日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
共産党との協力をやめるのは本末転倒

共産党との協力をやめるのは本末転倒

これから立憲民主党では、共産党との連携の是非が問題になるだろう(代表選とその後の動きについては、少し間を空けて、改めて整理することにしたい。その際自民党総裁選、維新の代表選回避についても扱い、比較もしてみたい)。

小選挙区において自力で当選できる議員は、共産党との協力に否定的であって当然だ。当選さえすれば、共産党の存在は重荷になるからだ(共産党に限った話ではないが、共産党の場合、社会主義に対する拒否感等の困難ものしかかる)。かつての社会党の左派だって、共産党と仲が良かったわけではない。両者には大きな隔たりがあった。ともに社会主義国家を目指しつつも、現状解釈と手段に違いがあった。しかしそれだけではない。比較的近い面があり、共に労働者に支持を広げようとする勢力だからこそ、そこで競合し、互いの基盤を侵食されることを警戒する。日本には、社会党系が支持を失うと、共産党の議席が伸びるという傾向が確かにある。【左派陣営内部での議席の異動が、左派陣営からの票の流出を防いでいる】と前向きにとらえるほど、双方の関係は良くはなかったし、余裕もなかった。

社会党左派と共産党でさえ、なかなか相容れないのだから、社会主義を否定する勢力(社民系の勢力を含む)の場合はなおさらだ。特に今回(2021年)の総選挙後、共産党を含む共闘のイメージは悪化している。

れいわ、社民、国民民主は小党だし、国民民主に至っては総選挙の時点ですでに、共闘から抜けかかっていた。だから左派野党の共闘は、立共共闘とほぼイコールだと、見られても仕方がない。前からある程度批判はあったが、このところの立憲の共産への配慮は、両党の接近を感じさせ、国民の不安を強くした(他党に認められることは、共産党に対する警戒を弱める効果もあるから、共産党も立憲の姿勢を利用する)。自民党はこの状況を利用し、「立憲共産党」というネガティブキャンペーンを展開した。

今回の総選挙では、このことも災いして、立憲、共産ともに議席を減らした。すると一気に立共共闘のイメージが悪くなる。日本人は報道や空気に流されるところがあり、一度駄目だという印象が決定的になると、なかなかやっかいだ。これからは、以前のすみ分け程度の協力でも、「立憲共産党」という一体的な勢力だと、レッテルを貼られる(レッテルをはがしてもらえない)。今後国会において、対案路線の方に(少し)重心を移す場合、共産党とは協力しにくい。その上、共産党に近いと見られ続ける場合、立憲が変化したという印象は薄くなる。本当にやっかいな状況である。

一方で立憲民主党内には、共産党との協力に肯定的な議員も多い。それは左派とは限らない。共産党の票が乗ったことで当選できた議員は多く、彼らは共産党との関係が悪化することを恐れているはずだ。その中には、票は欲しいが共闘の印象は薄めたいという議員と、積極的に協力すべきだという議員がいるはずだ。前者は、共闘のイメージの悪化、維新の人気を見て、態度を変える事も考えられなくはない。後者はさすがに左派が中心だと思う。彼らの立共共闘に関する姿勢を、一概に否定的に見ることはできない。

ど真ん中より左の議員(候補)であれば、共産党に票を削られる面は多少なりともある。その議員が弱いということもありえるが、条件が悪いということもあるのだ(自民党より右に、有力な政党がない事を忘れるべきではない)。それに、共にど真ん中よりも左にいるのなら、たとえ自民党の方が距離自体は近いというようなことがあっても、立共の歩むべき道は、途中までは同じである(格差是正・貧困解消、権威と伝統からの自由)。立憲が自民と共に歩む場合、社会主義を採らないという点では一致しても、立憲は目指すのと反対の道を、歩かなければならなくなる。

もちろん、立憲と共産との協力に矛盾はある。共産党は表面上は社会民主主義政党のようになってきている。本来反対であった天皇制、自衛隊、日米安保(註)についても、国民の判断を尊重する姿勢を示している。しかし共産党は、立憲等との社会民主主義的な政権の先に、社会主義的政権を目指していることを否定していない。上の3つについて国民にゆだねるのも、筆者は全否定するつもりはないし、共産党も先の事として想定しているのだと言えるが、安易に国民投票にかけるべきテーマではないと思う(国民投票以外に何か考えられるだろうか。世論調査や通常の選挙結果を援用するなど、不明確な方法は許されないだろう)。多数派が明確に廃止を望んでいるということが先に明確になれば、民主主義国として、何らかの対応をすることは必要だろう。しかし現状はそうではない。そんな時にあえて投票をするのか。投票をすれば、反対の人々が反対を呼び掛けることになる。反対の主張を弾圧する事は、絶対にあってはならない。しかしわざわざそのような動きが起こるように、促す必要があるだろうか。

このこと、そして社会主義国を目指すということについても、立共政権の事前合意事項が片付けば、両党は袂を分かつことになる。しかし実際には、この両党が圧倒的な議席を占めるというようなことがない限り、それは難しいだろう。離れても展望は開けない。選挙協力だけは続けるというのも、一度与党という(強い)立場になれば、難しいだろう。

社共政権ができれば、保守政党は当然、その対抗馬としての存在意義を持つ。野党になったからと言って、弱りこそすれ、弾圧もないのに、短期で雲散霧消するわけがない。そのような状況で立憲と共産が手を切れば、保守政権が復活するだけだ(立憲と維新の連立が安定的にできた場合の方が、自民党の弱体化は進むと想像する)。

だから立共連立の未来には、それが穏やかなものであろうが、激しかろうが、両党の対立によって崩壊するか、共産党が社会民主主義に留まり、その先の社会主義化等を(表面上は)断念するかの、2つに1つしかない。筆者は政権運営に失敗しない限りは、後者になると思う。立共両党とも、民主党政権の記憶から(共産党は目撃者に過ぎないが、それでも)、まとまっていなければ、その先に惨めな境遇が待っていると、分かっているはずだからだ。

筆者は、立憲民主党と共産党の連携自体に、問題はないと思う。むしろ連携(による政権獲得)は、両党を現実的にして、保守陣営の緊張、刷新も招き、日本政治の質を上げると考える。

政権交代が実現した場合、与党間の対立が生じるリスクは、閣外協力であってもあるとは思う。しかし民主党政権の記憶を明確に持っている議員達がいる間なら、その民主党政権よりも、動揺する危険は小さいと考える(人材難はあるかも知れないが、外部に求める方法もある)。だから問題はないのだが、矛盾はあり、その矛盾自体は共産党の矛盾だと考える。その共産党を頼るのが、立憲の矛盾だという事ももちろんできるが。頼らなければ、【国民が選挙で起こす政権交代が無いに近い、定着していない国】から脱することはできない(百歩譲って万が一、再び「一度だけ」、「奇跡」の政権交代が起こるとしても)。

自民党だって公明党と、矛盾のある協力をした。公明党が基本的には自民党に合わせた。問題はやはり共産党だと考える。しかし一定の支持のある政党である。他党が見下したりすることは許されない。後は、共産党について述べる機会にとっておきたい。

さて、立憲民主党が、共産党との共闘について、肯定派と否定派(否定に近い修正派を含む)に分裂するという見方がある。筆者はこれに同意しない。単純に「また分裂か? また離合集散をやるのか?」と思われるだけだ。そんな愚行を繰り返すとは、とても思えないのだ。民主党系を買いかぶっているのかもしれないが、また繰り返せば、さすがに幻滅されると、理解できる議員達だと思っている。

民主党政権期、支持を失った同党では、何度も集団離党が起こった。その多くは下野後、民進党結成によって多くが再統一される形になった。その後の、希望の党騒動に起因する分裂についても、新たな立憲民主党として、多くが統一された(新たな国民民主党が結成され、また自民党に移る議員も続出して、取りこぼしが目立ったが、2012年に離れた小沢の政党が、旧国民民主党への合流を経て、統一に加わった)。ここでまた分裂すれば、民主党政権末期、希望の党騒動に続く、この10年で3回目の大分裂だと言えるし、「どうせ当選させてもらえそうな政党に逃げるだけでしょ? 合流する方が勝てると思ったらまた合流するんでしょ?」と思われるのが関の山だ。異なる党派の議員達が離合集散をするのは、時に必要だ。しかし支持の低下、不参加者の発生というリスクはある。それをほぼ同じ議員達で繰り返すのなら、目も当てられない。

代表選を見ると、旧立憲時代からの党員、党友を意識してか、共産党票に助けられた議員を意識してか、共産党との協力について、誰も明確に否定していない。中止するとも言っていない。あくまでも「修正する」というレベルだ(代表選後、両党の合意が活きているとする共産党を、泉健太新代表がけん制している。泉は国民民主党出身であり、共産党が非常に強く、民主党系としのぎを削ってきた京都府内の選出でもあるが、この「牽制」自体は、これまでの立憲とあまり変わらない立場であると言える。「協力が目立つようなことは言わないでくれ」という域を出ていないように思われるのだ。

考えてみれば枝野代表期にも、立共両党の議員達の、対談本が発売延期になっている。連合の圧力もあったのだろうが、発売延期などにせず、維新議員との対談本も企画すれば良いのだと思う。いずれにせよ泉立憲については、これからの動きを見ないと分からない)。連合は新会長になって、立憲と共産の接近を否定する姿勢が目立つ。もはや支持団体というよりも上部組織のように振る舞うようになった連合と、協力の見返りを求める共産党、このどちらを切り捨てても、選挙は厳しい。しかしこの両者は相容れない。参院選では野党第1党の地位を維新に奪われる危険もある。立憲の執行部は、引き続き綱渡りを強いられる。

筆者の考えを言えば、今の議席は衆参どちらとも、共産党との、協力の上でのものだ。共産党を軽視するのは、そもそも人の道に反する。仲間を簡単に見捨てるのはむしろ、国会で最も右の政党であった、たちあがれ日本の系譜だ(『政権交代論』「真の保守も何度もつぶれ仲間を見捨てる」参照。小池百合子もそれに近いところがある)。これを見習う必要はない。それに繰り返しとなるが、民主党系自体にあまり魅力がないならば(民主党政権の悪印象、総括の不十分さを含めて)、共産党を突き放して得られるものはない。今回、旧同盟系を中心にかなり離れた連合の票だって、どれだけすり寄ったとしても、簡単には戻らない(仮に連合の姿勢が軟化しても、組合員が投票するとも限らない)。そもそも日本は、労組の組織率が低いと言える。その中でも、大企業の労組が中心である旧同盟系は、自民党に投じる組合員が、実際には多いと思われる。この旧同盟系の性質のため、連合は、かつて小池百合子に飛びついた。民主党系と敵対する事になっても、お構いなしといった感じであった。こんなことが他国にあるのだろうかと思うし、筆者は今の連合には否定的だ。しかしさかのぼれば、民主党政権でやっと、欧米では当たり前の、労組を支持基盤とする中道左派政党の政権ができたのに、あんなことになってしまったのだから、連合には被害者という面も、少しはあると思う。

立憲民主党はこれから、自党の評価をもっと上げる努力をしつつ、共産党とも真摯に向き合い、同党とオープンに協議もして、変わる事も求め、全体的に共倒れを回避する工夫をしていくしかない。「何でも反対」と見られていることについては、かなり大げさに伝わっている面がある。追及のやり方を工夫する事も含めて、これを修正するのも重要だ。本当は危険な事だが、追及自体を減らす(スキャンダルについては避ける)ことも考える必用があるだろう。この時、追及をしても支持を減らさないであろう共産党と、役割分担をすることも、悪い言い方だが「同類」と見なされないような工夫をしつつ、試してみるべきだ。良くない表現を用いたが、多くの人が共産党の調査能力を認めているだろうし、役割分担をしている事を打ち出したりと工夫をすれば、双方が評価され得ると思う。

このような言い方をしなければならないくらい、状況は厳しい。立憲は今後、少しでも追及をすれば、「変わっていない」と批判される。かといって批判しなければ、「真剣さが足りない」、「勢いがない」などと批判される(これまでさんざん見てきたし、総選挙後の臨時国会の会期中にも再現された。このような評価がなされる事を批判せずに、民主党系の姿勢を批判するのは、民主主義国の国民として、自らの首を絞めるような行為だと思う)。方法はまだ分からないが、このような逆境を立憲は、なんとかはねのけなければならない。

今回、共産党との一定の協力までは国民の理解を得ていたものの、限定的な閣外協力で合意したという、その「閣外協力」という言葉によって、特に都市部以外で、許容範囲を超えたという見方がある(都市部であっても、連合が明確に非難したので、連合の旧同盟系の票は、ある程度離れたと思うが)。

今回の閣外協力は、実際には、自民党に対するこれまでの維新のような、好意的中立であったようだ(正確には合意事項に限って協力するという事。筆者は、常設の協議機関があれば閣外でも与党。それがなくても、恒常的に味方をしていれば準与党。政権奪取よりも是々非々の対応を明確に重視していれば、準野党と呼ぶ)、しかし立憲が用いた限定的な閣外協力という言葉は、連立政権の一形態とも受け取れる。これは、自らを含めた政権構想を求める共産党と、それを容認できない連合への、枝野立憲のギリギリの配慮であり、単独政権に限りなく近いビジョンだと言える。常設の協議機関を置かないのだから、多くの人の持つ閣外協力のイメージとは離れているような気がするが、言葉の一人歩きを許した点で、問題があったと言えなくもない。

しかし、かなり一方的に協力させられてきた共産党のことを考えれば、このぐらいの事は当然だ。これについて筆者は、いくら共産党にもメリット、狙いがあるとしても、「共産党はただ候補者を下げてくれればいいのに」というのは、やはり人の道に反していると思う。子どもの教育に良くないと思うほどだ。特に国民民主党にこのことを言いたい。結果的に共産党の候補も相手にして当選した議員も、同党にはいる。しかし「共産党がただ候補者をおろせば良いのだ」というような姿勢は、同党にも、かつての民進党にも、確かに見られた(立憲にだってないとは言えない)。

ここで述べておきたいのは、左翼政党と協力するのだから、左派政党が今こそ必要である事、共産党が閣外協力をする政権は危険ではなく、むしろ日本にとってメリットがある事を、あまり訴えられていないということだ。その「メリット」には、共産党がもっと現実的になる事も含まれて良い(それならば与党になった場合、最低でも常設の協議機関はあり、法案についても事前に協議、合意をするような、明確な閣外協力であるべきだが)。

優位政党を弱めるためだけのすみ分けにとどまるような協力も、あるいは排除されるべきではないのかも知れない。しかしその場合は、それこそ候補者予備選挙をやるか、共倒れの結果になる可能性が特に高いところ(どちらか一方が―というよりも立憲の候補だけなら―当選できる可能性がとても高いところ)だけですみ分けをする事、立憲が、今後長期に渡って絶対に勝てない選挙区の一部における擁立を断念する(民主党政権失敗のダメージが大きすぎて、良い候補者を得られないために、これまでも―事実上―やってきたことである)、という事が考えられる。不十分な面は、立憲自体の強化に努めるということで割り切るのだ。ただしそれでも、勝てない選挙区で候補者を立てないというのは、立憲の今後の成長を多少なりとも阻むだろう。

上で、左派共闘、左派政権のメリットが十分に訴えられていなかったとしたが、これには時間の制約もあった。しかしそれはつまり、路線を定めるのが遅すぎたということだ。もちろん、早期に明確にするリスクを考えての事なのだろうが、2019年、「せっかく」参院選で負けたのに、左派野党の合流、一本化にばかりのめり込んで、他の努力は、執行部の多くも、個々の議員の多くも、足りなかったのではないだろうか。

共産党とは協力するが、一体的には動かない。確実に投票してくれそうな左の有権者の支持を狙うが、そのような人々のための政党だとまでは、思われないように動く。枝野代表はギリギリの路線で縫うように進むしかなかった。筆者はこの枝野のやり方を評価している。しかしそれで結果が出なかったのなら仕方がない。同じ事をしていても勝てるわけではない。枝野路線で次こそは結果を出せるのだとしても、それだってやり方を工夫する余地はある。検証してみて、修正が小幅なものですむのか、大幅なものになるのか、可能な限り客観的に導き出す。1党優位の日本では、野党はそもそも、何をしても、何をしなくても「無謀」である。政権交代は今回間違いなく、結果としてはさらに遠のいた。であれば別の作戦を試してみても良いと思う。安易に右往左往してはならないから、「後でどうとでも言えること」で他者を批判するのではなく、前向きに試してみるのだ。

 

野党があまりに不利である状況を理解する事が、野党ではなく、国民のために重要→

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