2.キーワードで考える日本政党史

序章 ~第1回総選挙まで~

① 明治六年の政変

明治新政府を実際に動かしていたのは、明治維新の原動力となった、薩摩、長州、土佐、肥前4藩の藩士達であった。彼らは参議という地位に就いていた。その一部であり、欧米を周る岩倉使節団の留守を預かっていた者達が、鎖国を続けていた朝鮮への出兵に動いた。帰国した参議の大久保利通達はこれに反対、中止に至らせた。そして征韓派の参議とそれに連なる人々が、1873年に下野した。

 

② 自由民権運動

明治政府を辞した板垣退助達は、足がかりを失った政府(行政)と分立する、国会(立法)という場において政府に対抗しようとし、国会開設を求める自由民権運動を起こした。板垣らは、さらに1874年に愛国公党を結成したが、民撰議院設立建白書を政府に提出すると、消滅した。板垣は地元土佐(高知県)で、同年にも立志社を結成した。

 

③ 参議の変動

1875年、大久保は、かつて参議であった木戸孝允、板垣と話し合い(大阪会議)、立憲政体樹立の詔を出すという歩み寄りを見せ、板垣は木戸と共に参議に復帰した。また板垣は、愛国社を結成した。これは消滅するが、1878年に再建され、東京以西では、地域を超えた広がりを見せる。政府と考えの異なる板垣は1876年、大阪会議の約束の1つ、内閣・諸省分離を求め、これが入れられないと、再び参議を辞任した。大久保は1878年に暗殺され、政府の実権は、明治六年の政変後に参議となっていた、伊藤博文(長州)らへと移っていく。不平士族が中心であった国会開設を求める運動では、豪農商の比重が高まっていった。また、運動の地方系と東京系への分化、つまり自由党を結成する板垣らと、大隈と共に改進党を結成する勢力への分化が進む。その過程において、愛国社では立志社(土佐派)主導に対する不満が高まり、1880年、全国規模の国会期成同盟へと、仕切り直しがなされた。

 

④ 明治十四年の政変

西南戦争等、多発した不平士族の反乱の鎮圧は、日本の財政を悪化させた。これは大久保の積極財政を継承する大隈重信(肥前)、薩摩の多数派と、それにブレーキをかけようとする井上馨(長州)、松方正義(薩摩)らとの間に、溝を生じさせた。大蔵卿を務めた大隈は、後者の主張を一部受け入れた。1881年、北海道開拓の国家事業を、それを推し進めてきた薩摩出身の参議、黒田清隆開拓長官が、同じ薩摩出身の政商、五代友厚の貿易会社などに安く払い下げようとしたことに反発が起こった。大隈前大蔵卿は、政費節減のために払い下げを進める立場であったが、この件には批判的であった。本来薩摩閥と近かった大隈であったが、当時は孤立していた。大隈の立憲政体に関する意見書が、議院内閣制を唱え、1883年にも国会を開くという急進的なものであったこと、それにもかかわらず、明治政府においては共に進歩的であった伊藤らにも相談していなかったこと、そのために自由民権運動との繋がりも疑われたことによる。薩摩閥は議会開設に消極的であったし、伊藤、井上馨は漸進的であった。薩長閥の要人たちは、ドイツ帝国流を志向する井上毅らの影響を受けることとなる。こうした中、政府は、1890年の議会開設を約束する国会開設の勅諭を出し、同時に大隈は下野に追い込んだ。こうして明治政府は、薩長閥の比重をより強めた(以後、薩長閥政府とする)。1881年10月に大蔵卿に就任した松方正義は、デフレ政策を採った。これには、政府に対抗しようとする勢力を資金難に追い込んでいく効果もあった。

 

⑤ 自由党、立憲帝政党、立憲改進党の結成

国会開設の勅諭が出された後の、1881年10月、国会期成同盟は自由党を結成した。福地源一郎、嚶鳴社、九州系を含めた政党の結成は流れ、それぞれ別の勢力を形成した。党の総理には板垣、副総理には中島信行が就いた。大阪では同月、自由党の別動隊とされる、中島同党副総理を総理とする立憲政党が結成された(板垣は総理就任を固辞、1883年3月解散)、そして1882年4月には、立憲改進党が結成された。同党は嚶鳴社(沼間守一、河野敏鎌、島田三郎、肥塚龍、角田真平らで、党内では左派となる)、東洋議政会(矢野文雄、藤田茂吉、箕浦勝人、犬養毅、尾崎行雄の慶応系で、党内では右派となる)、鷗渡会(小野梓、高田早苗、天野爲之ら)などの、大隈と共に下野した者達を含む、東京等の知識人達、その影響下の民権派が合流したものであった。党の総理には大隈、副総理には河野敏鎌が就いた。この野党の結成に対抗して、福地源一郎らが1882年3月(立憲改進党の結成前)に、薩長閥政府支持の立憲帝政党を結成した。九州系は1882年3月、自由民権派が九州改進党を結成したが、玄洋社等、国家の発展を最重要視して国権派となった勢力は、参加しなかった。政府は1882年6月に、自由民権運動を取り締まるための集会条例を改正し、政社(政治結社)間の連絡、政社の支社結成を禁じた。これは特に、地方型の自由党、後の、分裂した旧自由党系の連携に打撃を与えるものであった。

※立憲帝政党については、兼近輝雄『日本近代政治史』Ⅰ339~344頁が詳しい。

 

⑥ 板垣と後藤の外遊

1882年11月、自由党の板垣と後藤は薩長閥政府の援助を得て外遊をした(1883年6月帰国)。これは立憲改進党だけでなく、自由党内からの反発をも招き、1883年、馬場辰猪、末広重恭、大石正巳ら国友会が離党して、独立党を結成した。外遊の費用が、政府の働きかけによって三井から出ていたこと、立憲改進党が三菱と近かったことなどを挙げ(大隈は大久保と共に三菱を助成した)、2大野党は、互いを批判し、対立した。国友会は本来、立憲改進党へと進む東洋議政会の、前身の諸勢力と協力関係にあった。しかしその中では急進派であり、組織化が進む過程で分立した。

 

⑦ 激化事件と政党の活動停止

1878年、選挙権地租5円、被選挙権同10円以上とする府県会規則が制定された。これを受けて、各府県に府県会が開設された。1882年、河野広中ら福島県会の自由党系議員や農民が、県令の圧政に対する反発などから運動を起こし、逮捕された。自由党員等の激化事件が続けて起こる中、松方デフレの影響も強く受け、資金面でも追いつめられた自由党は、星亨が反対したものの、1884年10月に解散した。九州改進党も、1885年5月に解散した。立憲改進党でも、集会及政社法による取り締まりの対象から外れる利点もある、解散論が浮上した。結局、大隈総理、河野敏鎌副総理等の離党にとどまるも、総理(党首)のポストが廃止され、党としての活動は低迷した。準与党ながら、民党に対して優位に立てなかった立憲帝政党は、政党に否定的な姿勢を固めた薩長閥政府から、解散か絶縁を迫られ、1883年9月に解散していた。1885年には、朝鮮に革命を起こそうとした自由党系の大井憲太郎らが逮捕されるという、大阪事件が起こった。

 

⑧ 第1次伊藤内閣、黒田内閣と、大隈、後藤の入閣

1885年12月、内閣制が設けられ、第1次伊藤博文内閣が成立した。1888年2月、大隈が外務大臣として入閣した。大隈入閣には以下の背景があった。井上馨外務大臣の列強との条約改正交渉が、欧化政策や、外国人の裁判への外国人判事任用案や、外国人の行動の自由の拡大について、国内の反発を招き、それによって長州閥はダメージを受けた。自由党は解党していた。これによって、大久保没後は長州閥に比して振るわなかった薩摩閥、そして立憲改進党が浮上した。その薩摩閥の黒田清隆が大隈入閣を提案した。立憲改進党は、大隈と同党との関係が従来通りだと公表することなどを大隈入閣の条件にしようとしたことなどから、入閣は遅れた。井上馨は議会開会後の多数派形成のために大隈を引き入れようとし、伊藤に、民党の弾圧か、政府党結成以外に道はなく、大隈と組まない場合、倒閣運動をしている板垣、後藤に包囲網を形成されると進言、入閣が実現した。大隈は、続く1888年4月成立の黒田内閣に留任した。黒田内閣には、自由党系の後藤象二郎が逓信大臣として入閣した。

※特に、福地惇「矢野文雄と明治二〇-二三年政界再編成」参照。

 

⑨ 大同団結運動

初めて行われる総選挙まで3年ほどとなった1887年10月、自由党系の片岡健吉が、元老院に言論の自由、地租軽減、不平等条約の改正を求める建白書を提出した(関税自主権の回復が実現すれば、輸入関税を引き上げて、その分地租を減らすことができる。薩長閥政府にとっては、そうではなく積極財政の助けになるということもできる)。これは当時起こっていた後藤象二郎、星亨の大同団結運動と共に、自由民権運動を再燃させた。後藤と星は自由党系であったが、大同団結運動には改進党系からも参加があった。後藤は参加者の質も含めて穏健化を策しており、その点では改進党系、井上馨の自治党系(本章⑫参照)と協力し得た。これらの動きには、板垣、大隈は関わっていなかった。1887年に定められた保安条例によって、星や、改進党系の尾崎行雄、また片岡健吉らが東京を追放された。さらに、1888年3月、指導者であり、薩長閥との連携の実現も考えていた後藤を薩長閥政府に引き抜かれ、運動は動揺した。後藤は諸勢力の連携のために丁亥倶楽部を結成することを発表していたが、このような動きが有効であり得るのは、明治政府の元参議であり、その地位を捨てて自由民権運動の要人になったという、朝野双方におけるキャリアがあってのことであった。同様の板垣退助が直ちに積極的に動かなかったこともあり、運動は分裂した。こうして1889年3月、大同倶楽部(政党化を志向する後藤系で、後藤入閣を支持する穏健派から、反対する比較的急進的な勢力までが含まれていた)、大同協和会(後藤入閣に反発した大井憲太郎ら急進派)が結成された。後藤は諸勢力の連携強化のために丁亥倶楽部を結成することを発表していたが、自らの入閣がその挫折を招いたのである。1890年5月、双方をまとめるため、板垣ら土佐派等が愛国公党を結成した。大同協和会は、集会条例よる取締対象となることから、大同倶楽部を結成した者達の唱える政社化を、時期尚早だとして結成されたのであった。しかし愛国公党ではなく自由党の名称を用いるべきだという立場から、先に自由党の再興を宣言していた。立憲改進党、九州地方の民権派は、独自色を強めた。

 

⑩ 大隈外務大臣の遭難

大隈が不平等条約改正のために、外国人の裁判について、外国人判事の任用を認めようとしたことに、民権派、国権派は反発した。そして大同倶楽部、大同協和会、保守中正派(本章補足~政党~参照)、九州の国権派の連合等が共闘した。一方、事実上の指導者であった大隈と主張を共にした立憲改進党は、苦しい立場に立たされた。そして1889年10月、政府内にも反対がある中、玄洋社の一員に大隈が重傷を負わされ、黒田内閣は総辞職、三条実美の暫定内閣を経て、12月に第1次山県内閣が成立した。玄洋社とは、1879年結成の向陽社を前身とする、1881年結成の国家主義、アジア主義の結社であった。中心となったのは、自由民権運動に参加した福岡県の不平士族であった。

 

⑪ 大日本帝国憲法

1889年2月、大日本帝国憲法や衆議院議員選挙法が公布された(施行は1890年11月)。内容については第1章以降で必要に応じて確認するが、憲法に内閣に関する記述はなく、その内閣制でも、総理大臣は調整役、代表であり、他の大臣を従える、日本国憲法化のそれとは異なっていた。その総理大臣は、議会で選ばれるのではなく、天皇が決めることになっていた。実際には伊藤博文、山県有朋、松方正義ら元老が、人物を推薦することで、その選定権を握っているといってよかった。帝国議会においては、政党が進出するであろう衆議院を、予算の先議権がある以外は貴族院と対等なものとした。これによって衆議院において野党が自らの法案を可決させても、野党が少数派になるであろう貴族院で否決してつぶすことができた。野党は衆議院で多数派となっても、法案を否決してつぶす、拒否権を持つに過ぎなかった。ただし予算案については、不成立となっても、前年度のものを執行することが可能であった。議会閉会時には天皇の勅令によって法律事項が決まり(次の議会で承認されなければ、以後無効)、議会の会期もあまり長くなかった(通常議会のみが開かれる場合、年に実質3ヶ月)。このように、衆議院の影響力を限定する制度づくりがなされていた。薩長閥は政党内閣の実現を阻み、仮に実現しても、その力が小さくなるようにしたのである。なお、憲法発布大赦により1889年2月に、自由民権運動の要人たちのうち、獄中にあった者は出獄し、保安条例によって東京を追放されていた者は、解除となった。

 

⑫ 自治党構想の失敗

長州閥の井上馨は、名望家を基盤に政府支持政党を結成し、穏健な立憲改進党を吸収することを考え、1888年に動き始めた。しかし薩長閥政府内で支持を得られず、また野党に対抗し得るという展望も開けず、断念するに至った。ただしこれに呼応した勢力は自治党と称し、あるいは呼ばれ、第1回総選挙に臨んだ。

※特に、坂野潤治『明治憲法体制の確立』、佐々木隆『日本の歴史21 明治人の力量』参照。

 

 

補足~政党~

保守党:保守中正派、保守党中正派とも呼ばれる。長州出身の鳥尾小弥太が、欧化政策に反対する国粋保存論を唱えて1888年に結成した。神官や僧侶、守旧派官僚からの支持を得た。第1回総選挙後は鳥尾他1名が貴族院議員、3名が衆議院議員となり、うち2名が大成会に属し、1名が無所属となったことが確認されている。薩長閥政府に批判的であったこともあり、予算案の削減幅の大きさには否定的であったが、個別の議案に関して、民党と同様の意見となることも多かったようである。真辺将之「議会開設前夜における保守党中正派の活動と思想」、「帝国議会開設後の保守中正派―中正日報における言論活動―」が詳しい。

 

補足~無産政党~

1882年5月、後に森本藤吉として独立倶楽部(第2回総選挙後)、溜池倶楽部所属の衆議院議員となる樽井藤吉らが、平等を掲げて東洋社会党を結成した。同年10月、自由党最左派の一部が、無産階級を組織する意図もあり、東京の鉄道馬車開通によって自らの生活に危機感を抱いた人力車夫らを組織した。車会党(または車界党)と呼ばれるものである。この2つの勢力は弾圧を受け、結成後間もなく消滅した。

 

 

図序-A(①~④):各勢力の財政、議会開設に関する姿勢

各勢力の財政、議会開設に関する姿勢

 

図序-B(①~④):大久保没後の明治政府の実力者

大久保没後の明治政府の実力者

 

図序-C(①~④):参議

図序-C(①~④):参議

 

 

図序-D(⑤):3政党

図序-D(⑤):3政党

 

 

図序-E(⑤):反政府2党の姿勢

※立憲改進党は、大隈が征韓論に対して反対に転じ、また外務大臣に就任したことから、自由統計の様な対外強硬姿勢を採っていなかった。

図序-E(⑤):反政府2党の姿勢

 

 

群雄割拠(①~④):江戸幕府から明治政府への劇的な政権交代は、協力してこれを起こした複数の対等に近い人物達を国の実力者とし、彼らの一部が政党を結成した。その政党も、急速に発展する中で、同様に複数の実力者を抱えることとなった。明治政府側も野党側も、1人の代表者の下に統制がとれるまでに一元化される、あるいはそのような代表者を選出する制度を生み出すだけの時間を、当時はまだ経ていなかった。政権を運営してはいたものの、政党等の組織を組んでいなかった政府側は、その中心であった長州閥と薩摩閥の実力者が、持ち回りで内閣総理大臣を務めた。このようなことから薩長閥政府側の一体化には限界があった。そして薩長閥と野党(自由党系と改進党系の連携)は、どちらか一方が分断されるのではなく、双方が自主的に分解していくこととなる。

 

新与党の分裂(①~④):江戸幕府から政権を奪取した明治新政府の分裂が、日本における政党誕生の契機である。そこには、初めて(あるいは長期間の野党時代を経て)政権を取った新与党が分裂することが多い(日本社会党、日本新党、日本社会党、民主党)という、第2次大戦戦後日本の政党政治の傾向との、類似性が見られる。

 

帝政ドイツとの差異政界縦断(①②④⑤):明治政府の分裂は、新興国が直面しやすい手順の問題による分裂であった。例えばドイツ帝国の成立過程には、統一(上からの改革による国民国家化)→自由化、または、自由化→統一という手順の問題が議論となった(実際には強国化への早道だといえる前者となった)。日本は自由化が現実的な課題となる段階になかったから、自由化先行に該当するのは、大久保らが留守政府を尊重することを含む集団指導体制の下での強国化であった。そして統一先行に当たるのは、ごく少数(大久保)への集権による強国化であった。自由化が、政府側の内部の次元に矮小化され、全国的な自由化、その次の段階である民主化が、副次的なものとなっていたのである。このため、自由化を求める「初期段階の野党」は、上(政府離脱者)と下(豪農商層)の合流によって誕生したのである。

 

政界縦断(①②④⑤):土族の多くが明治維新により苦しい立場に置かれる中、その士族の一部が明治維新の中心にあるという特殊な構図の影響により、まずは特定の層、つまり士族の利害を代弁する勢力としての野党が、上(政府離脱者達)と下(野にあった士族)の結合によって形成されるという、後の政界縦断、つまり立憲政友会、立憲同志会の結成に至る動き、そして第2次大戦後の与党離党者と野党による合流と類似性のある、政党の形成が見られた。

 

帝政ドイツとの差異(①②④⑤):ドイツ帝国の皇帝は、大日本帝国の天皇に比して政治性が強く、ドイツの帝国宰相は、多元的(天皇が権力を行使するような事態にならない限りは分権的な)な政治体制下にあった大日本帝国憲法下の日本の総理大臣に比して、皇帝と一体的であった。従って、皇帝を全面的に支持しながら、宰相を批判するのは困難であった。これに対して日本では、天皇を批判せずして、総理大臣を批判することが容易であった。例えば、侍補グループ(天皇側近)等の有司専制批判がこれにあたる。つまり在野の勢力が、天皇に反抗せずに倒閣を策すことが、ドイツ帝国に比して容易であった。

 

1党優位の傾向(①②④⑤):上記のドイツ帝国との差異から、薩長閥政府には、政権交代によって下野する可能性はあるものの、非常に低いという、いわば優位政党と似た面があった。かつての藩士が主導権を握っていながら士族を犠牲にするという構図も、優位政党が、その包括性の高さゆえに、自らの支持者を犠牲にした政策を立てることがあることと類似性がある。このことは、優位政党に対抗する野党が、優位政党を離脱した不満分子を含むことによって(あるいはその主導によって)、展望を見出そうとする、要因の1つだといえる。

 

野党に対する懐柔、切崩し帝政ドイツとの差異(②③⑥):明治政府の基盤はまだ万全とはいかず、個々の有力者に依存するところが大きかった。このため在野の、反乱を起こさずに国民の共感を得るような主張をする、かつての明治政府の有力者達を、一方的に押さえつけることは難しく、妥協が試みられた。そして、明治政府離脱者が懐柔されたのだといえる。与党にとっては、野党(の一部)を味方として縛り付けるために、野党にとっては、自らの虚栄心を満たすために、あるいは妥協によって得た成果を分かりやすく示すことなど、自らの利益のために、政策よりもポスト等を重視した駆け引きが見られた。それは野党が利害の実現のために、下から独自に形成されたわけではなかったから、起こり得たのだといえ、この傾向はその後も残る。ドイツ帝政期の国民自由党にも、同様の傾向が見られたことがある。ドイツ帝国は多くの領邦や都市の連合体として誕生し、イギリスや日本よりも、近代化が大きく進んでから、現在の政党に近いものが誕生した(イギリスでは政党の発展がドイツよりも早かった)。そのため政党が、多様な地域や層の利益を代弁する利益団体の性質を強く持った(カトリックを各層ひっくるめて代表する中央党は、ドイツ帝国を主導する領邦であった、プロテスタントのプロイセンに対抗しようとした。中央党以外の政党は、この中央党と競合する形で分立していたといえる)。このため誕生した諸政党の統合はほとんど見られず、これが帝政下における政党内閣の実現を阻み、議院内閣制のワイマール憲法下においては、政治が不安定になる要因となった。国民自由党を見ると、自由主義政党でありながら、強権的な面を持つ政府と組んで閣僚ポストを得るなど、日本の民党と類似する点もある。異なるのは、大資本を支持基盤とした同党の議席占有率が、有権者層の多数を占める地主層を支持基盤とした明治期日本の自由党と比べて小さかったために、自らと規模の面で匹敵する政党が多数ある状況下、政府(宰相)との交渉力が弱かったという点である。

 

(準)与党の不振(⑤⑫):立憲帝政党は、薩長閥政府の要人達から支援を受けたと考えられる。しかし、彼らが自ら結成した政党ではなかった。彼らが直接政党の結成に乗り出さなかったのは、国民(有権者となるべき層)からの支持において、民党に対抗する自信がなかったため(※)、そしてそのような状況下、否定していた議院内閣制への端緒を自ら開くことを避けるためであった。薩長閥政府は結局、政府との関係を強調しようとした立憲帝政党を、解散に追い込んだ。そして自由党が一度解散しながらも再結成の目途を立てるなど、勢いを増す中、第1回総選挙に向けて戦略を一致させることをしなかった。薩長閥政府が第1回総選挙に関する方針を明確にしないことで、政府を支持していたか、政府側の支援を受けた当選者達も、立場を明確にすることを避けるか、明確にすることに失敗するのである。

※井上毅傳記編纂委員会編『井上毅傳』史料篇第三501頁、井上毅が1891年に記した自説に次のようにある。

外交ノ關係ハ暫ク之ヲ置テ論セザルヘキモ内地將来ノ爲ニ亦甚タ危險ノ情㔟アリ現ニ今二十三年國會ノ議員ニ撰擧セラルヘキハ人物ヲ安産スルニ鹿兒嶋山口土佐熊本等数縣ヲ除ク外大抵所謂改進党ノ人ニ非サルハナシ若シ試ニ政府ニ政府ニ反對スルノ思想ヲ以テ計畫セハ窮民多キハ攻撃ノ爲ニ無雙ノ兵器ナルベシ卽チ歐洲ノ佛國ノ大變革及近時ノ社會黨ノ逐年猛烈ナルヲ以テ引証トスヘキノミナラス彼耶蘇教ノ初メテ起リテ一時ニ羅馬ノ末世ニ傳布シタルカ如キモ亦的例トナスベシ

必ずしも制限選挙における民党の勝利を予想したものではないが、その勢いが薩長閥政府支持派を上回っていると井上が考えていたことは間違いない。

 

2大民党制(⑤)~3大政党の出発とそれらの差異~

 

野党の2択(⑤⑥⑧⑪⑫):民党を率いていた、かつての薩長閥政府の要人は、強硬姿勢によって影響力を示すことで、権力を得ようとした。議院内閣制でなかった大日本帝国憲法下の民党(野党)は、権力の監視によって評価を高めても、総選挙によって政権を得ることは期待できなかった。そしてもちろん、政権に迎合しても、有利な条件でこれに参加できるわけではなく、自尊心が満たされるわけでもなかった。だから政権を得るためには、そのような道しかなかった。影響力の誇示は、薩長閥との、相互の歩み寄りを可能とした。しかしそれにも時間はかかった。そして薩長閥を、彼らが権力を明け渡すまでに追い詰めることは容易ではなく、さらに時間もかかる。そのため自由党系と改進党系の2大民党は、薩長閥に接近(そして将来の政権の委譲を期待)するか、(長期戦を覚悟して)強硬姿勢によって政権委譲に追い込むか、その双方の道を視野に入れた。そしてこの2つの方法は、それを使い分けるか、その間を迷走する傾向を、当時の2大民党に持たせた。後述するが、改進党系の優位に立つ自由党系は、2つの道の使い分けに成功するようになり、非優位となる改進党系は、迷走を続けることとなる。

 

(準)与党の不振(⑥⑧⑨):中心的人物達個々人の力に依存する面が強かった明治政府は、中心的人物でありながら政府を離脱し、国民の支持について残留者に優っているとも見られた者達を、一方的に弾圧することはできなかった。このため、アメとムチによって離脱者→民党を弱体化させる必要があった。総理大臣となった黒田が大隈を留任させ、後藤を入閣させたことには、自治党系、改進党系、大同倶楽部系(の一部-後藤象二郎系-)との連立政権とは呼ばない連立政権のようなものを形成しようとした面がある。つまり民党陣営、そして自治党構想に応じる非薩長閥勢力を、政府支持勢力に加えるか、せめて敵に回さない、挙国一致に近い内閣が目指されたのである。この手法は、民党の勢いを一時的に削いだ。しかし民党は、失うものがあまりない一方で、状況を変化させない限り得るものもあまりなかったから、強固であった。こうして、駆け引きという手法に全面的に頼ることができず、国民からの支持において離脱者に対抗することも困難であった薩長閥政府は、超然主義の立場を(改めて)明確にし、民党を協力的になるように追い込もうとした。そして自らの支持派の組織化を犠牲にした。なお、薩長閥政府を内部から改良するという後藤象二郎の言い分は、55年体制崩壊後、自由民主党を離党して復帰する議員等の言い分と類似性がある。これがどれほど効果的なものなのか、過去の例を分析して検証する必要がある。

 

野党の構成(①④⑦):自由党では激化事件が起こった当時、上層部と、上層部の意向によらず激化事件を起こした層との間の溝は、顕著になった。しかし同党は、1度の解党を経たとはいえ、やがて持ち直した。むしろ民党にとっての問題は、指導者層が個人として、政府の懐柔策の対象となっていたことであった。民党では、このような懐柔に応じるかどうかという、明確な意思統一は行われなかった。民党指導者の周辺は、独自に動く指導者に対して、常に指導者として認めながら見守る以外になかった。また当時の日本の民党には、内部における権力者とその追従者という以上の、明治政府に参加していた党指導者層と他の党員という、出自に関する大きな差異があった。それは党に動揺をもたらすことがある一方、外部から党首を迎えることに対する抵抗感を弱め、担がれた党首-実権を握る(握ろうとする)幹部層-その他の党員という構成が、多々見られる状況を生んだと考えられる。また、世襲のリーダー達を非世襲の実力者が支えるという、1990年代後半以後の自民党と類似性があるように思われる。

 

離党者の性質1党優位の傾向(⑧):政府を離脱した元参議の入閣は、現代の、自民党離党者の自民党との連立(→復党)などと、一定の類似性があるといえる。このようなケースでは、政策合意があることも少なくないが、離脱(離党)した原因が解決されたのか、明確な見解が当事者から示されることは少なく、政界内外からの不信が高まる。自らの権力を武器に他者を懐柔したり切り崩したりして、自らの優位性を強めるというのは、優位性の再生産である。個々に有力な人材を得ることは当然、自らの強化にもつながる。

 

外交に関する主張(⑧~⑩):対外強硬姿勢、弱腰外交批判が喝さいを浴びることは、よくある。内に強く、外に弱くならざるを得ない場合が多い新興国において、その政府を国内でたたくには、自由主義、民主主義的要求よりも、弱腰外交批判の方が、愛国心を求めるような権力者にとっては厄介である。政府が中央集権化を進め、欧米の大国に追いつこうとしていた日本において、このような外交批判は、民権、国権両派が一致し得るような、政府批判の一つの柱となった。

 

野党に対する懐柔、切崩し連結器(⑧)~民党からの入閣~

 

(準)与党の不振(⑧⑫):黒田内閣への入閣の順序に注目した場合、井上馨は大隈、後藤よりも遅い。もちろん、薩長閥の井上と、大隈、後藤の入閣を比べることはできない。それでも、また自治党構想が薩長閥で認められていたわけではなかったとはいえ、自らに近い順に取り込む時の対象は野党であり、自らの支持派となり得る勢力を最優先としない点が、すでに表れているという面がることには注目すべきである。

 

離党者の性質野党第1党の分裂(⑨):旧自由党系三派(大同倶楽部、大同協和会→自由党、愛国公党)の中心となった河野広中、大井憲太郎、板垣退助は、後に自由党~立憲政友会を脱する。この当時の、民党統一の難航には、彼らの不一致が影響した。この不一致は、政策面によるものではなかったといえる(大井―大同協和会→自由党―は他の2派より明らかに左であったが、それは難航の要因ではなかったといえる)。このため、政策面に劣らない頻度で岐路にさしかかる党略、その背後にある党内の権力闘争に関して、彼らの動きは後に度々、自由党系に一定の動揺をもたらすこととなる。

 

(準)与党の不振(⑫):井上馨の自治党構想は、超然主義を採る薩長閥の内閣を、政党を基盤としたものに改めて、その支持基盤を薩長閥内外において強化しようとしたものであった。もちろん参加者には一定のレベルを求めるもので(制限選挙の下では、参加者をそのように限定しても、直接不利にはなることはない)、自らが切り捨てた薩長閥政府支持派形勢の。仕切り直しという面を持っていた。このため当然、薩長閥政府内では賛成が広がらなかった。また、井上馨が長州閥の要人であったことから、薩摩閥から警戒された。これらのことには、薩長閥政府の、政党等に関係する不統一の問題がすでに表れている。薩長閥政府と野党の合流は、双方の陣営に、そもそも相手を認めていない者も含めて反対派が多く、ほぼ不可能であったといえる。また、薩長閥の一部の者が政党をつくろうとすれば、他の者が警戒する。似たことは野党にもあり、板垣外遊批判、大隈外交批判には、民党の薩長閥への接近の難しさが表れている。従って可能性があったのは、政府の一部と野党の一部が漸進的に結びつきを強くし、彼らが、所属する勢力において主導権を握るという方法であった。つまり、丸ごとの連携を連想させにくい方法である。例えば、野党系の要人を入閣させることには、大きな反発は起こらなかった。野党を丸ごと政府に加えたわけではなかったからである。自治党構想に関わり、その限界を見た陸奥宗光は、部分的且つ漸進的な政界縦断の動きを進めることとなる。この部分的な連合の動きが起こりやすいのは、薩摩閥、改進党系に比して、一体性よりも「群雄割拠」の度合いが強く、そのような意味で姿勢が確定的でなかった、長州閥、そして自由党系であった。確かに薩摩閥においても、松方正義と他の多数派の財政志向に関する差異があった。しかし、松方は軍人主導の色が強い薩摩閥では特殊な存在であり、また、薩長閥政府の積極財政を否定するのではなく、抑える役回りを果たしていたに過ぎない。松方と他の人物が並び立つという形にはなっていなかった。改進党系も、大隈の影響力が強く、その下には群雄割拠というところもあったが、それが浮上するのは1900年代に入ってからだ。

 

1党優位の傾向:薩長閥政府に対する野党の反抗には、後の、優位政党、つまり立憲政友会、(優位政党とまでは言い難いが)吉田茂を党首とする自由党の系譜、自由民主党に対する野党の姿勢と、類似性がある。それは、政権交代が困難であることから、政府側との駆け引きによって多少の成果を得たり、耳触りは良かったとしても、実現性は低い政策を掲げたりする点においてである。また、与野党間の本格的な競争がない中で、優位政党の中に、さらに優位派閥ができる点も、共通している。薩長閥では長州閥優位の傾向が強まるし、野党でも自由党系が優位にあることが多くなる。優位政党であった時の立憲政友会は、基本的には原敬主導であった。第2次大戦後の優位政党における優位派閥は、自由党系の官僚派、自由民主党の田中派の系譜、そしてその地位を奪った森派の系譜である。薩長閥政府と民党の差異が本質的なものではなかったため、民党の側には、議院内閣制(少なくとも自らの行政への参加)を除けば、薩長閥政府の基本姿勢を本来は容認せざるを得ないにもかかわらず、問題点を探して批判、反対をする、非現実的な野党という面があった。これは1党優位下の日本の野党に、しばしば見られる特徴である(自民党と理念、政策について大きな差異があった社会党ですら、事実上そうであったと言える)。