日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
失望続き、落胆続きであっても捨てられないもの

失望続き、落胆続きであっても捨てられないもの

このあたりで改めて、筆者の考えについて、少し記しておきたい。筆者が政治に関心を持つようになったきっかけ、非自民連立政権に対して持った不信感について、以前述べた(『政権交代論』「冷戦終結当時の政治の変化~十代の筆者が感じた矛盾~」、同「1993年総選挙、細川内閣誕生の問題点」参照)。自民党の一部が割れて野党と組むとか、第3極の小党が日本を変えるとか、そういったイレギュラーな、しかも実現の可能性が低いことに期待せず、欧米の基本をまずはしっかりとマスターするべきだと、強く思う。保守系の自民党と、社民系の立憲民主党をしっかりと育て、変えるべきところは変えていき、これも実現する可能性はけっして高くはないのだが、政権交代を定着させるしかないと考えている。

その点でも、国防問題は課題である。筆者は、日本が核武装するという選択肢すら、難しいというだけで、また感情的な理由からは、排除すべきでないと考える。バランスが重要だと考える。例えば、筆者は核兵器の残虐性に嫌悪感を持っている。一方で、そのようなものが再び日本に落とされる可能性を少しでも小さくできるのなら、それを保有するという矛盾も、場合によっては抱える必要があるのではないかと思う。敵基地攻撃能力については、当然必要だと、ずっと思っている。しかし同時に、平和主義的な理想論が消えてしまえば、歯止めが利かなくなる、ということも心配する(社会主義が消え去り、資本主義における弱肉強食の面が露骨になったように)。

だから、そして格差拡大に否定的であることから、筆者はずっと民主党系を支持してきた。筆者が選挙権を得た時には、社会党の名はすでに消えており、社会党系の本流を、手続き上は社会党と同一政党(社会党の後継)であるとは言え、小さな社民党ではなく、民主党だと認識していた。

ある種の苦労自慢をしたい。筆者が政治に関心を持ったのは12歳になる少し前、自民党が惨敗した参院選の次の日だ。したがって、参院選における野党の勝利(社会党が改選議席で第1党、自民党が全議席でも過半数割れに)自体は、直接経験していないとも言える。その後、2021年8月現在、参院選の通常選挙と衆議院の総選挙がそれぞれ10回ずつあった。下の通りである。それぞれ、筆者にとって大満足の結果であれば「◎」というように、満足度を付してみる。これは実際には、そこまで主観的な話ではないと思う。どうみても優れた政党ではなかった日本社会党を支持していたのは(当時はまだ十代であったが)、野党第1党を育てるしかないと考えていたからだ。それを取りかえることも全否定はしないが、中道左派の政党が2大政党(多党制の場合は、主要政党の中でも非常に強い政党)の一つであるのが、議会政治の先輩国のスタンダードであるからだ。日本には日本の歩みがあるとする人も多いが、そうであっても、欧米を真似て同様の歩みをしている日本が、産業構造上も当然、一度は同じようになる、基本をマスターする事がなくてはおかしいと考えている。

※「圧勝」「大勝」という表現は、その政党の実力を多少加味して評価したものだが、政権を獲得できなかったのに「勝利」とするようなことは、していない。

 

参議院通常選挙

1992年:× 自民党勝利、社会党敗北

1995年:× 自社さ与党不振、新進党躍進(高校生であった筆者は、自民党の離党者が起こすという変革に嫌悪感、不信感を持っており、非自民連立の崩壊、自社さ連立政権の実現を喜び、それを消極的には支持していた)

1998年:○ 自民党大敗、民主党躍進、しかし野党が多党化しており、民主党は獲得議席ですら、自民党にある程度引き離されていた。

2001年:× 自民党大勝、民主党不振(ただし元が非常に少なかったため微増)

2004年:○ 自民党不振、民主党勝利。僅差ながら、民主党か獲得議席でトップになった(非改選を加えた全議席では、まだ自民党にかなり引き離されていた)。

2007年:◎ 自民党惨敗、民主党大勝。

2010年:× 民主党敗北、自民党勝利。※民主党政権期であり、筆者は不満を持ちつつも、民主党に与党経験を積んでいって欲しいと思っていたが、全議席では第1党の地位こそ守ったものの、ねじれ国会となり、政権は半ば死に体になってしまった。

2013年:× 自民党大勝、民主党惨敗

2016年:×⁺ 自民党大勝、民進党不振 ただし民進党は、勝利とはし難いものの、低迷を脱したとは言える成果を上げた。

2019年:× 自民党勝利、立憲民主党、国民民主党不振

 

衆議院総選挙

1990年:× 自民党勝利、社会党復調 今考えれば、社会党にしては非常に多くの議席を取ったのだが、小学生であった筆者は、自民党が社会党よりはるかに多い議席を得たことにがっかりした(『政権交代論』「冷戦終結当時の政治の変化~十代の筆者が感じた矛盾~」参照)。

1993年:× 自民党維持、社会党半減、新党躍進 変化にときめく気持ちもあった。

1996年:× 自民党勝利、他党不振 まだ自社さ連立であったが、総理のポストは自民党に移っていた。筆者はこの選挙を、すでに感じてはいた、1党優位への決定的な回帰だと捉えた。

2000年:× 自民党勝利、民主党伸長 当時は自公保連立。自民党が過半数を少し下回り、民主党の議席も増えたが、とても満足できる結果ではなかった。

2003年:×⁺ 自民党勝利、民主党伸長 民主党は第2党としては過去最高の議席数・議席率となったが、自民党側に歯が立たないことに変わりはなかった。

2005年:× 自民党大勝、民主党大敗

2009年:◎ 自民党惨敗、民主党圧勝

2012年:× 民主党惨敗、自民党大勝

2014年:× 自民党大勝、民主党不振

2017年:×⁺ 自民党大勝、立憲民主党躍進 立憲民主党が希望の党を議席数で抜いたことは嬉しかったが、野党の多弱化はむしろ進んでしまった。

 

政局についても記す。

1993年:自民党の分裂によって、非自民連立政権が誕生 △

※今となっては、社会党が第2党(第1党)であっては、これらも仕方がなかったとは思うし、政権交代自体には、感動もした。

野党第1党は育たず、自民党の中でも中心にいた人々が、自民党の汚職を問題視したことに違和感、不信感を持った。政権交代自体も、総選挙の結果を受けたものではなく、総選挙前の分裂による、自民党の過半数割れを受けたものだと言える。総選挙で過半数を回復できなかったのは確かだが、それは現職(正確には前職)が自民党を抜けたためである。当時は中選挙区であり、新たな候補を急に立てても、当選は難しかった(『政権交代論』「疑似政権交代の背景にある自民党の多様性と中選挙区制」参照。例えば自民党が3名の当選者を出してきた4人区に、自民党のA、自民党のB、自民党を離党した新党のC、自民党の新人Dが立つとする。他にも既存の野党の候補、さらには別の新党の候補もいるかもしれない。時代は新党ブームで、自民党に対する失望もある。そんな中で上のA~Dが全員当選するのは難しく、結局地盤があるA~Cと、他の政党の候補者が一人当選する。といった感じである)。

 

1994年:自社さ連立の誕生 △~○

前述の通り、その成立を喜びつつ、自民党の与党復帰に違和感を持った。

 

1994年:新進党の誕生 ×

再編によって第2党を入れかえ、しかもその新たな第2党の中心が、自民党の中心にいた人々であることに違和感を持った。

 

1996年:民主党の誕生 △

社民党と新党さきがけが合流するはずが、党首クラスを排除したことで、完全な合流とは程遠くなった。新進党からも鳩山由紀夫の弟、邦夫しか参加者を得られなかった。その上、新進党と調整もせず、野党共倒れの選挙区が続出した。筆者は社さ両党の合流には賛成であったが、自民党(当時まだ過半数をかなり下回っていた)を、相対的に強くすることは避けるべきだと考えていた。

 

1997年:新進党の解党と民主党の拡大 △

新進党に代わり、社会党系の民主党が第2党になった(戻った)ことには希望を持ったが、小沢一郎系はもちろん、公明党系も参加しなかったこと、新進党から自民党に戻る議員が続出した(していた)ことで、新進党の議員が多く民主党に合流しても、その議席は100にすら届かなかった(衆議院の定数は当時500)。解党直前の、議席が減っていた新進党にもまだまだ及ばず、むしろ野党の多党化が進んだ(新進党は解党時は衆議院126議席で、解党後の新進党系の最大勢力は自由党で42議席。一方民主党は52議席から、3党を吸収して92議席に)。

 

1998年:社民党とさきがけの連立離脱 ×

かつての自民党1党優位に近づいたと感じた。

 

1999年:自自連立、自自公連立の成立 ×

多弱化した野党の少なくない部分が自民党側に寝返り、自民党の優位性が強まった。

2000年:自由党の連立離脱 △

自由党が野党に転じたものの、その半数以上は自民党側に残り、状況は改善したものの、期待を持てるほどではないと感じた。

2001年:小泉内閣の成立 ×

自民党内政権交代が実現したが、そのようなものを評価しない筆者は、(敵失とはいえ)やっと野党に対する支持が高まっていた時に、一転して自民党が支持を集める状況になったことに失望した。ただし、自民党の姿勢が明確化することについては評価した。

2003年:自由党の民主党への合流 ○

民主党側も含めて、「自分は参加する」、「自分はしない」というような状況にならず、まとまって合流できた上に注目を集めたことで、希望を持った(ただし民主党は、前年に自民党側に少し切り崩されていた。それには失望していた)。総選挙前の合流であり、ニュースステーションが関係者を呼んで特集するなどしっかり時間を割いたことで、偏向報道という批判が起こった(自民党は党としては、テレビ朝日の選挙特番をボイコットした)が、小泉総理誕生後、自民党中心の傾向がさらに強まっていた報道が(与党に関する報道量が多くなるのはある程度仕方ないとしても)、民主党中心となったことで、やっと、最強の組織票を持つ自公連立と勝負ができる状況になったと思えた(それでも直後の選挙結果は、比例票で民主党が自民党を上回ったにもかかわらず、自民党の大差での勝利であった―比例代表については、創価学会・公明党の票が確実に欲しい自民党の小選挙区の候補者が、「小選挙区は自分に、そのかわり比例代表は公明党に」と頼む傾向が見られたから、それで自民党の票がある程度減っているとは考えられるが―)。

 

2005年:郵政政局 ×

改革の是非とは言っても、自民党内の権力闘争に端を発する対立について、自民党内、そして自民党とその公認を得られなかった造反者の対立ばかりに注目が集まったことに失望した。

 

2012年:与党となった民主党の分裂 ×

野田内閣期、民主党から大量の議員が離党した(衆議院では70名程度)。なお、政権交代前の2008年にも、自民党による切崩しで数名の離党者が出た。彼らは改革クラブという政党を結成した。それは非常に小規模な分裂ではあったが、民主党が参議院で過半数を獲得するための土台となる、貴重な議席であった。当時民主党などの野党は参議院では過半数をある程度上回っていたが、早期に政権交代を実現しない限り、参議院で引き続き切り崩される議員がでてくる可能性は低くなかったと思う。

 

2012年:日本維新の会の結成とブーム △

主要政党の安定的な成長を重視し、民主党(系)は支持を減らしても、第2党であるべきだと考える筆者にとって、維新の会が民主党と並ぶ政党になりかけたことは、本来否定すべきことであった。しかし民主党にも自業自得という面があり、矛盾するようだが、政権を短期間で自民党に戻すことを避けられるのなら、維新の会の政権ができても良い、できて欲しいと考えていた(チャンスを逃し、野党であり続ける自民党は動揺するから、必ずしも保守2大政党制にはならないのではないかと考えていた)。

 

2016年:民進党の結成 △

安保法制に反対した維新の党が民主党に合流する事を評価した。筆者は安保法制自体には賛成であり、国防の問題では、理想は別として、政策について左右に大きな開きがあってはいけないと考えている。また、左派政党であり続ける民主党系に、種類の違う議員達が入るということには期待する。この時も、国民が第2党にとどめた民主党が変化し、成長することが重要だと考えていたので、否定的な意見が多かったことについては残念に思った。

 

2017年:民進党の分裂 ×⁺

民主党系のリセット自体には希望を持ったが、それが受け身的に起こったこと、野党の多弱化が進んだことには失望した。

 

2020年:民主党系の再統一と安倍長期政権の終焉 ?

これについて評価するのはもう少し待ちたいと思うが、民主党系の再統一については期待しつつ、国民民主党と社民党を全て吸収することができず、両党とも、党首と党名をそのままに(事実上は)残っていることについては、残念に思っている。合流ありきではないが、議席がわずかになった社民党は合流すべきだし(筆者は立憲民主党を社会民主主義政党だと捉えているから、その範疇にある政党には基本的にはまとまって欲しい。ただしれいわ新選組については、独立しているからこその魅力があるから、この限りではない)、国民民主党も、合流するのならほぼ完全に合流するべきであったと思う。総理の交代については肯定的には捉えていない(『政権交代論』「自民党内の疑似政権交代の限界」等参照)。

 

追記(2021年12月):2021年の衆議院の総選挙は、当然「✕」となる。野党第1党(立憲民主党)が議席を減らしたからだ。もう一つの主要野党(筆者の分類では準野党)である維新の会は伸びたが、日本の政治が1強2弱に戻ってしまった。かつての「1強2弱」とは、自民党vs新進党vs民主党(最初は準野党としてスタート)の構図だ。社会党は国民に半ば見捨てられた。そして、新党郡が公明、民社両党と合流したものだといえる新進党、そして社会党の後継の面がある民主党が、別々に自民党と戦い、共倒れをした。その後、自公vs民主党等(共産党はまだ別)という構図になったものの、民主党政権の失敗で、自民党vs民主党vs維新(準野党と捉えられる)という構図になった。これは維新の党が民主党に合流し、希望の党の挑戦も失敗したことで克服されたかに見えたが、2021年の総選挙における維新の会の躍進で、また戻ってしまったのだ。

筆者には、立憲(民主党系)が正しく、維新が間違っていると言うつもりは全くない。中道左派政党が主要政党の一つであることは必要だと思うが、何より、政権交代を阻む1強多弱(1強2弱を含む)が問題だと捉えているのだ。日本は両院とも、1位しか当選しない小選挙区が中心である(参議院の場合は少し違うが、小選挙区が全体の勝敗を決する)。それなのに野党が自発的に1強2弱を選んでいるのは、正気の沙汰とは思えない。どちらも国内の少数派を代弁する政党ではないにも関わらず、政権に届かず、最も問題視している現状を、変えることが出来ないのだから。

 

 

ここであえて筆者が自慢したいのは、ずっと満足できない状況が続き、変化のほとんどが、自分にとって落ち込んでしまうようなものであっても、政権交代の定着が最も重要、左右の第1、2党を育てることがその次に重要だという、信念を持ち続けてきたことだ。だから大阪都構想の否決やバイデンの当選について、その市、その国に住んでもいないのに、動揺している人々については、多少なりともあきれてしまう(アメリカの状況は日本に大きな影響をもたらすが、トランプ政権には確かに危うさもあった)。

独りよがりなのではないか、自分が間違っているのではないかと思うこともある。いや、そんなことばかりである。自民党支持になれればどれだけ楽か。あるいは、「野党第1党は駄目だ、新党に期待する!」と、その少しの躍進で喜んでいられれば、どれだけ楽であっただろうか。しかしどれだけ考えても、やはり変わらなかった。であれば自分を信じるしかない。

筆者のような人間が左派政党を甘やかすのかとも思うが、左派政党の場合、その不遇のせいもあって、弱く、さらにはひねくれて、内部で最左派が強くなりやすい。このことを忘れてはいけないと思う(『政権交代論』「社会党の不運と中道の限界」等参照)。

「自民党内にしかまともな政治家がいないのだから、自民党を割って政界再編を起こすしかない」と言う人がいる。それは正確ではないと思うし、仮にそのような面はあっても、それが期待されたり、繰り返されたりしてはいけないと思う。そのような状況を生んでいる国民にも、責任はある。国会全体が日本国民全体の鏡なのであり、「野党第1党」を何度も与党にして経験を積ませたり、人材が集まるようにすることは、国民にしかできない。

筆者は悩み苦しみつつも、それでも変わることがなかった自分の思いを信じている。自分が正しく、他の意見が間違っていると考えるのは危険なことだが、言い訳をすれば、そのような議論ができる以前の状況だと思うのだ(それでももちろん、他者の意見にも耳を傾ける。長く産経新聞をとっていたし、保守系の動画も多く見ている)。

筆者は十代のころは社会党に肩入れしており、2000年からは民主党系に票を投じてきたが、社会党→民主党の支持者ではない。遠回りに見えても、野党第1党を育てるしか、政治の質を上げる方法が実はないと考えること(十代の時、周囲にそのような考えを口にする大人がいたという記憶はない。当時は直感的にそう捉えていたのだろう)、選択権を得たいということが何よりも大きな投票の動機であった。

理念や政策で選んではいけないと思う。まずは政権交代を再び「起こり得るもの」とし、真に理念や政策で選べるようにすることだと思う。それが実現し、政権交代が定着したら、その時、どの党に投票するか、じっくり考えてみたい。早くこんな当たり前のことを渇望する状況から自由になって、投票してみたいと願っている。

 

55年体制から残されている課題→

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