立憲民主党より民主党の方が良かったのか?

立憲民主党よりも、以前の民主党の方が良かったという声を聞く。筆者はそうは思わない。民主党が政権を得たのは、奇跡的に多くの条件が重なったためだ(『続・政権交代論』「合流するなら取りこぼすな」参照)。むしろ民主党は、あまりに訳が分からない政党になってしまっていた。コロコロ変わる自民党に振り回された面も大きいが、社会党を色々な勢力で薄めていくような再編にも、限界があったのだと思う。

民主党はかつて、政権を取る事を最優先に変化し、政権を取ると迷走した。これ自体は他国でも起こり得る事だ。1党優位の日本ならなおさらだ。しかし、その1党優位が生んだ第2党だと言える民主党の芯のなさは、この迷走をより深刻にしたと思う。あまりにひどい政権だと見られる背景には、民主党の芯の無さがあると思うのだ。

しかし、芯があれば、政権は採れない。利権と経験で成り立っている自民党に芯はない。そこで野党第1党が芯のあるところを見せれば、一定の強い支持は得られても、それとは異なる国民が、また別の政党を求めるからだ。それがまさに、今回の総選挙で起こった。

立憲民主党は、民主党と比べれば芯のある政党だと、筆者は思う。しかしそれだけで優れた政党を意味するわけではない。だから成長する必要がある。合流によるひずみも民主党よりは小さいと思うが、克服すべきところもあると思う。だが最大の課題は、「芯のない政党」の時代を終わらせ、かつての、イデオロギー偏重の対立にも戻らず(自民党は反社会主義という以外には、芯がなかった。社会主義的な面すら、実際にはあった)、国民が政権を選ぶ時代へと、進む事である。「芯のない政党など話にならない」という見方、「異なる考えをしっかりと持つ政党から、政権を任せる政党を選び取りたい」という渇望が国民になければ、そこへは進めない。

その異なる政党の中で、欧米を見れば分かるように、社民系の左派政党は重要だ。欧米と日本では違うと言われることがあるが、国民性、民族性の違いはあっても、誕生する政党の種類というものは、どの国もある程度似ている。同じ、人間の作るものだから当然だ。遅れた国にだって、進んだ国の情報自体は入ってくる。

(今の)日本に非常に特殊な事情があるわけではない。文化は違っても、産業構造と、その変化の過程自体は欧米と似ている。日本は政治でも経済でも、欧米を追いかけてきたはずだ。それが最善だとは思わないが、代わりになるようなビジョンもまた、見出せていない。

であれば、中道左派政党を中心とする政権が時々はできるべきだ。それが一度実現したのが民主党政権だが、それが定着しなければおかしい。また民主党は、時期にもよるが、保守政党と捉えられることも多々あった。保守政党が人気を得ようとして左傾化して見せるのと、大衆、貧しい人々のために生まれる政党とを、同一視する事は出来ない(後者を美化しているのではない。あくまでも誕生の経緯による分類である)。この点立憲民主党は、他国の社民系の政党に比べれば不明瞭だし、保守を自称したこともあったが(旧立憲時代)、民主党よりは明確な、中道左派政党だと言える。

自民、公明両党はもちろん、民主党系も、労組という組織票、既得権益の政党だと言われる。しかし社民系とは、被用者という弱い立場の人々を守る(弱い立場の人々が団結した)政党である。それがエリート正規雇用のものになってしまっているのなら、改善すればよい(それができないと左右のポピュリズムが台頭する。だから左派ポピュリズム政党とし得る、れいわ新選組が伸びている。それで代替し、左派政党同士の交渉で問題を解決するという道もある)。しかし現状、つまり保守系である自民党の1党優位の政治では、弱者を救う面はあっても、それは自民党とのパイプ(の形成)が命綱になる、コネの政治に過ぎない。票や資金を献上する代わりに、便宜を図ってもらうというのは、封建政治の域を出ていない。いや、不正確だ。便宜を図ってもらう相手が、ほぼ一つの政党であるという点が合わさって、封建体制のようだという事だ。自民党は幕府のようなものだ。幕府だって絶対に倒せないものではないが、皆が受け入れれば、絶対的な存在になる。

日本は癒着の政治だと言うこともできる。新自由主義的な試みにおいてすら、もっとも厳しい環境にさらされたのは、「下部」の、一般の人々だ。競争で日本は伸びると言われながら、それが間違っているのか(≒左派政党の立場)、足りないのか(=新自由主義政党の立場)、日本はまともに成長せず、非正規雇用の拡大によって、「下」の競争、「下」への競争ばかり激しくなった。そんなに「下」でもない(あるいは全然「下」ではない)。公務員は、「下に合わせろ」と言われる(維新の会等)。上に合わせるのは非現実的でも、さすがにこれでは夢がない。いや、救われない(そこで教育を無償化するなどしても、なかなか消費は喚起されないだろう)。

もし経済的に救われることはあっても、封建体制に従順な者として縛りつけられた、つまり心の自由を失った上での「救済」である。自民党に見捨てられた場合、他に有力な政党がないのだから、自民党に抵抗する術はほとんどない(郵政民営化に反発した特定郵便局局長会→全国郵便局長会の民主党側への寝返りは、国民新党を通したものではあったが、民主党政権の実現で成功した。しかし例外中の例外であるし、今は自民党の支持団体の戻っている。それにそもそも彼らの場合は、既得権益という面が非常に大きい)。

日本国民はこの事を直視し、自民党が機能しない場合の「保険」、自民党に抵抗しなければならない時の手段として、叱咤激励しながら、左派野党(社会民主主義的政党)を育てていくしかないと思う。

これが新自由主義的政党ではいけないのか。新自由主義政党は必要だし、その改革が庶民のためになることもある。福祉を充実させても、国全体が沈んだり、高負担を押し付けてくるようになれば元も子もない。しかしそうは言っても、新自由主義政党は本質的には、犠牲を強いる事で変化を促す政党である。例えば問題のある規制でも、それに依存して生活が成り立っている人はいる。改革によってより良くなると言っても、確かではないし、タイムラグがある。

しかも日本の場合には、保守のカテゴリーに含まれる政党は皆、自民党に寄りたくなる。新進党など、第2党兼野党第1党でありながら、自民党との連立を目指した(その前に自社連立があるのだが、左派政党が自民党に寄ろうとする例はずっと少ない)。新進党の後継という面がある自由党は、自民党にいくつも改革を実現させた。しかしそれでも捨てられて左傾化したし、みんなの党も維新の会も、自民党を助ける傾向を強めた。自民党以外の保守系の政党を見ると、自民党に移る議員が本当に多い(復党も多いが、新しく入る議員も少なくない)。

社民的な路線には大きな歳出が伴う。これについては、維新の節約術を見習うこともすれば良い。もちろん格差を拡大させるような節約には、社民系の政党は慎重でなくてはならない。政治家が「身を切る」ことで、政治家を富裕層しか付けない職にするのも問題だ(筆者は、資金も地盤も相続できる世襲の制限を、何よりも優先すべきだと考える)。だが、大阪での維新は、競争重視の範囲内での、スタートラインの平等に特化している面はあっても、ある程度平等化も進めている。このあたりを精査し、かつての民主党の仕分けの総括もしつつ、さらには富裕層に対する増税を検討し(これはすでに立憲民主、国民民主の政策になっているが、国外に流出しないような策を国際的に求める流れを、主導する事を目指せば良い)、国債の増発も頭ごなしに否定せず、分配の財源を探せばよい(これもすでに両党が採っている)。これは富裕層を敵視する事と同義ではない。富裕層も大衆に支えられている。他者と無縁ではいられないと考え、状況によって多くの負担を求めるだけだ。筆者は、皆の収入を同じにすることなど不可能だと思うし、望んでもいない。

選挙で分配の話ばかりをすれば、「財源は?」となる。「財源は国債で」と言おうものなら、日本の借金はまだ心配するレベルではないと考える人々、それには統合政府論、さらにはMMTがあるが、それらを支持する人々からは評価され得る一方(別の点で支持されない事も当然あるが)、「バラ色の嘘っぽい公約」とか、「どうせ後で増税するんでしょ?」という批判がでてくる(増税を目指す勢力は、国民のそのような心理、態度を利用する)。これについても自らが信じるものを説き、訴えるしかないのだが、弱者を生むようにも、弱者に不利になるようにも無駄を削るのではなく、強いところにメスを入れると言った場合、反対する人がいるだろうか。枝野代表は『枝野ビジョン』において、もうできる事が、大きなものではあまり残っていないように述べていたが、まだあるのではないだろうか。

このような改革を伴うのなら、国債に依存する面があっても、許されると思う。国民に国債で(まだ)大丈夫だと言っても、不安が勝って、受け入れられない。維新が自分達の身を切る改革で信頼を得たように(そこにある程度トリックはあるとしても)、直接的な因果関係がなくとも、改革に取り組む姿勢を見せる事で、信頼を得る事が必要なのだ。

かつての改革競争は、結局古い自民党の勝利に終わった。それは改革の速さ、内容を競った結果とは言い難い。小泉自民党は、自民党から離れられない人々が多い事を利用した。これらの人々は、改革でダメージを受ける人々であるが、だからこそ、自民党にすがらなければ生き残れないと考える。権力のない野党には、このような人々の多くは向かない。野党は改革をアピールしても、一部の人々の支持を小泉自民党と分け合う事しかできなかった。これでは勝てないから、小泉自民の改革に不満を持つ人々の方を、向いた(これは民主党の代表に選出された、小沢一郎によるところが大きい)。これで改革競争は終了。自民党は自らの負担にもなる改革に、熱心に取り組む必要がなくなる(小泉の場合は、自民党の優位派閥であった田中派→竹下派を弱らせる狙いもあったから、それでも改革に取り組むことができた。しかし今度は小泉の出身地である清和会系―岸派の系譜で当時は森派―が優位派閥になり、小泉も去ったことで、それも終わった。そのすきを見て、改革派の渡辺喜美が自民党を離党。みんなの党を結成したが、小党では限界があった)。

民主党の支持基盤の労組には、小泉改革でダメージを受けるものもある(中曽根行革も、社会党の支持基盤の労組を弱めた。維新にも同様の傾向がある)。その小泉自民党は右に寄る事で、保守~右翼的な人々のうち、改革に否定的な人々が離反する事を防いだ(中曽根自民党にも少し、そのような面があった)。改革で多少は離れる支持を、右傾化を喜ぶ人々の票(それまでは棄権していたか、右翼的な議員、ミニ政党に投じていたような人々)で、補った面もあるかも知れない。

日本の右傾化は、おかしなことに対米追従でもある。これにも対抗するように、民主党は全面的に左傾化した。敗戦の影響で、日本の左右には、国防の問題も深く関係している。民主党は本来、国防については社会党の色を払拭しようとして、もがいてもいた。ところが、その社会党の非現実的な姿勢を軽蔑していたように見えた、かつての自民党幹事長小沢一郎によって、民主党は社会党への、「先祖返り」をしたのであった

自民党は利益誘導政党から新自由主義政党に、一時的にでもなったように見えても、そこにすら裏がある。強者が競争重視の路線にさらされるのではなく、弱者がさらされるということだ。新自由主義的な改革と聞いて思い浮かぶのは、道路公団や郵政民営化だが、国民全体にとって最も変化が大きかったのは、非正規雇用の拡大だろう。

筆者はこれらの改革も、かつての中曽根改革も、否定するつもりはない。賛成できるところは多い。これらは、アメリカの要望によるものだとも言われる。アメリカの財界が、日本の郵便貯金、農協の預金を狙っていると言われた。規制が緩められ、民業を圧迫している面があった郵便局の保険事業が独立・民営化させられると、つまり以前の強い立場を失うと、主にその分を取ろうと、アメリカの保険会社が日本に積極的に進出してきた。

これは国益にならない。だからと言って自由貿易の原則があるから、過度に国内産業を守る事もできない。しかし待て、と思う。アメリカの勢い、思惑が目立つが、日本の財界(民間)にとっても、これはマイナスではないはずだ。では、小泉の言った「痛みに耐える」とはどういうことか。

小泉改革で痛みを感じたのは、善し悪しは別として、民営化で競争にさらされた、公務員達であろう。これもしかし、民営化されたからと言って、皆が傷ついたわけではない。適正化された面もある。「財界」の中には、時代の変化に追いついていない人々もいる。それらが倒れたという話も、ほとんど聞かない。大企業の正規雇用も傷ついていない。傷ついているのは、望まずに非正規雇用になった人々(なっている人々)だ(中にはそのおかげで職を得た人もいるだろうが、そのような人々だって非正規が多いだろうし、そうであればやはり、いつどうなるか分からない)。厳しい就職活動を強いられ、そこで就職できず、正規雇用への道が閉ざされたに近い人々(主に氷河期世代)は、不景気と日本型雇用の犠牲者だと言える。しかし彼らだって、非正規雇用として使いつぶされている、改革の犠牲者でもある。

「痛みに耐えろ」と言っても、庶民が痛む一方で、全体的な構造があまり変わらないのであれば、弱い者いじめによる延命に過ぎない。改革が中途半端だからこそ、痛みの後の希望を得られない人々がいるという見方もできるだろう。それが新自由主義だ。これと社会民主主義が対立する。議論をして、解決のプランを国民に選んでもらうのが本当だ。ところが自民党は何だ。安倍、菅、岸田という歩みには。一貫性も、路線の明確な修正もない。自民党は小泉総裁期という例外を除けば、だいたいいつもあいまいだ。

維新の会が目指していると思われる通り、全体的に非正規雇用的(期間の定めがない契約でも、雇用の流動化が実現すれば解雇されやすくなる)にするのなら、その時の競争は深刻だろうが、スタートラインだけは、形式的には平等にできる。上で述べた氷河期世代にも、(職業訓練を受けた上で)チャンスがある。しかし今はそれすらない(実際には、そこにも不平等は生じ得るが、完全な平等など、そもそも無理だとも言える)。民主党政権も苦しい経済状況の中、支持基盤の公務員を守ったが、そのために公務員の新規採用が減った。この公務員についても、民主党政権期を含め、非正規化が進んでいる。

民主党の至らなさもあるが、改革の弊害について、自民党は不問とされる。改革の中途半端さについても、自民党は不問とされる。それでも自民党を支持できない人々はいる。しかし2012年からは、前者については民主党系が、後者については維新が受け皿となり、その両党は相容れないから、自民党が何をしても生き残れる。

立憲と維新、違いはあるが、改革を何でも新自由主義として敵視したり(立憲)、一般の公務員を敵視したり(維新)せず、手を取り合って、強者をこそきたえる改革(例えば優遇を一度弱め、機会を活かすための、能力とやる気に応じた公正な支援を強化―第三者も入れて判断―)をして欲しいと筆者は思う。手を取り合うとは、別に合流するという事ではない。自民党を【弱いのに強い政党】のままにしておく事で、深刻な事態になることを避けて欲しいのだ。

ここで問題になるのが、もはや国際競争の中で、大企業すら強者ではないという、やっかいな問題だ(だからこそ、きたえなければいけないわけだが)。大企業を大事にして、生き残らせなければ、日本が急速に沈む危険がある(弱った競争力の維持についても、雇用についても)。かといって、助けないと生き残れない企業を助け、日本が経済大国の地位を取り戻せるだろうか。今回の愛知11区での民主党系の不戦敗は、この事を我々国民に問うている。以上については、連合について述べる際に続けて考えるが、筆者は今回の総選挙の前、このあたりで思考停止になっていた。これについても反省している。

ともかく今、立憲はまず、これまでの路線を引き継ぎ、包み、修正するしかない。その中で、あるいは左派政党としての最低限の取り組みに加えて、これだけはやりたいというものを前面に押し出して、アピールする事が重要だ。それもかつての高速無料化のように、善し悪しは別としても気になる、変化を感じられる政策をだ(高速道路無料化自体を高く評価しているわけではない)。反対する人も、気になり、変化を感じれば、流れができやすくなる。これについては枝野も弱かったと言える。

 

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