筆者が政権交代を求める理由

筆者は格差の拡大に否定的だ。これに関して、「機会の平等+最低限のセーフティネットではだめなのか」、「努力して結果を出した人と、努力しない人の間で格差が生じるのは当然ではないか」と言われることがある。一理あると思う。しかし、成功した人、豊かな人は皆、大変な努力をしたのだろうか。貧しい人は皆、努力不足なのだろうか。あえて極端な例を挙げれば、同じスポーツでも、野球であれば巨額の年俸を得られるレベルの選手が、マイナーなスポーツをしていれば、それだけでは食べていけないということもあり得る。幼少期に親が何をやらせたか、やらせていないかで、つまり本人の選択によらないところで、収入に影響することもある。「そんなマイナーなスポーツなど趣味でやるか、メジャーなものに乗り換えればいい」と、筆者も全く思わないではないが、これは例えであって、社会にとって非常に重要な職業でありながら、低賃金ということは現実にある。

そして、最低限の暮らしさえできれば、格差があっても満足しなければいけないのか、というのも難しい問題だ。皆の税金で、食べていけない人に、食べていけるギリギリよりも、より多くのものを渡すのはおかしいという主張は分かる。衣食住のための最低の補償があれば、そこから豊かになる可能性もないわけではないし、社会保障とは、高齢者に関するものを除けば、そういう機会を与える、つまり敗れても、あるいは問題が降りかかってきても、立ち直れるように命をつなぐためのものだと、言うこともできる。

しかしそれだけで良いとは思えない。再起の機会があるだけで、皆が成功するわけではないというのは当然として、物事は思ったほどにはうまくいかないものである。最低限を目指せば、実際にはそれを下回るケースが少なからずでて来る。こういった事が不満を呼び、社会を不安定化にさせる(それでも一部の富裕層は自らの身を守れるかも知れないが)。

競争は重要だが、境遇が様々である人々に、一様に多大な努力、高い能力を求めることはできない。それでは過剰な競争で心身がボロボロになる。カウンセリングで補うなどの対策は考えられるが、当然そう簡単な事ではない。教育の機会を完全に平等にしても、やる気がない人は救われない。これも問題だ。やる気がない人を救う必要があるのかと言われるかもしれないが、不幸な境遇などのために意欲を持つことが難しくなった人、特にそれが幼少期に起因する場合、そのような人を責められるだろうか、自業自得だと言えるだろうか。筆者はそのような人に手を差し伸べようと努力をする、そんな社民系の大政党が必要だと考えている。新自由主義的な政党がそれを目指すこともあり得るが、背景にある思想によって、そのやり方、効果は違ってくると思う。

ここでもう一つ例を挙げたい。コロナ禍で職を失って苦しんでいた人が、やっと職を見つけたと思ったら、今度はほとんど休みがない。これは両極端なようであって、「底辺」にしわ寄せがいっているという話である。職がないか、低賃金長時間労働か。これしか選ばせてもらえない人が多くいる。外国人労働者が増えれば、彼らの競争相手も増える(そんな単純な話ではないし、人手不足の問題もあるのは確かだが)。こんな国で広く消費が増えたり、少子化傾向に歯止めがかかるはずがない。自分は中流だと思っている人も、きちんと休みが取れているだろうか。家族や友人と過ごしたり、できているのだろうか。

議会政治の先輩国を見れば、社民系の政党には右傾化(競争を受け入れ、機会の平等さえある程度実現させれば、あるいは環境問題や差別の問題に向き合ってさえいれば、人種等の差別を背景としない格差、貧困の問題については、ある程度放置しても許されるというような姿勢)が見られたが、最近は揺り戻しも見られる。そしてこれらの国々では、この点がどうであろうと、一定の休暇は基本である。

活力、成長をもたらすためには、新自由主義も必要だが、その新自由主義は現実的には、都合よく利用される事が多い。普段は自由競争と言いながら、銀行や特定の企業を、社会的な影響が大きいからと救済するのでは、それこそ不平等だ。それは、実際には新自由主義などではなく、単なるご都合主義だ。かといって、その「社会的影響」というのも確かに怖いから、経営陣やオーナーに責任を徹底的に取ってもらうことが重要だろう。しかし(日本の)新自由主義的政党、議員にそのようなことができるのか、かなり疑問である。今の(日本の)新自由主義は、どう見ても「下」にばかり競争を強いている。「中」に激しい競争を強いて、ごく一部の「上」と多くの「下」に分解しようとしているようでもある。

新自由主義的な政党であれば本来、救済しない方針を採るのが自然だと思うが、実際はそうもいかない、そうはしたくないということがある。一方、左派政党は別の視点で、救済しない方針を採るかもしれない(富裕層を敵視してそうするのであれば、社民系というよりも、社会主義か左派ポピュリズムだが、こちらの方が庶民の意識に合致するという事はある)。そうなると新自由主義系の政党と、社会民主主義系の政党の方針が、本来の立場と逆転して見える事も、あり得る。

話がそれたが、グローバル化を止めるのも難しい状況下、これからITがさらに発展し、AI(人工知能)にできることが格段に増えていく。その分だけ職が減る。最新技術の開発に関わる人々、その資金を提供することができるような人々、AIにはできないが需要は維持されるような職に就いている、(高くなる倍率の中、賃金の問題も改善された環境で)就くことのできる人を除けば、仕事、所得がなくなっていく可能性が高い。多くの人が、苦境に立たされる危険があるのだ。

確かに今は、衣食住をかなり安くで済ませることができる。しかしこれはデフレによるものでもある。つまり不景気の中の、小さな「安全弁」に過ぎない(そこで経済が安定するわけではない事を考えれば、本当は安全弁などとは言えない)。そして格安の食品(より安くするために、安全が犠牲にされることも考えられる)しか食べられない人と、健康に良い自然食品を食べられる人、安い最低限の医療しか受けられない人と、高度な医療を受けられる人、というような2極化は、むしろ目立つことになっていく危険がある。そうなれば健康という、命に直結する面で格差が拡大する。

人間が就く職が減っていけば、その分配をめぐり、力のない人々がさらに弱い立場になる。デフレについて言えば、マネタリーベースを増やして救う策もあるが、食料や燃料を輸入に頼る日本だから、もしこれで円安が進めば、貧しい人がより貧しくなりかねない。

考えなければいけない事は多く、それぞれの問題について、左右別々の立場に基づいた政策が考えられる。ベーシックインカムについても、最低限のものに抑え、他の給付を最大限削り、国民に不満を持つ事を許さない、というものが考えられる。これは右の立場だ。一方左の立場は、格差、貧困を解消するものだ。温かいものである一方、右のもの以上に財源が問題となる。富裕層から取ることで、十分に得られるのか(海外に逃げられることも避けられるのか)。全体的に増税するしかないのか。

「右」にとってベーシックインカムは、雇用の流動化の代償のようなものでもある。少ない職を皆で分け合い、少ない収入をベーシックインカムで補ったり(ただしこれはどちらかと言えば左)、雇用の流動化によって職を失う人を支える(これは「第三の道」に近い、どちらかと言えば右)。一方、左派的な考えとしては、ベーシックサービス(社会保障サービスの無償化等)を重視するものもある。立憲民主党がこれを唱えている。

IT、AIの発達、グローバル化を拒む事ができない以上、格差、貧困はどうしても深刻なものとなりやすい。だから時に、平等重視の社民系の政党が政権を取る必要がある。一方で、そのような政権ばかりでもいけない。グローバル化については、左派政権が一定の歯止めをかけるという事も可能だろう(右派ポピュリズムもこれを志向する事が多い)が、それをすると国際社会で不利になったり、国際競争力が低下する。左派政党にとって、再度の政権獲得を難しくする面もあり、対処は難しい。

国民に厳しいことも言う。そして、意欲と能力が共にある人々に、その能力をさらに生かす機会を与えるような政党の政権も、時に必要だ。

ここで何よりも言いたいのは、一つの政党がその両方をする事はもちろん必要であっても、その両方を一番に考えることは不可能であるということだ。両方を一番に考えているように見せたり、訴える相手によってニュアンスを変えることは、選択する側の主権者(国民)をだまし、考えさせないことにつながる。

だから政権交代が必要なのだ(政治における競争、それによる政党と国民の向上、そして腐敗防止のためにも政権交代が必要である事は、言うまでもない)。この事を踏まえると、立憲民主党が他の左派政党と協力して、その一方を担うのに十分な存在になることが、何よりも重要だ。

 

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