3-11. 「2大民党制」の特徴3.補論

11. 「2大民党制」の特徴

2大民党制の特徴を、筆者は次の①から③であると考えている。

① 策的な差異が明確ではなく、双方が、党の基本的な政治理念に関わる、急ともいえる変化を見せることがあった。

自由党と立憲改進党の結成当初の主張は、有司専制反対と民権伸長、不平等条約の改正、財政整理、民力休養について、ほぼ一致していた。政党内閣の成立も、議会開設当時には、民党共通の目標となっていた。必要な限りの軍拡を認めるという姿勢も、共通のものであった。双方は軍拡に肯定的であることも少なくなかったが、財政整理を唱えていたこと、薩長閥と軍部の関係が深かったことから、これを無条件では認めない姿勢を採ることが多かった。

双方の主張の変化について見ると、自由党が不平等条約の改正を実現できずにいた薩長閥政府に協力的になり、立憲改進党が条約励行を主張した。立憲改進党は条約励行を唱えることで対外硬派と一致し、これに名を連ねた。大隈重信が外務大臣を務めていた黒田内閣期とは、両党の硬軟が逆転した。

民力休養に関しては、改進党系が、例外となる時期はあるものの、自由党系に比して主張を維持した。実現困難な地租軽減よりもインフラ整備を重視するようになっていった自由党系は、地租軽減に否定的であり、地租増徴を目指すようになった薩長閥政府の積極財政に近付いた。経済状況の変化に伴い地租の実質的な負担が軽くなると、地主層の関心が減税や増税回避よりも、インフラ整備に移る傾向が見られたことから、自由党系の変化には、国状の変化と結びついている面があったといえる。

ただし、自由党系は変化をしつつも、第2次伊藤内閣に政費節減を迫ったし、改進党系にはブレが目立つようになる。つまり自由党系の変化が、直ちに2大民党の差異を明確にしたわけではない。

また、有司専制という表現が用いられなくなっても、そして民党の薩長閥への接近が見られるようになっても、薩長閥が行政を握る状況を変えることは、双方の最大の関心事であり続けた。

 

② 度々野党として共闘した。

非常時であったとしても、2大政党が合流までする必要はないといえるが、非常時への対応とは異なる動機により、野党時代の自由党と進歩党が、合流して憲政党を結成したことがあった。しかし憲政党は、与党となると崩壊した。他にも、自由党系と改進党系は、対抗関係にありながら野党として共闘することが度々あった。

 

③ 共に与党となることを拒絶することが多かった。

非常時や、双方が議会の過半数を得ていない場合に、第1、2党は共に与党となって協力することがある。しかし、双方が野党である時には協力することも多かった日本の2大政党は、そのような場合にも、共に与党となることがなかった(戦時に双方が薩長閥との対決を控えることはあった)。仮に隈板内閣(憲政党内閣)を自由党と進歩党による連立内閣であったとしても、これはわずか4ヶ月ほどで双方の対立によって崩壊したのであり、2大政党が共に与党とはなり得なかったことを示す例となるに過ぎない。

 

以上の3つの特徴は、政党が、当初は政権を担当する当事者ではなかったことにも起因するといえる。図補-Dの通り、薩長閥政府が議院内閣制を採らなかったことが、政党制に別々の角度から影響を与える結果となったと考えられる。

 

図補-D:議院内閣制の不採用と政党の在り方

議院内閣制の不採用と政党の在り方

 

事実これら3つの特徴は、加藤高明内閣以降の政党内閣期には見られない。①については、政策の変化はあっても、2大政党の志向は、大きくは変化していないといえる(ただし、改進党系―憲政会―が対外強硬姿勢から協調外交に変化し、自由党系―立憲政友会―がその逆の変化を遂げたのは、第1次加藤高明内閣の成立前から、第1次加藤内閣期にかけてである)。ただし③について、大連立が必要な局面で実現しなかったという指摘が、当時の状況の解釈の仕方によっては可能となる。

なぜこのような特徴があったのか。①について言えば、公約を掲げて政権を得て、それを主体的に実現するという機会がなければ、政党の政策体系は洗練されにくいからである。さらに、衆議院と貴族院がほぼ対等であったため、まだ貴族院に有力な基盤を持っていなかった民党にとって、自らが提出した法案を成立させることは困難であった。つまり、立法の役割を本格的に担うことで、政党の政策体系が洗練されるという状況にもなかった。このことは、次の通り上原悦次郎も主張している(植原悦二郎『憲政の進路:三政黨宣言及び黨首演説の解剖と憲法の眞義』64~66頁)。上原は1917年に立憲国民党から初当選し、以後革新倶楽部、立憲政友会等に属した。これは彼が初当選を果たした1917年に出版された著書の一部である。その当時には政党の地位が向上し、政党内閣も珍しいものではなくなっていた。しかし元老が首相の選定に大きな影響を及ぼす状況は変わっていなかった。当時は寺内正毅を首相とする非政党内閣の時期であったが、そうでなくとも、政党内閣というものが定着したとはいえない状況にあったことに、かわりはなかった。

以上は各政黨の宣言及び其黨首の演説を立憲政治の原理に則り、嚴密に解剖、批評したるものである。之によれば憲政、國民、政友の三黨、何れも立憲的政黨の素質を具備して居らぬ。凡そ立憲國の政黨は主義政網によりて結合し、之を寛現する爲めに内閣を彈劾し、政權を掌握することを希望するものでなければならぬ。然るに憲政會も國民黨も寺内内閣を彈劾するのみにして、何等自黨の政網政策を國民に表示して居らぬ。政黨が宣言を發して内閣を彈劾すると云ふことは、内閣を破壊すると云ふことが手段であつて其政網を寛現せしむると云ふことが本旨でなければならぬ。故に内閣を彈劾するに付いては、内閣の政策に優るべき政策を國民に明示し、之によって國民の後援と信望とを、求めねばならぬ。然るに憲政會も國民黨も、更に其政策を磐明して居らぬ。這は寺内内閣が何等の政策をも言明して居らぬのであるから止むを得ぬことであらうけれども、又政黨其ものが一定の政網を有せざるに由るものであると云はれねばならぬ。尤も我國の政黨が一定の主義政網を有せざるは、政黨其ものゝ罪にあらずして主として制度の罪である。超然内閣の成立する間は、政黨に主義政網の主張を要求することは、無理なる注文である。凡そ立憲國の政黨が一定の主義政網を有するは、議會に多數を有すれば必ず之を寛行し得ると云ふ希望と、信念とを有するからである。それは議會に於ける多數が、必ず内閣を組織し得ると云ふ制度の存立を前提とせねばならぬ。然るに我國の現在於いて、議會に多數を制する政黨が、必ず内閣を組織することは不可能である。否這は全く望みなきことである。議會に多數を制する政黨の爲し得る最上のことは、内閣と妥協するか或は之を後援する位のことである。それ以上のことを望むことは出来ぬ。政黨の上に常に元老、藩閥、或は官僚政治家なるものが存在し、政治の寛權を左右して居る。されば我國の政黨は、假しや議會に於いて多數を制するとも結局、元老、藩閥或は官僚政治家に屈服せねばならぬのであつて、自ら其主義政網を寛行すると云ふが如きことは不可能である。最初から全然寛行不可能と決して居る主義政網は有して居つても無益である。無益なることを政黨に寛行せよと希望しても、這は不可能のことだ。我國の政黨が主義政網を有せざるは之が爲である。政黨が無能であるから、主義政策を維持せぬ譯ではない。維持しても此實行を期することが出來ぬから、敢て之を爲さぬのである。故に政黨が主義政策を有せざることは政黨としての素質と資格を整へざることであるけれども、我國の政黨に向つて之を望むは望むものが無理である。此罪は政黨にあらずして所謂元老、藩閥、官僚政治家の跋扈即ち超然内閣の存在にあるのである。超然主義を倒壞し責任内閣を組織し得べき憲政運用の道を啓くにあらざれば、主義政綱を生命とするが如き政黨は斷じて發生すべきものではない。

①から③の原因について話を続ける。②については、政権の中枢を薩長閥が押さえていたため、2大政党が協力してこれに対抗しようとしたからである。 ③について言えば、(準)与党が政権を担う当事者だとはいえないために、またはそうであっても、その意識に乏しいことから、安定した政権運営のために多数派を形成するよりも、ライバルとなる政党に与党的立場となる機会を与えないことで、2大政党が自らを有利にしようとしたためである。確かに改進党系は、自由党系を排除することにこだわらなかった(第2次伊藤内閣末期、第3次伊藤内閣成立当時)。しかしそれは与党内において自由党の優位に立つことを想定してのことだということができる。そうである限り、条件について自由党と折り合いがつくはずはなかった。

②、③の特徴が両立するのは、2大政党が薩長閥に対して、そして互いにも対抗意識を持っていたため、どちらの対抗意識が強くなるかによって、野党として共闘したり、薩長閥に接近したりと、姿勢を変えたからである。2大政党の一方が他方に先駆けて薩長閥の一部と組んだ場合、その一方が、両党の対抗関係において優位に立つことが可能となる場合が多かった。