日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
昨日までいた陣営をけなして見せる玉木代表

昨日までいた陣営をけなして見せる玉木代表

民主党系の、左派と右派のどちらが悪いなどという話は、さかのぼれば切りがない。だから玉木らは大人になって、立憲民主党との合流に参加し、そこで自らの主張の実現に努めるべきであったと思うのだ(彼らの主張の良し悪し、そうなれば良かったと筆者が思うかは別の話だ。筆者の理想を言えば、皆合流して、対立感情抜きに、柔軟で真摯な議論をすべきであったと思う。それができないのなら合流せず、一定の合意事項を基に選挙協力をするにとどまっていれば良かったと思う)。

玉木らも合流に参加していた場合、彼らは新立憲の党内で、そこまで劣勢になってはいなかったと思う。泉立憲新代表は、実際には意外と左寄りの面もあるようだが、泉らとも、旧国民民主党系としてまとまっていれば、無所属から参加する保守的な面のある議員もいたのだし(彼らも左傾化していたとか、希望の党参加者と感情的なわだかまりがあるとか、そういった事はあるとしても)、右派が左派に対してそこまで劣勢になる事はなかったと思うのだ。泉ではなく玉木が、立憲の代表になっていた可能性すら、ないわけではない(そのためには、総選挙における立憲の敗北が必要であったわけだが)。

なお、ここではあえて右派、左派という分け方をし、国民民主党出身者を、社民系の中での右派と捉えたが、実際は複雑である。本来の左右の別は、伝統、経済に関するものである。社民系の中で言えば、どこまで競争、格差を認めるか(どうやって、どれだけ是正するか)という差異である。国防が中心になるのは、日本の特殊な事情による(戦前の弾圧とその体制が導いたとも言える悲惨な戦争、敗戦。ただし今の価値観でその是非を論じる事もできない。戦後のGHQによる教育を含む洗脳だとする見方もある)。ここではこの、日本的な分類に基づいて述べたが、経済政策については、(今のところ)積極財政志向がより強い、玉木らを左派とすべきだ。玉木は旧国民民主党時代、旧立憲が消費税の時限的な引き下げ等に消極的だとしていた(それ自体、玉木の差別化戦略であった事も否定はできないものの、枝野は確かに慎重であった)。しかしその当時から、立憲には積極財政志向の議員もいたし、党外ではれいわ新選組が、積極財政をうまくアピールしている。新立憲内で、玉木らが劣勢になるとは限らなかったと思うのだ(その後、立憲が積極財政路線に明確にシフトしたことを見ても)。

長くなってしまったが、この話はもういいと思っている。小選挙区中心の選挙制度下では当然の事として、左派野党が合流に動いたはずが、合流前と同じ党名、同じ代表の政党が事実上残っているという状態は良くないと思うが(立憲、国民、社民という、合流に動いた3党と同じ党名の政党が、同じ代表で存在するという事は、分かりにくく、馬鹿らしい)。しかしもう過ぎた事だ。

問題は総選挙後だ。国民民主党は、国会における左派野党の枠組みを抜けて、合同ヒアリングにも参加しない姿勢を示した。いや、これも良い。国会における左派野党の枠組みとは、本来は全野党の枠組みであり、そこから、彼らが嫌う維新を排除したに過ぎない(※)。合同ヒアリングについても、決定権がなく、政権・与党に従うしかない官僚を、つるし上げるだけのものだと、批判する事もできる。

※ 維新の足立康司が、不必要にきつい言葉も用いて、国会で民主党系批判ばかりするなど、民主党系に排除されるだけの理由が、維新にもあった。国会での質問は、野党が提出した法案がめずらしく審議される場合などを除けば、現状では、内閣に対する質問等をする場であり、野党は何を言われても、反論する機会が基本的にない。維新の主張する自由討論を導入するのが良いかどうかというのは、また別の問題である。導入していないのだから、マナーを守るべきだ。なお筆者は、1党優位の日本では、野党同士の過度な対立は、優位政党を利するだけだと考える。そちらの方が有害だと思っている。

 

しかしそれでも、国民民主党が他の左派野党と、距離を取ろうとしているのは間違いない。合同ヒアリングについても、自民党が野党の追及から逃げるばかりで、問題の改善に向き合っていない事に起因しているのだから、開催に反対するとしても、別の方法を提案すべきだ。合同ヒアリングは、自民党に数で太刀打ちできない野党が採れる、自民党政治を監視するための限られた手段だと言える。省庁レベル、官僚機構全体の影響力だって、弱いわけではない。

合同ヒアリングとは別の方法を提案する事こそ、対案重視、解決重視ではないのか。「代案はないが、やりたくない」と言うのなら、その分謙虚であるべきだ。優位政党を利することをして、誇らしげにしているというのでは、さすがに危うい。国民民主党の姿勢が国民に評価されれば、万年与党の政治を監視する手立てが失われる。まさか、検察や報道に全て任せていられるはずがない(そう言わなければならないほど、状況は深刻だ)。

 

国民民主党の玉木代表は、総選挙の前から、左派野党と距離を取り始めてはいた。新立憲の結成に参加した中村喜四郎の、投票率を上げる運動(10%アップを目指して、有権者に賛同の署名を求める)への参加を拒んだり、2016年(旧国民民主党時代)には結んだ、市民連合との合意も避けた。総選挙前には、首班指名投票(岸田が初めて指名されたもの)において、枝野立憲代表に投じなかった(前年には投じていたのに)。とは言っても自民党の岸田総裁に投じたわけではないし、政党の姿勢として理解できる面もある。

だが、総選挙後になると玉木代表は、国民民主党の独自性を重視するというより、反左派野党の立場を濃くしたのであった。ネトウヨ的なネット番組では、左派野党の陣営を、あからさまに批判するようになった。そのような番組に出る事はそれまでにもあったが、玉木は左右関係なく、誰と共演しても、相手が喜ぶ事を言っていた(と筆者は思う)。右寄りの発言をするとしても、異なる立場の人々に配慮するような発言をしていた(どちらかが100%正しいということは稀だし、間違った意見があるとしても、それが生まれた背景があるのだから、そのような玉木の姿勢は、良識的であるとも、当然のものであるとも言える。しかし左右双方から叩かれると、玉木は述べていた。筆者には玉木が調子が良いだけだとも、あるいは流されているようにも見えたから、玉木を批判する人の中には、筆者と同様の思いを抱く人もいたのではないだろうか)。それがついに、「つき物が取れた」という表現まで飛び出した。これにはネトウヨは大喜びだ(主語をネトウヨとしたのは、本当の保守ならば、安易に信用しないと思うからだ。実際、そのようなコメントも目にする)。

しかし、大喜びしたネトウヨが、選挙で国民民主党に投票するだろうか(自民党の変化に不満を持ち、その岸田内閣の退陣、最右派の台頭を願っているなら、自民党に投票しないというのも考えられなくはないが、右翼的な、国会議席ゼロのミニ政党も、投票先として参院の比例区等に存在している事がある)。かつてネトウヨから支持されていた次世代の党は、比例で1議席も得られなかった。これはネトウヨの総数が少ないからだとも考えられるが、次世代の党は保守層全体でも一定の支持は得ていたと思う。あそこまでひどい結果になったのは、次世代の党に好意的な人々の比較的多くが、選挙では安倍自民党に投票していたからではないだろうか。彼らが例え今、岸田総理を好まなくても、自民党には今も安倍がいる。優位派閥とも言える、最大派閥のトップとして存在している。そんな状況下で彼らが、わざわざ左派陣営出身の国民民主党に投票するだろうか(国民民主党は中道右派の有権者も狙っているのだろうが、そこでは、勢いを増し、国防等を除いて左にもウイングを広げようとする、維新と競合する)。

この玉木の姿勢について、どうしても考えてしまう事がある。今の姿勢が本来の姿勢であるなら、玉木は長く、国民を欺いていたことになる。所属政党と考えが同じである必要はないが、玉木は考えが違う事をかなり隠していた事になる。もし、今、正気に戻ったのだと言うのなら、正気でない状態で、一定の議席のある政党の、党首をしていたことになる。なかなかひどい話だ。

思い返してみると、玉木が総選挙の前、共産党を全体主義だと言って、事実上の撤回に追い込まれたのは、【かたよらずに相手が喜ぶ事を言う傾向】と、【総選挙前後の傾向】の、ちょうど中間のようだ。玉木は、【日本共産党は全体主義だ】から、【日本共産党は全体主義とは違う】へと、ごく短期間でシフトした事になる。玉木代表の釈明は、【共産主義が全体主義と密接なものだという認識を持っていたが、歴史的にあった共産党と、日本共産党を同一視したことを改める】という内容のものであった。これは、表現の仕方が良くなかったという話ではなく、認識を改めたものだと言える。日本共産党を全体主義ではないと認める形となった。そんな事なら最初から、共産党の問題点を挙げるにとどめるべきだった(冷静な指摘は有意義であるし、建設的なものなら、自民党を有利にするという事もあまりないはずだ。共産党に良い刺激を与えるかも知れない)。

しかも玉木ら新国民民主党も、共産党が候補者を降ろすべきだという立場だ。総選挙前までの要人達の発言を見ていれば、そうだとしか言えない。

自分達は共産党を批判し、共産党に選挙区を譲ることはせず、「候補者は降ろしてくれるといいのにな」というのは、思うのは自由だとしても、さすがに人の道に反する(民進党、旧国民民主党の場合でもそう思うが、今の国民民主党の支持率や規模ならなおさらだ)。それなら維新のように、共産党と戦って見せる方が潔い。「共産党よ候補者を立てろ、戦おう」、「共産党よ2党で議論しよう」と言うのなら(維新もそこまでは言わないからこそ)、たとえ共産党に否定的であっても、筆者は国民民主党を評価できる。

国民民主党は、共産党に一部の選挙区で候補者をおろしてもらえないことになってしまい、それでも議席を増やすという結果になったとたん、左派野党の枠組みから離れる事を宣言した。しかし増えたと言っても3議席である。さらには、玉木、古川元久、岸本周平(小選挙区当選者5名のうち3名)が、共産党候補に降りてもらっていることは確かだ。共産党が、勝てないから候補者を立てなかったという面が、ないとは言わない。しかしそれだけであるはずがない(勝てないという事なら極端な話、どこでも勝てない)。確かに彼らは、共産党の全部が乗ったと考えても、それ以上に大きく票を増やしてもいる。選挙区の一般の有権者の共感を得たか、上述の通り、連合が必死になったと考えられる(もちろん、その両方という事もある)。しかし、本来共産党に入れる人の票ももらっているはずだ。共産党が立てないからこそ、当選の可能性が(さらに)高まり、それがまた票を呼んだという事もあり得る。

 

立憲以外なら誰でもいい、国民民主党→

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