日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
12. 薩長閥政府支持派に共通する傾向

12. 薩長閥政府支持派に共通する傾向

吏党系、衆議院の他の薩長閥政府支持派の状況を見ていくと、それらのほぼ全てに、同様の現象を確認することができる。ここで整理しておきたい。薩長閥政府支持派を、以下の4つとする(上の2つがここで、吏党系としているものである)。

・大成会と協同倶楽部(同時に存在していた時期があり、且つ双方に両属した議員も多かったため、一まとめとする)

・中央交渉部とその後継と捉えられる国民協会、帝国党、大同倶楽部、中央倶楽部

・公同会(既成政党の離党者を含む複数の会派が合流して結成された点でやや特殊)

・維新会と後継の新政会

これらに共通して見られる現象とは、次の①~⑤である。()内には、各項に当てはまる党派(①については該当する総選挙後に結成された党派)を記した。また後継の政党、会派としたもの、協同倶楽部については、③~⑤について該当する場合にのみ記した。

 

➀薩長閥(政府)寄りの勢力の形勢について、薩長閥側から明確なビジョンが示されないまま総選挙が行われる。

(大成会、中央交渉部、公同会、維新会)

 

②選挙後にとりあえず薩長閥政府寄りの議員が、中立的な議員も含めた会派を結成する。

(大成会、中央交渉部、維新会)

※公同会は、新たに成立した第2次松方内閣を支持し得る議員達が集まったという点で、②に準ずるといえる。

 

③姿勢を明確にしようとする過程で分裂する。(大成会、協同倶楽部、中央交渉部、国民協会、公同会、大同倶楽部、新政会)

※国民協会は明確な対外強硬派となったが、その後、姿勢が不明瞭になった。そして第4回総選挙後、第2次伊藤内閣寄り・自由党寄りの姿勢を明確にした際に分裂した。大同倶楽部は、結成直後に成立した政友会内閣に対する姿勢を要因として分裂を経験したため、該当すると考えた。

 

④分裂によって規模は小さくなっても、薩長閥(政府)寄りとして残る。

(大成会・協同倶楽部、中央交渉部→国民協会、帝国党、大同倶楽部、新政会)

※大成会と協同倶楽部は大成会の残留派として残った。中央交渉部については、国民協会不参加者が薩長閥寄りでなくなったというわけではないが、中央交渉部が薩長閥を支持する党派として存続せず、国民協会の参加者、不参加者の多くが共に、当初は薩長閥政府支持派であったものの、その後は国民協会不参加者の多くのみがそうであり、その後は唯一残った国民協会がそうなったため、該当すると考えた。帝国党結成の際には国民協会が参加者と不参加者に割れたものの、外部からの参加者があったことにより、規模は小さくならなかった。しかし立憲政友会への参加者が離れ、規模が小さくなった。

 

⑤総選挙で議席を減らす(総選挙前に解散した大成会、協同倶楽部、中央交渉部、維新会、新政会は対象外)

(国民協会、公同会、大同倶楽部、中央倶楽部)

※国民協会は4回の総選挙のうち3回で議席を減らした。帝国党は該当しないものの、国民協会の時代に減った議席の水準を維持したに過ぎない。旧大成会系の議員は引退する者も多かったが、選挙干渉も行われた第2回総選挙において、特に不利であったということはない。もし解散していなかったら、大成会は議席を増やし、⑤の例外となっていたかも知れない

 

①から④については、薩長閥が一致して彼らを重要視し、明確な旗の下で支援しなかったことが原因だといえる(ただし③における大同倶楽部は別である)。もちろん、そうしていた場合の、当選者の減少、中立議員の参加の減少による議席数の目減りも考えられる。しかし、そのマイナス面を補うような方策を、権力を握っていた薩長閥は取り得たとも考えられるのである。

薩長閥の一致に関して、確認しておきたいことがある。④の「薩長閥(政府)寄り」の薩長閥というのが、薩長閥政府全体ではなく、長州閥の山県系と伊藤系、そして薩摩閥という、少なくとも3つの勢力のうち、首相のポストを得て内閣を主導していた、1つの勢力である場合があるからだ。国民協会は確かに、薩長閥(政府)全体の支持派として結成された。しかし伊藤博文らは、選挙干渉が行われた当時の内務大臣であった品川弥二郎を副会頭とし、その受益者による勢力という面を強く持っていた国民協会を評価しなかったから、同会は事実上、伊藤系を除く薩長閥の支持勢力として船出したのだといえる。そして山県系の色を強くしていった。公同会は親薩摩閥であったし、維新会には山県系の影響力が働いていた。

 

 

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