日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
小沢系と維新の会の共通点

小沢系と維新の会の共通点

小沢一郎の自由党(2003年に民主党に合流する前の自由党)と、維新の会には似たところがある。次の通りだ。

 

①自民党を離党した新自由主義的改革派

自由:自民党を離党して新生党を結成 →新進党→自由党→民主党→国民の生活が第一→日本未来の党→生活の党→生活の党と山本太郎となかまたち→自由党→国民民主党に合流→立憲民主党との合流に参加

維新:自民党を離党して地域政党として大阪維新の会を結成 → 民主、みんなの離党者を参加させて日本維新の会を結成 → たちあがれ日本系を吸収 → たちあがれ系と離れて結いの党と合流し、維新の党に → 維新の党を脱しておおさか維新の会を結成 → 日本維新の会

 

②動機に主導権争いも

自由:自民党竹下派の後継・主導権争い:小渕(橋下や梶山が支持)か羽田(小沢らが支持)か

維新:大阪での主導権争い:大阪市議会議員と大阪府議会議員『ルポ 橋下徹』107~112頁)

 

③左派嫌い

自由:新生党時代に社会党と連立するも対立、社会党左派の排除を画策

維新:大阪改革で公務員労組と敵対。国政では民主党系(の左派)との合流に抵抗し、維新の党を離党

 

④自民党寄り

自由:新進党時代に自民党との連携を模索するようになり、同党解党後に自由党を結成、連立が実現

維新:大阪に関して国政の助けが必要だった事、自民党の有力者と近かった事から自民党に協力的になった

 

⑤他党と合流してつくった新党を壊そうとする

自由:新進党の小沢党首らは自民党と連立を組もうとしたが党内で広く理解を得られない中、新進党を解党(直接の原因、口実は、遅れて新進党に合流するはずの公明系が合流を渋った事)

維新:日本維新の会も、大阪派等が目指した結いの党との合流について、自民党寄りの旧たち日→太陽系が反対したことで分裂したが、その大阪派等と結いとが合流してできた維新の党では、自民党寄りとなった大阪派が、民主、共産両党との接近、民主党全体との合流を目指す事に反対して離党(分党で合意)。

第3極の離合集散についてはこちらの図をご覧ください →

 

⑥根強い人気・根拠地がある

自由:離合集散を経たが、一定の支持を得ていた。岩手県に強固な地盤。

維新:離合集散を経たが、一定の支持を得続けている。大阪府内で首長を多く出し、根を下ろしている。

 

⑦ここで分岐するか?

自由:自民党に改革案をいくつも吞ませたが、強硬姿勢を嫌う自民党に捨てられ、小泉改革による格差拡大を見て、左傾化・民主党に合流

維新:現段階では、基本的には他の野党と協力せず(国民民主党は例外だし、一致する点での協力を全否定はしていないが)、法案を提出することなどで、菅義偉内閣期よりも改革に後ろ向きになった自民党を、揺さぶろうとしている。

(大阪という大都市が地盤であり、そこでの改革が広く支持されている分、自由党よりずっと強いが、それだけに全国政党のイメージは、自由党より薄い)

 

もう一つ共通点を挙げたい。小沢系も維新も、軍隊的て団結力が高く、時に高圧的という印象があるが、それは置いておく。もう一つの共通点とは、共に自民党に寄っている公明党とライバル関係に、事実上あった(ある)ということだ。

改革派の自由党、維新の会の政党支持率が、公明党のそれより高いとしても、確かな創価学会票を持つ公明党の方が、自民党にとっては魅力的だ(公明党の議席も減りにくいし、自民党にも、票を献上している)。また、あまり「改革、改革」と言わずについてきてくれる公明党の方が、扱いやすいのだと言える。

今後、国政の土俵の中央に進まざるを得ない維新がどうなるか、⑦に注意しつつ、少しの期待と大きな不安を抱えたまま、見つめていくしかない。

とは言ったものの、維新の会と自由党には決定的な違いもある。それは小沢が、野党第1党の民主党を立てていたことである。新進党がうまくいかなくなった背景に、総選挙における民主党との共倒れがあり、さらには、新進党内の小沢支持派以外が、民主党と接近していたことも、あったにもかかわらず。

筆者は、小沢については批判的に見る事も多いが、この、重要な時に譲る事ができる点ではすごいと思う。今の野党は維新も含め、コミュニケーション能力が著しく低い。他の勢力に対して謙虚さがない、プライドの塊だ。

ここで確認しておくと、新進党の解党にはいくつか理由がある。直接のきっかけとなったのは、創価学会の腰が引けた事である。新進党は、自社さ連立で自民党が与党に戻った後、野党に戻った羽田内閣期の与党(新生党等の自民党離党者に寄る党派と、公明党、民社党、日本新党)が合流したものだ。日本新党も特別な基盤のない議員政党で、小沢らに批判的な議員達はすでに離党していたから、合流についての障害はなかった。しかし公明党と民社党にはそれなりの歴史があった。特に公明党は、地方自治体において、長く優位政党であった自民党と組んでいるケースも多く、公明党を敵視した自民党が、政教分離に関して公明党を攻撃するようになった事もあって(公明党は一時、非自民連立では与党であった)、苦しんでいた。自民党が万年与党に戻る可能性があったわけだから、怖かったのだろう。

そこで、民社党は新進党においてしばらくはグループとして残る形が採られ、公明党についてはさらに、2段階での合流が決まった。公明新党と公明に分党し、前者が新進党の結成に参加、1998年改選の参議院議員と地方議員からなる後者は、遅れて新進党に参加するというものだ。参議院議員では新進党と公明の統一会派が結成された。

⑤で触れたが、この、既定路線であった公明の新進党合流を小沢党首が求めた際、公明は慎重な姿勢を示した。

新進党解党の背景には、他に、非自民連立の崩壊を招いた小沢の独走、独裁的な手法に対する批判、それを理由(口実)とする離党の動き、1996年の総選挙での不振(前年の参院選は、民主党がまだ存在しておらず、つまり自社さvs新進党という1体1の構図に近く、新進党は、自民党出身者、旧同盟系労組、創価学会の組織票と、非自民票が合わさったことで大きく躍進していた。同時に、比例では自民党を上回っても、選挙区ではそうはいかないという問題も見えた)、その後、小沢党首が自民党との連立を目指し、それに対する反発があった事があった。

そして、党内不和とリンクするものとして、新進党内において、小沢と同じ自民党出身者に増えていた反小沢派が、民主党(小沢に反発して非自民・非共産連立を離脱した社さ両党から生まれた政党)との、小沢の影響力を弱めるような協力、再編を模索していた事がある。1996年の年末には、社さ離脱後の非自民連立であり、社さに倒されたとも言える内閣で総理を務めた羽田孜らが、新進党を離党して太陽党を結成し、民主党と組む姿勢を見せた。

この反小沢の保守系だけでなく、旧民社党系も、小沢が新進党を解党した後、多くが民主党に合流した。小沢は新進党を純化する形で自由党を結成したが、その参加者が想像以上に少なく、新進党出身者が民主党に合流する前にすでに、衆議院たった52議席のまま、民主党が第2党・野党第1党になっていた。

小沢がすごいのは、皮肉のようなところもあるとしても、このような事があった後、民主党を自身の自由党も含めた野党の、「長男」か「先頭車両」と表現して(具体的にどう例えいていたか筆者の記憶はあいまいで、まだ確認していないが)、そのリーダーシップの発揮を求めた事だ。後には共産党とも協力するようになった。小沢と仲違いした羽田も、自信を総理の座から引きずり下ろしたと言える民主党に、合流するという、器の大きさを見せた(羽田と同じ、新進党内の自民党出身・反小沢派であった岡田克也も、民主党→民進党代表時代、下記の江田憲司と共に、共産党との協力に動いた)。

左派系であっても野党第1党を立てるところは、維新の党出身の江田憲司、橋下徹にもある(橋下は枝野に、彼が第2党・野党第1党の党首であるからこそ、共産党も含む野党の、候補者予備選挙を要求をした)。しかし維新の会にはない。野党第1党を批判する事しかしない。その内容には頷ける点も少なくないが、不快感を覚える表現、しつこさもある。柔軟性が欠如している。

次の総選挙で、維新が小選挙区で大きく伸びて、自民党の挑戦者になるのは難しい。まずは、小選挙区制の特徴を利用して、「野党共倒れ」を起こす。そのためにも、立憲の支持率低下を狙った発信を続ける。維新自体の評価、議席が減る心配は、元が低い、少ないだけに、しなくて済む(大阪で立憲に負ける事はないだろう)。

こうして、立憲民主党の獲得議席の大幅な減少によって、維新は相対的に、つまり自分達の議席はあまり増えなくても、まずは第2党・野党第1党になる。現実的に、維新はこれを目指しているとしか考えられない。少なくともそのような効果のある手法を採っている。間違えてそうしているのなら、無能だと言わざるを得ない。いずれにせよ、これはあまりに非生産的である。

対して小沢の潔さは、最終的に政権交代を実現させた(この民主党政権の問題点についてはこれまで多く述べている)。その一過程である2000年の総選挙では、自由党も民主党も伸びた。民主党の伸びは、野党第1党としては小さかったと思うが、それでも重要な一歩になっている。その前の自自連立については、自民党にすり寄り、優位政党として延命させる行為であり、筆者は否定的だ。しかしそれもキャスティングボートを握れたからそうしたのであって、実際に副大臣、政府委員の答弁の廃止(大臣がすぐに官僚に答弁をしてもらう状況を改めるため、答弁可能な官僚がごく一部に限られた。ただし官僚でないと難しい面もあり、よりハードルの高い、政府参考人制度ができた)、党首討論の導入、衆議院の定数削減など、いくつもの国会改革が実現した。その後、他の意図はあったのだとしても、合意事項が実践されないと見て、連立を離脱したのである(他の意図とは自民党とのしっかりとした選挙協力、自民党との合流―によって自民党の動揺を誘う―という、自分達の生き残り策でもあったようだ)。

一方維新の会は、あいまいな「ゆ党」であり、与党の過半数割れすら起こせていない。維新の会には自由党を見習ってほしい。同じようにすれば良いという事ではなく、それを踏まえて、より深刻な問題について、建設的な歩みをして欲しい。もう少し建設的な戦略を持ち、コミュニケーション能力も身に付けて欲しい(これについては、立憲と維新が小会派に質問時間を分ける事で合意したという、朗報があった)。

 

追記:維新の会は国民民主党と、ガソリン税のトリガー条項凍結解除(「予想通り自民党にぶら下がった、政策軽視の国民民主」参照)で一致し、法案を共同で提出する事となった。しかし、国民民主党が自民党政権の予算案に賛成し、自民党と独自に交渉するようになると、維新は共同提出を取りやめた。

自自公連立を離れた頃までの小沢系も、維新の会も、共に保守系だと言える。保守政党が複数ある場合、そこには理念や政策を軽視した、権力闘争が起こる。戦前の2大政党も、それぞれ議会の力、政党の力を強くするために努力してきたはずが、相手に勝つためなら、それを捨てるような攻撃をした。例えば、天皇の大権を犯しているという批判だ。

戦後は、同じ自由党の、吉田茂と鳩山一郎のケンカによって、保守系の政党の離合集散が加速した。両者の間には、鳩山が自主憲法制定、再軍備を志向するなど、明確だとし得る違いもあったが、それも、総選挙で第1党となり、総理の地位を目前とした時に公職追放となった鳩山の、アメリカに対する恨みと一体的なものであった。その恨み、けんかのために、不信任案や問責決議案を巡る駆け引き、短期間での衆議院の解散が繰り返された。

小沢一郎については言うまでもないだろうが、竹下派内の権力闘争に敗れ、同派を離脱、さらには自民党を離党した。小沢は政治改革を唱えたが、筆者には権力闘争にしか見えなかった。その後の小沢は、自民党を割ろうとしたり(実際に小さくは分裂した)、民主党と組んでみたり、自民党と連立を組んでみたり・・・。そして民主党に合流、政権を獲得したにもかかわらず離党、その後また民主党系に合流と、それぞれ理由はあるのだが、離合集散を繰り返している。

維新の会は自民党寄りであったが、それは正確には自民党に寄っていたのではなく、菅・安倍に寄っていたに過ぎない(万年与党の自民党に寄らないと、中央集権の日本では、大阪で目指す事を実現させる事が難しいわけだが、それでも、自民党全体に寄っていたとは言い難い)。今は野党的に振る舞う事も少なくないが、菅・安倍については、維新は相変わらず肯定的だ。

野党が怖くない自民党では今、かつてのように内部対立が激しくなる可能性がある(内紛をしていても、野党には負けないという安心感があるからだ)。その時、維新がこれに関わることはほぼ確実だと、筆者は思う。それが理念、政策を軸としたものならば、あるいはそうでなくても、せめて日本が良くなるという希望を伴うものであれば、筆者もそこまで否定はしない。しかし少なくともこれまでの権力闘争が、何か日本のためになった、国民に選択肢を用意したという事は、ほとんどないだろう。最近の情勢を見て、そういった事も思い出したところである。

 

維新の会はやはり共産党であり、かつての民主党→

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