であったというのがポイントだ)。

無所属議員が多かったことが日本の特色だとはいっても、議会開設当初に無所属が多いというのは、全く珍しいことではない。日本が特殊であったのはあくまでも、主要政党が結成された後も、長く無所属議員が多かった点においてである。1917年6月14日付の東京朝日新聞が、当時の他国の無所属議員の、少なさと、日本のそれとの差異を、次の通り指摘している。

無所属議員は英國も最近一人ある、獨逸にも六人ある、佛國二十三人、西班牙には九人ある。(米、奧、白、和、瑞の諸國には一人も無い)、併しながら西洋の無所属とはインデペンデントである、獨自の立場を有する議員の謂ひである。夫れ故に佛國ではブリアンやデユブエイの如き独立不覊の大人物が無所属に居り、匈牙利でもアンドラシーは暫く無所属に寓して居つた。

然れども日本の無所属議員の多數は、インデペンデントでは無い。政黨の外に、幾多の理由の分からない政治力や政治團のある日本に於ては、政黨に無關係なりと雖、之をインデペンデントと言ふことは出來ぬ、彼等の多數はデペンデントである政府の從屬者である。卽ち西洋の無所屬とは雲泥の相違である。之を漫然としてインデペンデントと言ふは何となく可笑しい

まだ全て確認したわけではないが、複数の、議会に一定の議席を持つ政党が誕生した後、議会における無所属の当選者は、欧米では皆無であると言えるだろう(一時的に少し多めであるということすら、あまりなかったと言えそうだ)。政党がなかなか定着しなかったフランスだけは、上で引用した記事の通り別だが、無所属議員も理念によって色分けが可能で、理念が近い議員ごとのまとまりが早期に形成され、時間はかかったものの、現代の諸政党へと流れはつながっている(王党派のように没落した勢力もあるが)。なお、イタリアでは第1、2党が政党化される前、しかしその前身が議会で安定的に存在していた時期に、無所属の当選者が比較的多かった。

無所属の当選者が欧米で皆無であったのなら、当然、無所属議員が形成する院内会派というものも、日本独特のものであったということになる。

そもそも政党は、議員同士の緩やかなグループから誕生した(議員政党)。19世紀後半以降に成立した国家では、他国ですでに政党が存在していた状況下、議会開設前から政党、またはその原型が準備されていた例もある。ただしそれらも、建国以前の領邦や、植民地時代の議会で生まれている。いずれにせよ政党化は、全議会的に進むことが多い。最初に明確に政党と呼べるものが結成されれば、これと対立関係にある勢力も、政党を結成するからである。例えば自由主義政党ができると、政党に否定的であった保守派が、対抗して政党を結成するというパターンがある。

日本の場合は、約10年後の議会開設が決まると、民党(自由党、立憲改進党)と薩長閥政府支持政党(立憲帝政党)がほぼ同時に誕生した(議会がなかったから議員政党とは呼びにくいが、それと似た面はあり、幹部政党とはし得る。また、ほぼ同時とは言っても、自由派が先である)。それらは早期に、解散するか活動休止状態となった(その経緯については『キーワードで考える日本政党史』序章⑥、⑦参照)。民党(野党)は第1回総選挙の前後に復活しているが、薩長閥政府党は結成されなかった。吏党と呼ばれる政府寄りの会派が結成されはしたが、その姿勢は、特に第1回総選挙後は明確でなかった。その第1回総選挙から2年近くが経った1892年5月に、吏党系の多数派が、上述した通り国民協会という、事実上の政府支持政党を結成した(正確には、その全体的な政党化は1903年12月である)。民党よりもこちらの方が、より議員政党的であった。民党では組織化が進んだからだ(どちらも幹部専制であり、吏党系は党外の山県系の影響下に入ったが)。

議会開設後の日本における、保守政党の誕生、つまり会派であった吏党の政党化は、他国と比べて、自由派の政党化より特に遅いということはない。問題はやはり、これがすぐに薩長閥政府の野党となり(薩長閥の伊藤系が自由党と組む前のことである)、また議席を大きく減らして、小政党ともし得るものとなったことである(より正確には、姿勢を明確にして政党となった直後に小党に転落したため、そもそも大勢力であったことがなかったとも、言えること)。その背景には、薩長閥が政党を無視する姿勢をとり、そのため、薩長閥政府支持派だけを肯定するわけにもいかなかったことがある。また、薩長閥の要人たちが所属して率いる勢力ではなく、しかし当然彼らを支持すべき勢力であったことから、軽視されたこともある。選挙干渉で利を得たこと、対外強硬派の色を強めたことで、薩長閥の中心人物の一人であったであった伊藤博文らからは、一時敵視すらされた。

議院内閣制であった国々ではもちろん、日本と同じく、近代的な議会を持ちながら議院内閣制ではなかった国々においても、このような例はあまり見当たらない。「あまり」としたのは、早期に自由派に取って代わられ、小党になったという例もあるからだ。しかしそのような場合でも、大勢力となった自由主義政党のライバルの地位には、一定期間はあり続けたといる。だから、君主を当然支持する保守派に、自由派を加えた多数派形成がなされるということも、基本的にはなかった(ドイツ帝国ではあったが、同国では保守派は2つあり、また小党にまでは転落していない―帝国党は1912年の総選挙で397中14議席にまで減ったが、少なくとも合計では―)。保守主義政党と自由主義政党の一方、あるいは双方の低迷は、基本的には社会民主主義政党などの、自由派よりも左の勢力の台頭によるものであった。そう考えると、衆議院において保守派が弱く、早期に消滅した日本では、自由派が保守派の役割も担ったのだろう。それを完全な形にしたのが自民党の結成だと見ることもできる。

ところで、「政党」、「会派」と呼び分けなければならないのも、日本の特徴である。会派とは、普通は個々の政党、少なくともある程度の共通性のある党派が、議会で形成するものである(複数の政党などによるものを統一会派と呼ぶ)。しかし日本には、そうではない会派が多く存在していた。理念や政策に関する合意がなく、実業派などを自認していたり、そう呼ばれることはあっても、共通点すらあまり明確でなく、選挙を協力して戦うこともほとんどない議員達による会派が、戦前はほぼ常に存在していた。それも、一定規模の勢力として存在し、時にキャスティングボートボートを握った(議席数だけ見れば、「しばしば握っていた」ともし得る)。

無所属の当選者が中心の会派に、ずっと全く政策がなかったわけではない。公定地価、税制、それらの問題と直結する財政規模、または外交に関する主張などが見られることがあった。公定地価と税制に関する主張は、税負担の公正化、平等化に関する主張であったが、自らの選挙区、あるいは支持層を有利にしようとするという面も大きかった。この点でも、公定地価の修正を目指す議員達の会派は、より多くの人々の利害を調整しなければならない大政党とは、性格が異なっていたのだと言える。

問題はそのような、いわば主張する会派が、短期間で消えたということだ。それは、総選挙を有利に戦うための組織化に否定的で、政策の背景にあるべき、理念に乏しかったからだと考えられる(日本が当初採っていた小選挙区中心の選挙制度は、人で選ぶ風潮が強かった当時、決して不利なものではなかった)。理念があれば、個々の法案に関して、満足し得る成果があっても、またはないままに機会が去っても、その勢力は存続できるはずである(より有利な立場になるよう、まとまって大政党に合流するということもあり得るが、現実にはそれもなされなかった)。

次に、政党、会派の離脱者(新民党)について述べたい。近代的な議会を持っていた国々でも、政党の分裂は見られる。しかしそれは基本的には、状況の変化に伴って大きくなった、理念や政策の違いをめぐるものであった。日本の場合はそうであったとは言い難い。他国のケースについて筆者が勉強不足なのかも知れないが、日本の場合、単なる主導権争いという面が大きすぎるように思われるのだ(註2)。後述する通り、当時の日本に選択肢が多くなかったこともあるが、それだけではないだろう。

新民党はかつての民党の理念、政策を受け継いでいた。しかし、政党の所属となることを望まない無所属議員を受け入れたこと(新民党の場合は、立場上あいまいにしておきたいというよりも、縛られたくないという議員が比較的多かったと想像される)、それでもなお、勢力がそう大きくはならなかったことから、独自の政党の結成には至らなかった。そしてもう一つ、衆議院の優位政党であることが多かった立憲政友会(自由党系)の離党者には、古巣への復党の誘惑もあった。立憲政友会中心の内閣の成立、維持、再現によって、とりあえず議院内閣制へ道を拓くという大義を、彼らは掲げることができた。

中立派の中の実業派、大政党の離党者には政党化を志向する議員もいたが、それぞれ数が圧倒的に足りず(商工業を主な支持基盤とする議員も、大政党の離党者も、全員集めても多くはなく、そのさらに一部というのでは話にならなかった)、意欲ある少数者だけでの政党化は、メリットに乏しいことから見送られたのだと考えられる。早期に政党化されていた吏党系でさえ、中立実業派などと合流するため、政党であることを放棄した(大同倶楽部の結成。ただし合流後も、一部地域では政党を名乗っていたようだ)。

全体では、しばしば(無所属を合わせれば、第1、2党が対等になるまでは多くの場合)、第2党に匹敵する議席数であった第3会派以下(第3党以下)であったが、存在意義には乏しかったように見える。特に、無所属議員の会派(中立派)、政党と会派の離脱者による会派(新民党等)は、雲散霧消したとも言えるが、それらは無意味であったのだろうか(中立派の流れは、吏党系と合流したことで途絶えた。その過程では、立憲政友会-自由党系-に移る議員も少なくなかった)。

離脱者による会派(新民党)は、多くが改進党系と合流した(①立憲国民党の結成、②立憲同志会の結成―立憲国民党の約半数、吏党系と合流―、③憲政会の結成―立憲同志会と合流―。離脱者による勢力としたが、立憲政友会の離党者が含まれていない場合もある)。ただし新民党の残部は存続し、前述の通り、新たな中立派(無所属議員による会派ともし得る)となり、自由党系に合流(革新倶楽部と共に立憲政友会に合流)、その合流にも参加しなかった勢力は消滅した。その約18年前の、立憲改進党等による進歩党の結成も、対外強硬派でなかった時期もある立憲改進党が、離脱者による新党(立憲革新党)、対外強硬派でもあった中立会派と合流したものであった(対外強硬派の結集であった)。

恒常的に優位にある(と見られる)政党に、第3会派以下の議員が移ろうとするのであれば、それは不思議なことではない。より安易な道であるからだ。反対に、展望を開くことが難しい非優位の第2党に、第3会派以下の勢力が合わさることは、そうではなく、少なからず意味がある。優位政党に入れなかっただけだという場合もあろうが、それでも、非優位政党の議席数を増やしたのだから、無意味ではなかったと言える。

進歩党~立憲国民党は、その合流に起因する分裂を起こしてしまったが(三四倶楽部の結成、立憲同志会の結成。ただし分裂自体は、従来の民党的主張を維持するか、これを転換して薩長閥に接近するかという、2つの選択肢をめぐるものでもあった。立憲同志会→憲政会は、合流に起因する内部対立、再編構想(改進党系の再統一が中心)をめぐる小さな分裂は経験しつつも、非優位政党としての野党暮らしに耐えて、自由党系(立憲政友会)が真っ二つに分裂したためではあるが、政権を得た。野党暮らしも約8年とそう長くはなく(とは言え野党暮らしを脱する見通しは全く立っていなかったと言える)、優位政党の自爆に助けられたのだから、自力で勝利したと言えるようなものではないし、党首の加藤高明の資金力が、分裂回避の要因だとされる。しかし、政権獲得まで大きな分裂を回避することができたことは、自由党系のように何が何でも政権入り、政権獲得を実現させようとはしなかったこと、そして消極財政志向で、かなり一致することができていたことにもよると、筆者は考える。立憲同志会→憲政会の構成要素を見ると、改進党系の改革派と呼ばれた勢力、中立実業派の流れを吸収した吏党系、そして新民党の少なくない一部である。この中で、改進党系の改革派は、自由党系の真似をしようとしていた勢力であり、立憲同志会系のカラーは、同派や吏党系よりはむしろ、新民党に近い(緊縮財政志向も共通するが、立憲同志会系の場合は、これがやがて税負担の軽減ではなく、国民を苦しめる結果を招いてしまった)。立憲同志会に参加した官僚出身者のカラーが、立憲同志会系のカラーになったという面は大きい。彼らは薩長閥の関係者としてではなく、国家試験に合格して官僚となっていた者達であった。彼らは立憲同志会、そして同党が与党である時の政府の要職に就いたし、それは間違いのないことだ。しかし彼らの上にあり、党首になった加藤高明は、新民党に属していたことが、ごく短期間だがあった(第8回総選挙後に結成された同志研究会)。これは、2大政党の双方と近く、双方の連携を目指していたため、その一方に属すことはできないという立場であったからだと見られるが、それこそ、新民党の姿勢であった。2大政党が対立関係となった後、改進党系と合流したという点も、共通している。

まとめると、日本の第3党以下の勢力は、1党優位の傾向が強い日本において、戦前、対等な2大政党による、政権交代のある政治の実現に、一定の役割を果たしていたと考えられるのだ。

さて、ここから、日本の第3極がどのように、あるいはどれほど特殊であったのか、改めて、第2次世界大戦前の、民選の議会を持っていた国々と比較したい。2大政党制に近く、日本の有力政治家に少なからずファンを持っていたイギリス、日本が制度を模倣したプロイセンを中心としたドイツに、特に関心を持ってしまうが、なるべく偏らないように比較しなければならない。しかし筆者の限界から、議会政治の経験が比較的豊富な、欧米の主要な国々に、とりあえずしぼらざるを得ない(東欧は除き、オーストラリア、ニュージーランドを加える。以下それらを欧米の国々と呼ぶ)。その中でも、日本と同じように2大政党制の(に近い)時期があった国々を、とりあえず対象としたい。第3極だけを比較しても見えないことはたくさんあるから、全体的に見る。

以下の、比較対象とする国々の中に、イギリスからの完全な独立を果たしていなかった時代を含む、かつての同国の植民地等を含めたが、正式に独立していない時期についても、高度な自治権を得ていたことなどから、一つの国家として扱っても問題はないと考える。比較対象にはむしろ、そのような、イギリスに属していた国々が圧倒的に多い(スペイン、ポルトガル、デンマーク、イタリアがそうではないが、これらの国々は一時的に2大政党制に近くなっただけで、政党の数はむしろ多い。それでもおおまかには左右の2ブロックに分かれる傾向はある。

それでは挙げていく。詳しくはそれぞれのページにあるが、読んでいただかなくても、問題のないように、話を進める。

イギリス

アイルランド

スペイン

ポルトガル

デンマーク

カナダ

オーストラリア

ニュージーランド

イタリア

アメリカは大統領制であったから、日本との比較はより困難であるが、あえて比較してみたい。アメリカの保守派は、建国前に消滅した、イギリスからの独立に反対であった勢力だと言える。だから建国後は、これまでに挙げた国々のような、保守派と自由派による対立は見られない。しかし、それに似た面がなかったわけではないし、最も2大政党制の色が強い国であるからだ。

アメリカ

スペイン、ポルトガル、そしてこの両国とは大きく異なる歴史を歩んでいたデンマークでは、保守系(政党)が王政やその方針を基本的には擁護し、自由主義政党がこれに挑戦するも、その勝利(自らが中心となる内閣の成立)の後、一定の改革で満足する右派と、さらなる改革を求める左派に分化するという傾向が明確に存在した(原因は異なるが、イギリスの自由党も大きく分裂し、社民系の労働党の躍進を助けた)。そして、現状に全く満足しない共和主義勢力か、社会(民主)主義勢力、またはその双方が勢力を強めた。つまり現状維持(一定の改革にとどめる)か、さらなる徹底的な民主化か、どのような政治体制にするのかということが、対立軸となった。

デンマークでは、穏健な社会民主主義政党だけが躍進したが、スペインとポルトガルでは、共和派が勢力を拡大し、立憲君主制と共和制の双方が試された。この両国の立憲君主政においては、2大政党の選挙に関する談合すら伴う協力がなされ、政権交代が定着してはいても、その外側の左右の勢力の反発を招き、その台頭や、クーデターを招いた。そしてこの最も左の勢力と最も右の勢力は、互いに絶対に相容れないため、国内がより不安定になるのであった。こうして結局、国の政治体制を巡る問題が安定的な解決を見ず、共和政→クーデター(スペインでは内戦に)→独裁という道をたどった(独裁は両国とも1970年代半ばまで続いた。建国以来、政党―当初は政党へと歩む勢力-が政権を担っていたイタリアも、保守派ともし得る自由主義右派と、自由派の自由主義左派、そして新たに台頭したカトリック系の、さらに左右の外側に位置する勢力の台頭、暴力を含む強硬姿勢に悩まされ、ファシスト党の独裁政権となった。これは第2次世界大戦中に倒れた)。ここで挙げた3ヵ国には、日本との小さな共通点と大きな差異が見られる。

共通点はもちろん、自由派がまず、政権参加を求めなければならなかったことだ。それは、それまでと比べれば民主化するということであり、小さな共通点としたが、あたり前の共通点と言うべきものだ。

ただし日本では、自由主義勢力が当初から分立しており、自由主義急進派が自由党を、自由主義穏健派が立憲改進党を結成した。一方で、時の政府を擁護する議員達を含む会派も形成された(吏党)。上述の通りこれを保守派とし得るのだが、当時の日本の本当の保守派は、開国や西洋の模倣に否定的な勢力であったとも言える、薩長閥政府は非民主的な存在ではあったが、古い幕藩体制を終わらせ、先々の民主化を視野に入れる、改革派でもあった。上で見た3ヵ国の保守派にも、漸進主義は見られないわけではない。しかし、もともとの立場が異なっていたのだと言える(強いて言うなら、ドイツでビスマルクを支持して保守党を離れた、自由保守党→帝国党が吏党系と近い立ち位置だが、他の面で違いは大きいし、ドイツは今は比較対象ではない)。

保守派の牙城が上院であったことは当然ながら共通するが、欧米の国々では、下院の選挙を通して、保守派が議席を減らしていった。それに対して日本では、上院では下院の保守派(薩長閥政府支持派)は存在しなかった(薩長閥の姿勢に準じて、上院の薩長閥支持派が、党派間の対立がある下院と一線を画すなどしたため)。下院では当初から、保守派は弱い勢力でしかなかった。このため下院(衆議院)、その議員達を選ぶ選挙での対立は、早期に、自由党系と改進党系という、自由主義政党同士が繰り広げるものとなった(イタリアでも自由主義勢力の右派と左派が2大勢力であったが、右派は当初政権を担当し続け、体制側の保守派は存在しなかったと言えるため、自由主義右派=保守派ともし得る。少なくとも吏党系が存在していた当時の日本とは異なる)。少数に転落した、保守派(薩長閥政府支持派であった吏党系)は、双方と一線を画すのでも、いずれか一方のブロックに終始名を連ねるのでもなく、しばしば両勢力の間を漂った。その背景には薩長閥が、2大民党のどちらか(特に自由党系)の協力を得なければならなかったということはあるのだが、吏党系は保守政権(薩長閥政府)の野党になることすらあった。すでに述べたことの繰り返しとなったが、これから見ていくものと同様に、重要な差異である。

薩長閥に接近した民党、または民党の離党者は、デンマークにおける、国王寄りの保守主義政党に接近した、自由主義政党(の分派)に当たるのかも知れない。だが日本では、どちらも自由派であった2大政党(2大民党)の双方ともが、薩長閥に接近することがあった(特に自由党系だが)。薩長閥政府寄りであった、自由主義政党離党者は、まとまって薩長閥政府側の勢力との再編に進むことも、存在して保守ブロックの一角を担うこともなかった。明治末期にようやく、吏党系と、自由主義政党離党者(基本的には立憲政友会-自由党系-の離党者)のやや本格的な再編(大同倶楽部の結成)が見られたが、それでもそのような離党者による勢力がまとまりを維持したまま動いたわけではなく、それらの間、内部の対立すらあり、結局自由党系に復党する議員が少なくなかった。また、再編後の勢力が第1党、第2党になることはなかった。理念、政策よりも政局中心の、比較的小さな、よって影響も小さい動きであったと言える。また、保守的であるはずの、その再編された勢力は、2大政党のうち、より進歩的であった方(立憲同志会→憲政会→立憲民政党)の、一部となるのである。やはり分かりにくく、展開が特殊である。

以上は、大きく見た場合の共通点の中にある、差異であった。だから当然、スペインやデンマークと日本の、より大きな差異がある。これらの差異にどのような意味があるのかについては、その大きな差異を確認した上で考えたい。

19世紀、近代的な議会を持ちながら、議院内閣制ではなかった立憲君主制の国々では、王政に対する立場の違いが、保守主義政党と自由主義政党の違いとなった。イギリスも、そもそもはそうであった。日本がそれらの国々と異なるのは、天皇に権限はあっても、それが行使されることが基本的にはなく、吏党系、自由党系、改進党系に、君主の権限に関する違いがなかったと言えることだ。大日本帝国憲法下の政治体制の、他の要素についての相違も、なかったに等しい。あくまでも、天皇の信頼を背景に行政の中心を担うポジション、つまり政権を、どの勢力が得るべきなのかという差異であり(吏党系は薩長閥がそうだという立場)、各勢力間の争いは、単なる権力の争奪戦であったという面がやはり大きい。民党だけでなく侍補(天皇の補佐役)のグループが、有司専制批判(薩長閥が独裁をしているという批判)をしたことも、それを示している。

立法府の改革は幾度も試みられ、政党を無視する衆議院(下院)内のルールが改められ、選挙権も拡大されていった。衆議院の影響力を抑える機能を持っていた貴族院(上院)、枢密院(天皇の諮問機関)の改革を政党やその要人が目指したり、主張したりしたこともあった。軍部大臣現役武官制が廃止されたこともあった。しかし政党内閣が珍しいものでなくなっても、多元的な(建前上は天皇に権限が集中していても、その下の諸機関が実際には権限を行使する、分権的な)体制が本格的に改められようとしたことはなかった。これは確かに、政党、衆議院の力だけでは、なかなかできないことではあった。しかしどうであれ、まともに争点とならなかったことは確かだ。

そもそも2大政党(自由主義政党であった2大民党)の成立を明治政府(薩長土肥による藩閥政府)の中心部の分裂によって説明することができるのだから、これは無理もないことである。分裂のきっかけは、土佐出身の板垣ら(→自由党系)の離脱の時は、征韓論の是非、肥前出身の大隈ら(→改進党系)の時は、議院内閣制の是非であった。後者については政治体制も関係はあるのだが、実際にはどちらも、明治政府(藩閥政府)内の主導権争いに起因していた。政権上層部の内紛によって、上から、自由主義政党ができたのである。

政治参加を求める声が下から起こるという形になるには、産業の発展などがまだまだ不十分であったのだと言える。政府を離れた勢力を下から支えたのは、地租軽減を求める地主層であった。しかし実際には、地租は駆け引きの道具であり、党勢の維持、拡大と彼らの面子こそが重要であった。2大民党(2大政党)は特に、もう一方の民党等に勝つために、選挙を管轄する内務大臣のポストを求めたが、これは自由党系と改進党系の協力よりも、その一方と薩長閥の協力の方が、時に容易であることを示す(そのかわり薩長閥は2大民党がどちらも過半数を下回っている場合にも、その双方を共に味方につけることはできなかったし、本来の志向については、やはり薩長閥と民党の溝は民党観よりも大きかった)。

議会の設立は確かに、政府離脱者を中心とする勢力の要求によって、より早く実現したと言える。これは政治制度の大改革であるが、そこで止まったという面が大きい。スペインとポルトガルのように、君主制を否定する勢力が台頭する状況ではなかった。それだけ不満が小さかったという面もあるのだが、そのような政党は存在することも許されなかったし、政治体制の変革までは求めないような社会民主主義政党ですら、産業構造上、台頭する状況になかった。

議院内閣制に進むことについては、大まかに言えば、吏党系が否定的、民党系は肯定的であり、その点で2大政党、つまり2大民党の間に差異はなかった(そもそも、自由党系を急進派、改進党系を穏健派とすることも、一時期を除いては、本当はできない)。しかし、吏党系が議院内閣制に批判的であったのは、超然主義(いずれの政党にも偏らない、あるいは政党無視)を採った薩長閥を支える立場であったからであり、実際には政権の中心に近づこうとする欲求がなかったとは言い難い。事実、吏党系の国民協会には与党となることを望む議員達もいたし(『キーワードで考える日本政党史』第2章第4章(準)与党の不振参照)、その分裂後、超然主義を支持していたはずの残部も、結局は改進党系の約半数などとの合流を経て、何度も政権を得う立憲同志会系の一部となった。薩長閥は自らの支持派を作り直さざるをえなかったのだが、その新しい支持派に、立憲同志会中心の政権への協力をさせた。この立憲同志会中心の政権とは、薩長閥が大隈重信に政権を任せたものであったが、双方が決裂した後、薩長閥支持派(正確には大浦兼武が指導した、山県系に連なる勢力)は、まともに存続することができなかった(無所属団→公友倶楽部、その後継という面のある維新会→新政会)。第2次大隈内閣総辞職後にも、何度か非政党内閣が出現したが、事実上の議院内閣制への歩み(政党内閣が基本であることの慣例化)は、政党内閣の時代に幕が下りた五・一五事件まで、続いたのである。この間薩長閥が、融解していったとはいえ、政党内閣を本気で阻止したことはない。それどころか長州閥の田中義一は、立憲政友会の党首となって、総理大臣となった。

欧米では、政治体制をどの程度民主的なものにするかということについて、保守、自由、後に社民という3つの大勢力が誕生し、保守対社民という構図に落ち着いた。自由を求める自由主義政党の次に、平等を求める社会民主主義政党が躍進した。王や貴族優位の政治、次に、商工業者などの豊かな層が自由にふるまえる政治、そして最後に、多数派であった豊かでない人々の代表の、政権獲得→政策実現を目指す勢力が、台頭したということである。保守対社民の構図になっても、安定しなかったのがスペインとポルトガル、そしてイタリアであった。この3カ国では、議会政治を成り立たせるための左右の最低限の一致の失敗が、独裁政治をもたらしたのであった(特にスペインとポルトガルでは独裁が長引いた。両国では王党派の他に、カトリック教会派も最右翼に位置した。戦前は終始同一王朝の立憲君主制であり、ローマ教皇の領地を議会の右派を基盤とする政府が奪う形となったイタリアと違い、スペインとポルトガルでは、王党派とカトリックが右翼連合を形成しやすかった。王党派、教権派と、宗教、国王に否定的であることが多い共和派、社会主義者とは、相容れないものとなりやすい)。

デンマークでは自由派において、保守派に寄ろうとする勢力、より左の勢力に寄ろうとする勢力が出てきた。スペインとポルトガルでは、自由派が穏健派と急進派に分裂した。このような自由派の分裂により、デンマークでは保守派・自由派と、社民派・急進派(自由派の離党者)という、4つの政党による左右の陣営ができた。議院内閣制のトップランナーであったイギリスは、自由党の没落により、保守党対自由党から、保守党対労働党(社民系)という、2大政党制になっていったが、デンマークの変化は、多党制へと進む場合の、イギリスでの変化に当たるものだと言える。

欧米では、保守派と自由派の対立を、一度は自由派が制したが、日本では、それらの対立がもちろん存在はしたものの、保守派(薩長閥)がはじめから、選挙を含めて下院における戦いを放棄していたため、選挙は例外もあるものの、自由派同士の対立が中心であった。さらに、自由派が勝ったとは言えず、保守派をじりじりと土俵際に追いつめたような面はあるものの、それは明確な勝利とは言えない、きわどいものであった。いや、議院内閣制に完全に移行できなかったことを考えれば、敗北であったとすらし得る。自由派中心の政権は、保守派(薩長閥のトップであった元老)にしぶしぶとはいえ、許されて誕生したものであり、五・一五事件によって幕が下ろされたのである。事件の当時まで、元老が事実上総理大臣を決める形は変わっていなかったため、元老が官僚や軍人を総理大臣にすれば、それで終わりであった。五・一五事件で犬養総理が殺害された後、政党人、衆議院議員を総理大臣にしなくなったのは、西園寺公望であった、西園寺は自由党系の元党首とは言え、自由党系と伊藤系が結成した立憲政友会からの参加者であった。元老となると政党内閣を認め、継続させたのであったが、その路線を放棄したのである。政党に失望していた国民も、それに反発しなかった(反発したとしても、2大政党は2大政党としてしばらく残ったから、選挙では主にそれらに、引き続き票を投じることくらいしか、なかなかできなかった)。薩長閥そのものは融解していても、一部は前述の通り、2大民党のそれぞれと合流していたし、官僚、軍部は薩長閥の流れを汲む勢力であったと言える。

自由派より左の勢力は弾圧されたものの、穏健な社民派は存在を許されるようになった。しかし広く認知され、台頭するような段階にはまだなく、それらの基盤となる労働組合も弾圧の対象であった。保守派と自由派の妥協の産物以上の、民主化の要求は、まともに起こらなかった、起こりにくかったのである。最大の対立軸が封じ込められていたわけである。

このような点で日本と異なる(あるいは弾圧される対象であっても左翼が勃興する)、比較対象としている国々において、第3党以下は何であったかといえば、次の通りである。他に保守主義政党、自由主義政党、社会民主主義政党のいずれかのうち、長期的に第3党以下であった(になった)ものも当然あるが、これについては番外とする。

①政治体制の変更を求める、第1、2党の外側の勢力のうち、右翼的なもの

②同様の、左翼的なもの

③保守派と社民派の間の、遠心力を受ける自由派の分派、また分派ではない、急進派

④利益集団に近い、第1、2党がうまくすくえない、特定の少数の人々を代弁する勢力

⑤特定の地域の自治、独立、あるいは反対にその阻止を目指す勢力

 

単なる権力争いが中心で、議会では自由主義政党2つがライバル関係であり、他の勢力を大きく引き離していた日本では、これらが存在したであろうか。まず②は許されず、①は、②ほど戦前の体制に反するものではなく、弾圧を受けにくかったが、開国、西洋の模倣に否定的な勢力は、その主張があまりに非現実的であり、そのことも含めて多くの人々の死活問題とは言えなくなっていたことから、事実上存在し得なかった。対外強硬派には下の3つのタイプがあり、一時的に勢いを強めることはあっても、しっかりとまとまることはなかった。だから明治、大正期の国権派、対外強硬派が、独自に強い勢力となることはなかった。

対外硬派の3つのタイプとは、次の通りである。

A 薩長閥を支持する吏党系

B 中立的な対外強硬派

C 薩長閥と対立する進歩的な勢力

 

AとCは、基本的には相容れなかった。Aについては、第3党以下に転落した保守派と見るべきである。これは立憲同志会の結成に参加し、その立憲同志会の系譜は対外強硬派ではなくなった。

③は存在した。これは対外強硬派Cと重複する。自由主義政党が薩長閥政府に寄った時、それに反対する議員達が離党して結成した政党、会派であった。筆者が新民党と呼ぶそれらは、急進派とし得る勢力であった。だが、実際にはそうでない議員がいたり、不明瞭な面もあった。反対に、薩長閥政府に寄ろうとして離党した議員達も会派を結成したが、すぐに消滅した。新民党はそれよりはよくまとまっていた。ともかく新民党については、改進党系と合流することで、それが自由党系の左に留まるために、一定の役割を担ったというのが、筆者の見方である(註3)。

④については、一時的に会派として存在するなどしたと言うことはできるが、しっかりとした勢力にはならず、なによりごく短期で消滅した(地価修正派や実業派がそうである)。

⑤は日本ではあり得なかった(例えば韓国を併合した後、そこに政治的な自由を認めれば、躍進していたかも知れないが)。

保守派、自由派、社民派という3大勢力を見ると、保守派であった吏党系(対外強硬派Aでもある)は、比較的長く一定の議席を得ていた。社民派は昭和期に入って、少しずつ議席を伸ばしたが、政党政治が終わった後、ようやく弱小政党の域だけは脱したといったところである。

上に挙げた、比較対象とする国々では、ポルトガル、今でも社会民主主義政党が第3党以下であるアメリカ、カナダ、アイルランドを除き、社会民主主義政党が第1次世界大戦後、早ければ第1次世界大戦前に大政党となっている。

だが日本では、社会民主主義政党が大政党になったは第2次世界大戦後だと言える(それでも第1党にはなっていない―例外は2009年の民主党―。戦前は衆議院の定数は466であったが、2ケタになったのは第18、19回総選挙で、それぞれ18、36議席、その後分裂して議席は減少)。その理由を大雑把に言うなら、産業構造や弾圧など、日本の後進性だ。他の立憲君主制の国々とは違うのである(アメリカ、アイルランドは立憲君主制ではなかった。カナダは立憲君主制とされるが、国王がイギリスのそれであり、イギリスから自治権を得て、独立するという道を歩んだのであり、通常の立憲君主制とは異なる)。なお、比較対象としていない欧米の国々を見れば、ドイツやフランスなど、多くの国々で社会民主主義政党が第1次世界大戦前に大政党になっている。

アメリカ、カナダ、アイルランドでは、社会民主主義政党は今でも、第3党以下である(カナダとアイルランドでは戦後一定規模になり、カナダでは一時第2党にまでなった。第1、2党が長く固定されていたアイルランドでは、第2党と度々連立政権をつくっている)。これらの国々では、特定の重要な対立軸を受けて2大政党制となり、アメリカとカナダは第3党には厳しい小選挙区制であったことからも、労働組合にとって、左派政党を参入させることよりも、2大政党の一方と取引きをする方が合理的であった(アメリカでは実際に明確にそうなった。2大政党の力が互角に近いほど、それで失われる票はあったとしても、労働組合の票は魅力的になり得るとも言える)。また、アメリカとカナダは大陸の外からやってきた開拓者が建国し、そこに新たな移民が加わっていったことから、多くの人々は自立心が強く、熟練労働者と非熟練労働者、異なる出自の労働者の団結が、特に困難であったようだ。

①~⑤としたものの他に、時代の変化などを受けて、第1、2党のどちらかが、特定の政策について一致し得なくなり、分裂することがあった。こうして誕生した新党は、一定期間を経て、より近い政党に合流することが多かった(より近い政党と新党を結成するケースを含む)。

例を挙げると、イギリスでは、腐敗選挙区問題、政教分離、関税、アイルランドの自治、アメリカでは奴隷問題、政治腐敗である。アメリカの場合は、奴隷問題に関して2大政党が分裂の前に、ライバルが消滅した共和派が2党に分裂しており、それが時の2大政党になっていた。この分裂は、事実上の共和派1党制になる中、共和派に2人の有力な大統領候補が存在したことによるが、アメリカではそんなことは珍しくない。この分裂は同国が、貿易政策などにも関わる、集権か州権かという対立軸から逃れられなかったことと一致する。この点が重要だ。奴隷問題もこのことと強く結びついていた。

日本でもイギリスやアメリカのように、具体的な政策について、2大政党が分裂した例があるにはある。第6回総選挙後の、憲政本党離党者による議員同志倶楽部、三四倶楽部の結成、第11回総選挙後の、立憲政友会離党者による大正倶楽部(正確には未結成で、時期も第12回総選挙前と言ったほうが正確)が挙げられる(これらは、政党ではなく会派にとどまるような勢力であったが、これについてはイギリスも同様であったと言える)。

三四倶楽部は、増税に賛成した改進党系(憲政本党)を、離党した議員達が結成した。この当時にはすでに、自由党系が積極財政志向、改進党系が消極財政志向であるという、2大政党間の差異については、かなり明瞭になっていた。しかしその後、自由党系が一時的に消極財政を採らざるを得なくなったり、改進党系の内部が明確に2派に分化したため、差異は再びあいまいになることがあった。

重要なのは、積極財政志向の自由党系から、消極財政志向の三四倶楽部が分裂して、同様の改進党系の陣営に移ったのではない、ということである。もしそのような再編であったのなら、イギリスなどのように、状況の変化に応じて、政策を軸とした再編が起こったという面が大きかったのだが、日本の場合は、第2党の動揺による分裂という面が大きく、三四倶楽部は復党する者達と、中立派となる者達に分かれていった(三四倶楽部出身者が結成した同志倶楽部は、新民党的性格を残していたが、中立派とすべき交友倶楽部の結成に参加した)。しかも、「分かれていった」とは言っても、生き残った議員、そもそも生き残る意思のあった議員が少ない。政策を軸とした再編であったとは、とても評価できないのである。

議員同志倶楽部は、地租増徴・地価修正に反対の改進党系(憲政本党)から、賛成の議員達が離党して、後に結成したものである。大正倶楽部は、陸軍の二個師団増師に反対の自由党系(立憲政友会)から、賛成の議員達が脱して、結成しようとしたものである。双方に共通するのは、野党であった時に、反対の側の、内閣・(準)与党の陣営に切り崩された可能性が高いということである。そうであったのならば、政策重視の分裂であったという面は小さい。離党後の動きも、やはり雲散霧消と言えるものとなり、政策を軸とした再編が行われたとはとても言えない。

議員同志倶楽部結成のケースだが、時の第2次山県内閣は地租増徴と地価修正を、事実上一体のものとしていた。だから地価が高く、その分だけ税が高かった選挙区の議員達は、地租増徴、地価修正の法案には賛成しやすかったし、そうでない議員は、逆であった。その中で離党者は、地租増徴に対する自らの主張を前面に押し出していたわけでも、地租の平等化を求める声を上げていたわけでもない(筆者が確認できていないだけかも知れないが、そうであったとしても、その程度の議論であったと言うこともできる)。つまり政策論争なしに、その時、選挙区事情も含めて、自らに有利な選択をしただけだと考えられる。大正倶楽部のケースについては、確かに自由党系は改進党系と比べて、その当時は対外姿勢が強硬的ではなかった。しかし、陸軍の二個師団増設に対する賛否が、2大政党にとって、薩長閥との協力に関する駆け引き(自らが政権を得るための駆け引き)の中心的な題材であったことは、通説が示す通りである(玉井清『原敬と立憲政友会』第1章第2~3節)。

さて、ここまで比較してきて浮かび上がるのは、日本の政治があいまいであったということだ。天皇に権限が集中しているが、行使はされない(「君臨すれども統治せず」という形はもちろん当時すでにあったが、あえて挙げた)。元老という非公式の地位にある要人達が総理大臣を事実上決めていた。衆議員、参議院、枢密院、軍などの機関が(事実上の)拒否権を持っている状況下、それらをまとめられるのは、建国の功労者という性格を帯びていた、その元老達だけであったが、彼らにも寿命があった。政党は当時、元老を頂く薩長閥という派閥に代わって、天皇の信任を得て政権を担う地位を得ようとしたに過ぎず、そこに理念や政策の決定的な差異はなかった。薩長閥とその支持派を保守派、2大政党を自由派と見ることはできても、ライバル関係にある自由派同士の方が、自由派と保守派よりも組みにくいという面があった。薩長閥の内部でも、政党を認めるようになっていった長州閥伊藤系、政党に否定的であり続けた長州閥山県系(しかしその一部は政党を結成)、優位にある長州閥に対抗するように政党と組んだ薩摩閥というように、その内部は、大まかに見ても異なる3派に分かれていた。政党を否定した薩長閥の姿勢によって、保守派は非常にあいまいな勢力となり、下院では、薩長閥の内閣と対立関係になることすらあった、状況に翻弄される小党に過ぎなかった。

これだけのことがあっては、理念や政策が明確な政党の、存在、分立、再編は期待できるものではない。本当に唯一、政党内閣の早期実現、定着が、明確な理念だとは言えるのだが、それすら、自党が権力を握ろうとすること自体との区別があまりに不明瞭であった。そうでなければ、薩長閥(の流れを汲む非政党勢力)に政権を渡すよりは、ライバル政党に政権を渡そうとしていたはずである。そのような傾向が日本の政党にはなかったに等しい。

以上については、和を尊ぶ日本人らしいとも言える。物事が決まらないことよりも、特定の勢力が突出すること、不満を持つことを恐れ、政治勢力間の違いを際立たせず、明確な敗者をつくらないようにする傾向。勝負して敗者になるよりも、勝負を避けることを優先する傾向が確かにあった。しかし政治に対立はつきものであるから、対立が分かりにくい次元に移されただけだという面が大きい。理念や政策と、各勢力の権力争いが必要以上に混ざり合っていた。これが政治不信、軍部の暴走を招き、無責任な開戦、戦争遂行へと日本を進ませたのである(日本が全面的に悪かったとは考えないが、日本人が日本人を不幸にしたのは間違いない)。

また自由党系には、リスクのある勝負をするよりは、権力者に頼んでなんとかしようとするというところが、特にあった。彼らが権力者を利用していたとも言えなくはないが、どちらにせよ、水面下の駆け引き、取引き、あるいは勢力の離合集散という、国民の知らないところ、手の届かないところでの動きが中心であった。これもあいまいさの一つであると言える。国民がそれに明確に抵抗するということもなかった。

あいまいさについて、今は違うとも言えない。総選挙の結果によって政権が決まる議院内閣制になっても、あいまいさは残っている。対立を好まない日本人、他者に合わせる日本人は1強が好きだ。しかしその反面、その弊害も心配するから、判官びいき的に対抗勢力にも注目する。双方のあるべき姿、あるべき関係性については顧みられることが少なく。政権を選択する権利を、その責任にも向き合わないまま、国民が自ら事実上、捨ててしまっているような状態だ。

こんなことを考えると頭を抱えてしまうが、そのような状況を打ち破ろうとする政党が全く存在しなかったわけではない。日本が議院内閣制へと大きく歩みを進めようとする時代に誕生した、首相公選制を唱えていた武藤山治が結成した実業同志会という政党には、明確な理念、政策があった。同党はそれまでの実業の名を関する会派とは異なる。それらは選挙で当選した無所属の実業家らが結成した会派であったが、実業同志会は総選挙を3度戦った政党であり、党名も、国民同志会に改められた。

その理念は、一般の国民を顧みず、産業振興を阻む政官財の癒着を打破することであったとして良いだろう。政策は行政改革、緊縮財政による税負担の軽減、民間圧迫の排斥、営業税、通行税、醬酒醸造税、織物消費税等の悪税の廃止、関税の減廃、留保所得課税制度の改正、勤労所得金額の最低限度引き上げによる、所得税の負担軽減、会計検査制度の改正、公共事業の適切な延期、大蔵省預金部の資金運用方針を決定する機関の設置、文官任用例改正による幅広い登用、対外経済発展に重きを置いた外交、鉄道の国有・民営(所有と経営の分離)、軍縮貨幣改鋳益金全部の社会事業への使用、負傷兵、遺族の優遇、病人、衰弱高齢者の救済、教育の充実であった。後に結成された自由主義の明政会同様、改進党系に近いように見える。問題は、改進党系がその本来の役割を果たさず、薩長閥による関係者優遇のばらまき政治が、早々に変化した自由党系のみならず、改進党系にも見られたことであろう。

しかし実業同志会→国民同志会の議席数は、第3党の地位を固めるにはあまりに少なかった(結成後初の第15回総選挙で最大の8議席、第16回総選挙で4議席-戦後の社会党右派に当たる社会民衆党と同率の第3党-、第17回総選挙で6議席-単独で第3党-)。()内に示した通り、2大政党化が進んで第3党の地位を得たし、キャスティングボートを他の第3党以下と共に握ったことはあったが、それでもやはり、その議席数は少なすぎた。

実業同志会→国民同志会が議席を持っていた時代というのは政党内閣期と重なっており、2大政党に問題が残るとしても、まずは政党内閣、政権交代の定着が重要な時期であった。そこで小党が、地盤もしっかりした2大政党を脅かすだけの存在意義をもつことは難しかった。他の時期ならより有利であったとも言えないものの、強いて言えば、2大政党が失望され、かつ軍部が台頭するようなことがなければ、活躍の機会を得たかもしれない。

結局同党は、社会主義者をも含む、小党派の統一会派に参加し、その後立憲政友会に接近した。

実業同志会→国民同志会が存在した時代は、第1、2党が、日本ではめずらしく対等に近かった(前述したとおり、優位政党の分裂あってのことだが)。1党優位の状況下で実業同志会のような政党が誕生しても、第2党と、非優位政党票を分け合い、優位政党を助けるだけになってしまう。現在の第3極がなさにそうである。

日本の2大政党(自由主義の2大民党)には長く、安定的な差異がなかったわけだが、その歩みも、縦断的再編に進んだという重要な点で似ていた。確かに、メジャーなイメージである、積極財政志向で対外強硬姿勢の立憲政友会と、消極財政志向で平和外交路線の憲政会→立憲民政党という差異は、時間の経過と共にはっきりしてきた(外交に関しては、議会開設前後に続く、2回目の、立場の入れ替わりがあった)。日本の2大政党は、他の2大政党制の国家のそれに近づいたのである。

それまで優位政党であった、自由党系の立憲政友会は、権力志向が強かったがゆえに、そして何度も政権を担う政党であったがゆえに、保守的な面が比較的大きかった。それに不利な立場から対抗した、改進党系の憲政本党→立憲国民党→立憲同志会→憲政会(と立憲国民党残留派→革新倶楽部)は、それよりは左に寄っていた。

議院内閣制であったイギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの保守主義政党はおおむね、自由主義的な政治体制の中で、従来の価値観をより重視する勢力であった(イタリアの史的右派にもそれに似たところがあった)。これらの国々では、2大政党間の対立は、より個別具体的な政策に関するものを中心としていた。自由党系(立憲政友会)と改進党系(立憲民政党)による政権交代のあった時期の日本はむしろ、どちらかといえばこちらに近かったのだろうか。

これについても、そうだとは言い難い。これらの国々の、保守主義政党と自由主義政党という2大政党、そしてアメリカの2大政党の間の、相違、争点となったのは、宗教に関する問題、または、植民地等の従属的な地域に関する問題、貿易政策、他のどの国との関係をより深めるべきか(または深めるべきではないか)、そして、集権か分権かということであった。上には記さなかったが、選挙権の拡大や文化的なことが、当然ながら保守的な保守主義政党と、比較的進歩的な自由主義政党の間で、争点となることも、もちろんあった。もっとも、実際にはことはそう単純ではなく、自らに有利になる場合、相手の主張を一部取り入れることもあったが、日本ではそもそも、2大政党間に元来、そのような争点がほとんどなかった。

日本では、宗教と世俗の対立、宗派間の対立が、政治的なものとなるほどではなかった。また日本は単一民族に近く、独立国を征服したり、他国の領土を奪ったりして、併合した地域に国政の参政権を与えたということがなかった。このため、独立や自治権獲得を求めるような地域政党が、衆議院に進出することもなかった。議会開設当初には、地域政党とし得るものも衆議院にあったが、日本からの独立や自治権獲得を志向するものではもちろんなかった。地域の利害というよりも、出身地域を同じくする政治家の派閥のようなものでしかなかった。それらは地域政党以外の勢力に合流したり、会派を共にし、国政において自立した状態で存続することはなかった。

2大民党系や新民党に普通選挙論者はいたが、普通選挙の是非が日本の2大政党間の争点になるのは、1920年になってからである(議会開設後30年であることを考えれば、決して遅いとは言えない。男子普通選挙がそれ以前に衆議院で可決されたことはあったが(1911年)、貴族院で可決されるはずがなかった)。普通選挙にならなければ躍進し難い、社会(民主)主義的な勢力の台頭も遅かった。これが衆議院の定数の1割を超えるのは、同院の開設からおよそ56年を経た、また、男子普通選挙制の導入から21年を経た、第2次世界大戦終戦後のことである。貿易については、後進性等から基本的には保護政策が望まれ、また不平等条約のために自由に関税を定めることができなかったことから、保護貿易と自由貿易のどちらを選択するのかということを巡る、産業間、政治勢力間の対立はあまりなかった(註4)。

中央集権体制の下での強国化が必要であった日本は、もちろん連邦制でもなく、中央集権か地方分権かが、対立軸になることはなかった。第3極の話になるが、日本は単一民族国家に比較的近く、奴隷を使役していたわけでもなかったため、民族至上主義、人種至上主義の政党が、台頭することはなかった。通貨収縮政策に反対した農民等の債務者が,不換紙幣の増発を求めて結成した、アメリカのグリーンバック党のような勢力は、日本で通貨収縮政策が行われたのが帝国議会開設前であったため、台頭し得なかった(日本の場合、民党が主な代弁者になるべき勢力であったと言えるだろうが、通貨収縮政策が招いた資金難、一部の過激化によって十分な活動ができなかった)。金本位制が採用された時は、主要政党(2大民党と国民協会)が、反対派を抱えながらも支持する姿勢を示し、かつ無理な意思統一を避け、分裂することなく法案を可決させた。このことで、反対派の政党が結成されるということはなかった。これは分裂回避の知恵ともし得るが、上述した、日本のあいまいさのために、。禁酒党が結成される状況でもなかった。

以上から、上述した日本のあいまいさと共に、現実的に進路が限られていたことも、日本の第3極を、他国のそれと違うものにしていたと言える。改めて述べると、日本の衆議院の諸勢力は、最右翼の吏党系から、最左翼の新民党まで、議院内閣制への移行に関する姿勢についてのみ、はっきり区別され得るものであったと言っても、決して過言ではなかった。アメリカ、カナダ、アイルランドのように、保守対社民という構図になることを防ぐだけの、別の対立軸があったわけではないということも、ここで述べておきたい。

比較対象としている国々のうち、カナダ、そして、いわゆる保守主義政党と自由主義政党による2大政党制ではなかった(それに近い面はあっても)、アメリカ、アイルランド以外では、社会(民主)主義政党の伸張を受けて、保守主義政党と自由主義政党の対立は、一方(または双方)が没落するか、双方が協力して、より左の新興勢力に当たったために、弱まった。それらの国々の自由主義政党の歩みは、以下の3つのパターンに分類できるのだ。

①保守政党と共に、社会(民主)主義勢力と対決し、保守政党と一つの陣営を形成する。

・・・イタリア(史的右派を保守派と捉えた場合。また④に近い面もある)、オーストラリア、ニュージーランド

②保守政党に協力する勢力と、社会民主主義勢力に協力する勢力とに分裂する。

・・・デンマーク(右派が保守政党の陣営に、左派が急進派として社会民主主義政党の陣営に入った―ただし離れることもある―)

③保守政党と比べれば、社会(民主)主義勢力か他の急進派と近かったことから、保守政党と対決する地位をそれらの政党に明け渡し、没落する。

・・・イギリス(社会民主主義政党の労働党に第2党の地位を明け渡し、没落した)

④保守主義政党と共に没落する(例示した2か国とも反乱によって共和制に移行したため)。

・・・スペイン、ポルトガル。 ※イタリアでは合流後、カトリック系、社民系の政党の躍進で、第3党以下に転落した。

 

2大政党が双方とも自由主義政党であった日本は、この4つのどれにも当てはまらない。そもそも、戦前には、2大政党に対抗し得る政党はなかった。戦時下、挙国体制を採ることを大義として全政党、会派が解散するまで、双方とも第3党以下、第3会派以下を大きく大きく引き離していたから、上の④に分類することには無理がある(立憲政友会は末期に大きく2派に分裂したが、それでも双方とも、第3党、第3会派の倍以上の議席を持っていた。その後まもなく各党が解散する事態となった)。

戦後については、自由党系と改進党系のどちらかを保守派、もう一方を自由派と見れば、①に該当する。社会党を抑えるため、双方が合流したからだ。

2大民党の一方を、他国の急進派に見立てるとどうだろうか。薩長閥側を保守、2大政党の一方を自由派、もう一方を急進派と捉えるのである。だが、急進派に当たる政党を、教科書通り、議会開設前に一部が激化事件も起こした自由党とするのか、議会開設後は自由党系よりも多く、強く薩長閥政府と対立した改進党系とするのかを、多少なりとも迷ってしまう。総合的に見れば、改進党系が自由党系より左であったと言えるから、薩長閥を保守派、自由党系を自由派、改進党系を急進派と、見れないことはない。すると、保守派と急進派の間にあった自由党系は、遠心力が働いたこともわずかにあったとは言え、議席数の多さに加えて、その位置をこそ利用して、自らの地位を高めたのだということを思い出す。

これには少しだけだが、スペイン、ポルトガルと似たところがある。両国では、保守派と急進派がある中で、自由派が大政党として政権を担当したからである。両国ではまた、2大政党の談合があったわけだが、これを山県系と自由党系が、一定の協力をして、交互に政権を担当した時代の日本と似ているように、感じないことはない。日本では共に野党であった時だが、2大政党が選挙協力をしたことがあった。

日本の2大政党(2大民党の議席数は、第3回総選挙での吏党系の減少、第4回総選挙後の立憲改進党を中心とした再編を経て、第3党、第3会派を基本的には大きく引き離すようになった)は、保守主義政党と自由主義政党という、他国で一般的に見られる組み合わせに、やや近い面を持つには至ったが、本来はそのようなものではなく、共に自由派であった。この欧米との相違は当然、第3極の有無やあり方に影響を及ぼしたと考えられる。今度は以下の、日本の第3極の欧米版があり得たのか、少し考えてみたい。

ⅰ薩長閥の上からの漸進に反対する2大政党と、一線を画す吏党系(ⅱと区別するため、誇張してある)

ⅱ全ての勢力と少なくとも建前上は一線を画す中立派(実業派、地価修正派などの色がある場合も少なくない)

ⅲ民党の基本にこだわる新民党

 

ⅰは保守派とし得るわけだが、日本では2つの自由派のうちの左の方だけでなく急進派とし得る勢力(新民党)の一部とも合流し、自由党系の左隣に位置する政党の一部となった。このような変化は、よほど長い時間をかけない限り、まずあり得ないと言ってよいだろう(実例もないと思う)。

ⅱについては、他国に実業家、商工業を基盤とする政党などはあっても、それらは中立派としてふるまおうとするものではなかった(全く中立になることはない、という意味ではない。これは多くの国々で見られた、農民党等と称する政党についても同様である。商工業を基盤とする勢力の差異については、日本と欧米諸国では産業の発展の段階が異なっていたこと、日本は上から近代化されていったという面が大きいことが要因だと考えられるが、いずれ詳しく見てみたい)。

日本でも他国でも、既成政党を支持し、あるいはそこから選挙に立候補している実業家は当然少なくない。その一部が既成政党に不満を持った場合に、商工業の一部を基盤とする、既成の自由派、あるいは保守派とは別の政党が結成され得るということである。

ⅲは急進派であり、一定の違いはあっても、存在していた。

なお、日本と同様に、アメリカ、カナダ、アイルランドでも、社民系の勢力は非常に小さかった(カナダとアイルランドでは戦後一定程度規模に)。これらの国々では、特定の重要な対立軸を受けて2大政党制となり、アメリカとカナダは小選挙区制であったことからも、そこに左派政党が割って入るよりも、左派政党の最大の支持基盤であることが普通の労働組合が、2大政党の一方と取引きをする方が合理的であった(アメリカでは実際に明確にそうなった)。またアメリカとカナダは大陸の外からやってきた開拓者が建国し、新たな移民が加わっていったたため、多くの人々は自立心が強く、熟練労働者と非熟練労働者、異なる出自の労働者の団結が、特に困難であった。

さて、2大政党制の傾向がほとんど見られたことがない国々とも比較をしたいが、政党が多く存在していても、保守系、自由系、社民系、その他と分類することは出来るから、ここまで見たことと、大きく異なるということはなさそうである(註5)。よって、またいずれ改めてということにしたい。

Translate »