日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第3極・実業派の動き・離党者の性質・新民党(③他)~甲辰倶楽部の性格~ 註

第3極・実業派の動き・離党者の性質・新民党(③他)~甲辰倶楽部の性格~ 註

註1:奉答文の再議を主張していたのは帝国党、中正倶楽部、交友倶楽部の非新潟進歩党系等であった。前山氏は、政策、方針の一致なく、提携のために憲政本党に議長を譲ったこと、その議長の奉答文を再議すべきだという自身の主張が容れられなかったことを原因とする、1904年1月10日付防長新聞に掲載された小河源一の立憲政友会脱党理由を示している(前山亮吉「甲辰倶楽部と日露戦時議会」120~121頁-)

註2:第8章で見た通り、立憲政友会の離党者の多くは、伊藤の専制、それに従う幹部に不満を持っていたと言える。しかし前山氏が具体例として挙げている小河は、議長を憲政本党に譲り、奉答文の再議を幹部の圧力で無効にされたことを離党の理由とするものの、不再議反対が直接的な離党の原因だと言えそうだ。また自由党の土佐派や関東派はこれまで見たことから、彼らが自由党系の中心であれば、専制に特に反対しないのではないかと思われる。そうであれば、専制批判は権力闘争のための大義でしかない。

註3:そうであったからこそ、伊藤博文が抜けた立憲政友会を中心とする第1次西園寺内閣が成立した後、同内閣、立憲政友会になびく議員がいたのだと、考えることもできる。また、大同倶楽部の非幹部派には立憲政友会離党者が少なからずいたから、彼らが大同倶楽部の幹部専制に反発したと考えることもできる。立憲政友会離党者で非幹部派であった議員の多くは会派自由党出身者であると見られ。その中には大浦の指揮下に入った、つまり明確に山県系となったと見られる議員もいるが(本章(準)与党の不振・野党の2択(⑧)~大同倶楽部分裂の兆し~参照)、甲辰倶楽部を経ている、非幹部派の立憲政友会離党者について、大浦の影響下にあった議員がいたことは確認していない。

Translate »