3-10. 吏党の不振がもたらしたもの3.補論

10. 吏党の不振がもたらしたもの

第2回総選挙後の第3極は、自らの2つの使命のどちらを果たそうとするかによって分裂した。このような宿命が当時の第3極にあった一方、第3極に落ちるという宿命を持つ勢力もあった。ここでは、そのような宿命を持った吏党の系譜について考える。筆者が提示した五類型の中で唯一、第3極として誕生したのではない勢力である。薩長閥に連なり、一時は衆議院第1会派であった割に、その影響力は限定的なものであった。しかしそれはあくまでも、直接的な影響力についてである。政党、会派というものは、他党からの影響を容易には逃れることができない。影響力を行使できない党派であっても、そのこと自体をもって、他の党派のあり方に影響を与えることがある。

薩長閥政府支持派でありながら、薩長閥に重要視されないという吏党系の不遇については『キーワードで考える日本政党史』序章~第2章でも見たが、その不遇は、国民協会に否定的な第2次伊藤内閣の誕生により、ついに逆境となった。まさにその逆境のために、残された拠り所であった議席数の多さを失った(1894年3月の第3回総選挙における激減)吏党系は、鼎立状態の、そして薩長閥対民党の衆議院というリングから、事実上退場した。こうして、ともに民党と呼ばれた2つの政党、自由党系と改進党系が第1、2党、衆議院第1、2会派の地位を占め、以後これを維持する。筆者が「2大民党制」と呼ぶ体制である。

共に民党と呼ばれる政党であったというだけで、自由党系と改進党系が似通っていたということにはならない。しかし、双方が当初は共に薩長閥と対峙していたという事実は、重要視せざるを得ない。民党が2つ誕生した要因は、議会開設を求める動きが、征韓論を巡る板垣退助の下野と自由民権運動の展開、そして議院内閣制を提唱した大隈重信と彼を支持した人々の動きという、2つの事象によって展開したためである。板垣達の自由民権運動には地主層に依拠する傾向が強かったのに対し、大隈重信の周囲には実業家と知識人がより多く集まった。これが気質の違いとなり、双方は、根本的な差異に乏しかったにもかかわらず、分立したままとなったのである()。

もちろん2大民党制は、吏党の不振だけによってもたらされたわけではない。明治期の日本は、政策に関する対立軸が現れにくい状況にあった。国内が一丸となって近代化を急速に進める必要があったことなどから、中央集権化に対する反発は大きくはなかった。明治政府が早期に体制を盤石にし、旧幕府側から人材を登用したこともあって、明治政府対旧江戸幕府側という対立は、政治的なものとしては存在しなかった。民党も否定はしなかった富国強兵策は、当然ながら積極財政政策であった。貿易については、業種ごとの要望の相違はあり、田口卯吉のような自由貿易論者もいたが、基本的には関税自主権を回復し、相対的に低かった関税率を上げることが求められていた。不平等条約の改正については、薩長閥政府と民党の間に意見の相違が見られることがあったが、双方とも平等化を目指していたことに変わりはなかった。

政党というものは国の在り方によって様々に形成される。日本が政治制度を模倣したプロイセンを中心とするドイツ帝国を含めた列強の多くの国々には、宗教と世俗の対立、宗派間の対立、資本家と労働者の対立があった。日本では、宗教的対立は、政治に大きな影響を与える深刻なものとしては存在せず、資本家と労働者の対立については、まだ政治的な課題となる段階にはなかった。ドイツ帝国は、複数の領邦の連合体として誕生したが、日本では中央集権化が進み、地方間の対立は多くの場合、派閥間の対抗意識と同様のものとして現れたに過ぎない。日本はドイツ帝国と比べて社会的な多様性に乏しく、加えて下院を制限選挙制としたことは、有権者層をさらに一様なものにした。

現在では、政権交代の前後における国の基本的な重要政策の連続性も重視される。しかし過去には、ドイツ帝国を含む列強の国々において、宗教の既得権益の維持か打破、対外進出に対する積極か消極、貿易に関する保護主義か自由主義、そして大きな政府か小さな政府かという選択について、いずれかは国内で重要な論点となっており、利害の異なる各層の主張を政党が代弁していた。そして帝国主義の時代には特に、強国ほど自国の進路に関して自由が確保され、弱小国ほど、現実に採り得る方針に制限があった。つまり、まだ国力の弱かった明治期の日本には、国内に根本的な対立の生じ得る課題は、少ないはずであった。そのような課題については、大きくはない程度の差が、政策の違いになりやすい。

これらの点でも、日本において政党が似通ることは避け難いことであった。民権伸長が先か強国化が先かという手順の問題、政党内閣の是非を除けば、薩長閥を含めて、主要勢力間に根本的な差異はなかったのである。政党内閣の是非を巡る対立も、「是」は下野した明治政府の元要人たちの政権獲得、「非」は薩長閥主導の政権の継続であったから、権力の争奪こそ対立軸であった。この理念、政策的な差異の乏しさは政界縦断を可能とした点において、吏党不振の要因でもあったといえる。