日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
待っていても良い野党は生まれない、日本国民は野党の「先生」になるしかない

待っていても良い野党は生まれない、日本国民は野党の「先生」になるしかない

民主党政権はかつて、自分達がうまくやれていない事を棚に上げて、維新の会を軽視した。維新はそんな民主党、さらには下野後に左傾化し、対決重視になった民主党を軽蔑した。民主党はしかし、大きくなった維新を吸収した。これに反発した維新の本家大阪派は、ローカル的な新党からやり直さなければならなかった。それは成功し、維新の会は復活した(「おおさか維新の会」と言う以前の党名自体には、大阪の改革を全国、国政に広めるという意味が込められており、地域政党になろうとするものではなかった)。その維新の会は、民主党側に行った仲間に対する恨みを持っているようだ。

民主党系は小さくなった維新をますます軽く見た。自分達に批判的である維新の待遇を、野党第1党の地位を使って悪くした。維新が全てをかけていた大阪都構想にも、全体としては反対の立場を取った。都構想に反対なのは構わない(筆者は本来賛成だが、都知事を政府が任命する制度に変える事を提案した竹中平蔵と維新も近い事から、疑念を抱くようになった)。しかし2019年の参院選の結果ですでに、維新が支持を広げていることは確かであり、「それなら同じ野党として話を聞いてみようか」という姿勢を見せるくらいでないと、野党第1党の度量ではないと、述べて来た。

民主党側をやや悪く書いたが、維新側の左派を軽蔑するような姿勢は、左派の問題点に悩む筆者であっても、嫌悪感を覚える。公務員の在り方が大阪の足を引っ張っていた面は確かにある。国防がまだ非現実的であるという事も言える。しかし世の中、どちらか一方の考えだけが正しいなどという事はない。新自由主義も社会民主主義も両方必要であり、どちらもこれまで、十分な事ができてはいないのである。

左派がだめなのなら、本当はその原因に向き合う必要がある。個別の問題点を指摘すれば十分だし、余裕があればその背景を探る。そうすれば一気に建設的な話になる(後者は学者の仕事だが、その研究結果を利用すればよい)。

しかし保守政党1党優位が染みついている日本では、その存在自体に噛みつくことが、左派である野党第1党の存在意義のようなものになってしまい(批判があっても急には変わり難い)、是々非々を謳う保守系の第3極も、そのような政党、政党システムをもたらした構造には向き合わず、固定的な野党第1党を徹底的に否定して見せる。これでは非建設的過ぎる。もちろん優位政党は、第3極を利用するだけだ。

維新に自民党のライバルになるという気があるなら、社会党~民主党系の抱える問題の一部は、彼らも実は無縁ではない。「我々は保守だ」と言うかも知れないが、そうとばかりも言えないし、そうであっても、相手は同じ自民党だし、その点で共通の課題がある。維新の大阪での政治についてすら、コロナ禍で問題点がいくつも露呈した。

上述したようないがみ合いが日本の政治、しかも与野党対立ではなく、野党側に限られた小競り合いとして常態化している状況を見ると、本当に気分が悪くなる。しかし嘆いてばかりもいられない。「どんなに堕落、腐敗するリスクがあり、また実際に堕落、腐敗しても、私は政権交代なき自民党政治を支持する」というのでなければ(自分達が敗れ去ることがなくても堕落しない権力などない)、野党、いや、野党第1党をどうしても強くしなければいけない。野党第1党をしょっちゅう別の党に取りかえていたら、それはできない。今度の総選挙はその点で後退であった。勢力の弱さ、小ささ以上に、野党各党が抱えた、他の野党ばかり気になる、憎らしくなる「心の病」を、悪化させるような結果になった。

唯一の救いは、立憲が良い方向に変わる可能性が、残されている事だろう。それはもちろん代表選と、何より新執行部にかかっている。あるいは、維新の会が野党第1党になることに希望をつないでいる人もいるだろう。筆者はこれを望まないが(維新等と社民系による2大政党制、または2ブロック制はむしろ望んでいる)、その可能性についても、改めて考える予定だ。

ともかく、自民党が単独過半数を守る一方で、互いの議席差を縮めた「2弱」の野党は、今後ますます、互いに競う欲求に駆られる。良きライバルになればまだ良いのだが(それでも選挙の時にすみ分けくらいしなければ、共倒れする可能性が高い)、むしろ足の引っ張り合いに躍起になるだろう。それは自民党に利用されることを含め、自民党に対する野党のさらなる弱体化を招く。

維新の会はもちろん、旧民主党系の再編で主導権を握れなかった国民民主党も、立憲民主党(主に枝野ら)を良く思っていないだろう。立憲と合流したかつての仲間にも、複雑な感情を抱いているかも知れない。この原因は、立憲民主党にも当然ある。しかしもう少しさかのぼれば、希望の党の排除騒動に対する恨みのようなものが、旧立憲民主党の出身者にはあるだろう。見捨てられる仲間がいるのに、希望の党の公認をもらって選挙を戦ったのが、国民民主党(新旧共に)の衆議院議員達だ。小池が左派を排除するのは当然だが、同じ民主党→民進党にいた仲間がそれに抵抗しなかったのは、考えが違うとしても情けないことではある。

この国民民主党と、今回躍進した維新とを合わせると、衆議院で50を超える(維新は法案提出に必要な20議席どころか、予算措置を伴う法案の提出に必要な50議席も、半ば手にしたわけである)。立憲は100に届かなかった。前者は伸びて、後者は縮んだ。この傾向が与えるインパクトは大きい(すでに維新の支持率が急上昇し、立憲を抜くレベルになっている)。前者(維新、国民民主)にとっては、「これなら勝負になる」という事になるし、後者(立憲)も前者を無視できない。本当に勝負する相手は与党なのに、野党間で、どちらも自分が正義だと過剰に信じる者達が、小競り合いを、小競り合いとして強める可能性が高い。

すでに3年前、旧立憲民主党と旧国民民主党は、参議院において、見苦しい野党第一会派争いをしている。国民は自由党を吸収し、立憲は社民党を会派に加えることまでして、「うちが1議席多い」という事をやっていたのだ。

引き続き、今回の総選挙の結果を受けて色々考えていくが、その際私たちは、個々の野党の問題点と共に、どうしてもこの大問題にぶち当たる(遅かれ早かれ)。このいざこざを収める教師、心の病を治す医師に、私たち日本国民がならなければいけない事だけは、間違いがなさそうだ。これは仕方のないことだ。私たちは国のトップ、主権者なのだから。

具体的にどうすべか。それはもう少し考えた後で、また改めて述べることとする。

 

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