日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
冷戦後の自民党の派閥政治の、3大転機

冷戦後の自民党の派閥政治の、3大転機

ここで、自民党の派閥について3つ補足しておきたい。

①自民党の中で優位にあった自由党系であったが、優位派閥であった竹下派が小渕派と羽田・小沢派に割れた。後者が党外に出た後、小さかった小渕派は、第1派閥の地位を取り戻すことに成功した(竹下ら実力者が残っていた事や、橋本龍太郎に一定の人気があった事により、総裁・総理大臣のポストを得たことが大きい。自民党の中心にあることで、新人や復党希望者を多く吸収したのであった)。小泉内閣の成立後、第2派閥には留まっていたにもかかわらず、この派閥が弱っていった背景には、ベテラン・中堅が多くなかったこともあるのだろう(自民党を見限って離党したものの復党した議員は、たとえベテランであっても党内で力を持つことが難しかった。なお、現在同派は、小派閥であったはずの麻生派に抜かれて第3派閥になっている)。

同じ自由党系の、優位派閥ではなかったが、順調に総理を出してきた池田派の系譜も、河野グループの離脱、加藤の乱による分裂(離脱者が堀内派、残留した少数派が加藤派)で弱体化した(河野グループは弱小派閥であったが、トップが安倍晋三と親しい麻生太郎になり、安倍が再度総理になると、どんどん強くなっていき、主要派閥の中では小さかった三木派の系譜―三木派→河本派→高村派→大島派→山東派―を吸収した)。

 

②1998年、自民党内のほぼすべての派閥が分裂した(他派閥より小さかった三木派→河本派→高村派を除く。同派は後に麻生派に吸収された)。その分裂とは、そのころまで連立を組んでいた社民党とさきがけ、そして与党ではなかったが、その両党から生まれた民主党系との間にパイプがある勢力と、それらの政党よりも保守色の強い新進党(の小沢一郎ら→後に自由党)と「保・保連合」を組もうとした勢力である。後者の中には、社会党→社民党との関係が良好であったものの、自派の主導権争いに破れて反自社さ派となった亀井静香、河野洋平がいた。

分裂を整理すると次の通りだ(より詳しくは「起こり得る、「保革連立」の再来」参照)。

・小渕派→小渕派と梶山清六、菅義偉らわずか3名で派閥を離れたが、梶山は小渕派の要人であった)

・三塚派→森派と亀井派

・宮沢派→加藤派と河野派

・渡辺派→山崎派と中曽根派

それぞれ前者(小渕派、森派、加藤派、山崎派)が自社さ派、後者が保保派であったが、社さ両党が連立を離脱し、民主党も野党色を強め、ついには新進党分裂の影響で野党第1党になると、自社さ派は単なる主流派に、保保派が単なる非主流派となった。「自社さ派」は公明党と組みたかったからではあっても、保保派のパートナーとなるはずの自由党(新進党をほぼ独断で解党した小沢が結成)と組んだ。この変化、そして総裁選に出馬して同じ自社さ派であった小渕(小渕派→橋下派)に敗れたことで、加藤派、山崎派は、単に主流派となった「自社さ派」を離れた。ただし、加藤派の多数派は、加藤の乱(『政権交代論』「高支持率の小泉内閣と、その限界」参照)をきっかけに加藤派を離脱、堀内派を結成して、主流派に残留した。これは2000年の事で、その前年の、加藤、山崎の双方が敗北した総裁選では、自由党との連立も実現しており、主流派に付かざるを得なくなった非主流派も、小渕を支持していた。

 

③自民党は小渕→橋本派を中心に、総主流派体制になったが、加藤派と山崎派は、一度裏切った勢力として、非常に肩身が狭くなった(山崎、山崎派に関しては、盟友の加藤を見捨てなかったこと、小さな派閥とはいえ、加藤派のように分裂しなかったことで、あまり評価を下げなかったようである―補足すると、山崎派は山崎が渡辺派を割って立ち上げた派閥であったが、加藤派は、加藤が宮沢元総理から継いだ名門派閥であり、加藤の好きなようになるわけではなかった―)。そして2001年、総裁選で小泉(森派)が橋本(橋下派)を破ると、小泉は優位派閥の地位を取り戻しつつあった橋本派を冷遇し、以後自民党は、森派の系譜が優位派閥となる。2001年の総裁選は、国家議員票で特に、橋本の優勢が予想され、橋本勝利の予想が多かった。しかし、自民党の不人気ぶりに動揺した党員が、党内力学を無視して小泉に流れたことで、状況が変わったのであった。

 

左派をバカにし、自民党に利用される改革派→

Translate »