2.キーワードで考える日本政党史

第1章 ~1890年7月、第1回総選挙~

① 選挙制度

選挙権は直接国税を年15円以上納めた25歳以上の男子、被選挙権は同様の30歳以上の男子にあり、小選挙区制であった(214の1人区の他に43の完全連記制―定数と同じ数の後者に投じる―の2人区の計300議席)。華族の当主、現役軍人には選挙権も被選挙権も、宮内官、裁判官、、収税官、警察官等の官吏、神官、僧侶、教員には被選挙権がなかった。受爵していた民党の指導者等は、選出され得なかった(板垣は当初、受爵を固辞しようとした)。有権者は全人口の1.1%ほどであった。有権者の大部分が地主か富裕な自作農であった。また貴族院は、成年皇族男子(通常は欠席)、25歳以上の公、侯爵全員(軍人は欠席)、25歳以上の伯、子、男爵の各5分の1まで(それぞれ互選、任期7年)、内閣の上奏による終身の勅選議員(30歳以上、勅選議員と多額納税者議員の合計が有爵議員の総数を超えない人数まで任命可能)、30歳以上の多額納税者の15分の1(互選、任期7年)によって構成され、爵位は、このために伊藤によって導入されていた。

 

② 選挙結果と立憲自由党の結成

立憲自由党131、大成会85、立憲改進党43、無所属41、計300(第1回帝国議会開会当日)

第1回総選挙は、野党(民党)が過半数を上回る結果となった。分立していた自由党系は、総選挙前の合流を果たせなかったものの、総選挙後に庚寅倶楽部を結成することを決めていた。そして、総選挙後の1890年7月に、連合体の九州連合同志会から、1つの団体となるべく改組された九州同志会が主張していた、民党の大合同に動いた。しかし、共にかつての代表者を閣内に送り込んでいた、大同倶楽部と立憲改進党との間の溝が特に深かった(大隈は辞職していた。以前後藤は、閣内で大隈外務大臣の条約改正交渉を批判した)。大同倶楽部後藤系は板垣らとの合流にも消極的であったが、多数派は孤立を恐れたか、合流に積極的であった。立憲改進党では、島田三郎、箕浦勝人が合流に積極的であったが、尾崎行雄は否定的であった。立憲改進党は、「自由主義」とされた新党の主義について、に「改進」の2文字を加えることが受け入れられなかったことなどから、合流への不参加を決めた(党名には当初、双方を含まない「代議政党」が考えられていた)。こうして自由党系3派と九州同志会のみによって、1890年9月、立憲自由党が結成された。その趣意書には「改進」の文字があり、党名にも予定されていた「立憲」の文字が残り、立憲改進党との決定的な決裂を回避する意図が見えた。選挙後(議会開会前)の7月、集会条例に代わる集会及政社法が公布され、政治結社、政治集会が認可制から届け出制となったものの、屋外集会の規制等が新たに加わった。

 

③ 大成会の結成

伊藤博文の娘婿であり、現役官僚(内務省、8月に辞任)として当選した末松謙澄ら、薩長閥政府寄りの無所属議員達は、1890年8月、中立の無所属議員等と会派、大成会を結成した。同派は薩長閥政府(の人物)とのつながりが明確になるような、自治党系(具体的には陸奥系)等の参加を避け、中立を掲げた。

 

④ 国民自由党の結成

元来他党派との合流、つまり立憲自由党の結成に否定的であり、後藤象二郎の入閣によって特殊な立場となった、大同倶楽部、合流後の立憲自由党を脱した後藤系の議員が、九州の国権派であった福岡の玄洋社、熊本国権党(1889年1月結成)と1890年12月、国家主義的な国民自由党を結成した。彼らは大成会との合流を策していた。しかし大成会の一部が乗っ取りを警戒したことから実現できず、独自に正式な旗揚げを行った。

 

⑤ 衆議院の制度と議長選挙

1890年11月、第1回帝国議会が招集された(通常回、~1891年3月)衆議院の制度は政党を無視するものであり、政党等の議会での姿である会派は公認されていなかった。議員達は抽選により部(各委員会の委員を選ぶなど、院の運営の基礎となる組)に分けられることとなっていた。正副議長については、議員の3名連記による投票における上位3名から(3名が過半数を超えるまで決選投票が行われる)、1名を天皇が選ぶこととなっていた。ただし天皇は常に1位の者を任じていく。よって第1回帝国議会では、自由党の中島信行が議長に、大成会の津田真道が副議長に選出されたということができる。結果的には、第1会派が議長を、第2会派が副議長を出す形となった(中島は大成会、陸奥系の票を得る一方、立憲自由党の東北系、九州派の票を得られなかった可能性がある。決選投票では、立憲改進党が大成会の津田に入れた可能性がある-伊藤之雄『立憲国家の確立と伊藤博文』35-36頁-)。

 

⑥ 立憲自由党の分裂と予算案の成立

2大民党(野党)は、薩長閥の積極財政(実際には、第1次伊藤内閣から大蔵大臣を務めている松方正義らが、支出を抑える方針を採っていた)そのものを否定せず、官吏の人員削減、俸給削減を中心とした行政整理により、政府の予算案を約1割削ろうとした。しかしそれは憲法第67条に抵触した。同条は、憲法上の大権に基づく既定の歳出、法律の結果による、または法律上政府の義務に属する歳出は、政府の同意なく廃除、削減できないという内容であり、官制上の支出はこれに該当するとされた。大成会の予算削減案は、官制に立ち入らなかった分だけ削減幅が小さかった。ただし大成会全体が官制改革に反対であったわけではなく、自由党の鈴木重遠の官制改革に関する上奏案の提出賛成者の過半数は、大成会の議員であった。政府と民党の折り合いがつかない中、大成会の天野若円が提出した、憲法第67条に関わる予算削減については、議決前に政府の同意を必要とするという動議が、立憲自由党の土佐派、後藤系(井上角五郎等)等から賛成者が現れたことで、可決された。これに関し2大民党は、両院を通過した後に同意を求めれば良いとする立場であった(天野案は、民党にとって不利なものであった。しかし各院が個別に政府の同意を求めることは、予算案の先議権が衆議院にあることから、予算案が、野党の強い衆議院と内閣との交渉の上で貴族院に送られることとなり、貴族院が埋没する可能性があった。第1回帝国議会では時間の都合上、そして政府寄りが多数派であったことから、貴族院は予算案の審議をまともに行う時間すら得られなかった)。

立憲自由党は、後藤逓信大臣・陸奥宗光農商務大臣の切り崩し工作を受けていた。採決の前後、立憲自由党からは、予算案が不成立となった場合の国外の評価に対する懸念、政府による懲罰的な衆議院の解散に対する不安、切り崩し工作によって、多くの議員が離党した。議員達に比して、院外の党員に強硬的な者が多かったこと、その院外の影響力が強い党の組織に対する不満も、離党する議員が続出した要因であった。また、この採決の前に大成会の佐々田懋が、削減幅を大きくし、立憲自由党の中軟派(土佐派、後藤系とは別に妥協を策した新井毫らであり、後に一部が自由倶楽部へ)に近づけた案を、立憲自由党からも提出賛成者を得て、提出した。しかし、大成会の賛成者の約半数は、小幅な削減が地価修正を招くことを恐れる東北系であり、大成会自体がまとまらなかった。そもそも自由党案に削減額で負け、地主層を喜ばせる地租軽減とは結びつき難いものであったから、有権者の負担軽減を望んではいても、その立場上、また東北系を含んでいたことからも、大成会は憲法第67条を争点とする以外になかった。

地価修正が行われた場合、地価が上がって不利益を受ける可能性のある東北地方選出議員の一部(福島県選出の大成会所属議員の大部分)は1891年11月、中立会派、東北同盟会を結成した。もしも地価の低い地域に合わせて、他の地域の地価を引き下げる場合、歳入は減る。そのようなことを政府が容認する可能性は、何らかの取り引きがない限り低く、地価修正は、低地価地域の議員には負担増となる可能性があった。東北地方の選挙区から選出された議員達は、民党の求める地租負担の軽減が、地元の地価の引き上げ、つまり事実上の地租引き上げにつながることを警戒する必要があるという、特殊な立場にあった(地租の負担軽減が、地価修正による負担増に勝れば、全体では負担減とはなるが)。立憲自由党離党者の多くは愛国公党系(≒土佐派)であり、彼らは1891年2月、自由倶楽部を結成した。吏党に加え、このような立憲自由党離党者の賛成により、予算案は、削減費目を政府に委ねた上で、2大野党の求めた削減幅を約2割小さくする修正が加えられた末、成立に至った。

※特に、村瀬信一「「吏党」大成会の動向」参照。

 

⑦ 協同倶楽部の挫折と大成会の分裂

自由倶楽部は、立憲自由党が党改革に動いたこともあって、中立の立場を採り、次第に自由党と接近する。しかし、彼らと同時期に自由党を離党した議員の中には、国民自由党と同じく大同倶楽部系(後藤系)であった井上角五郎のように、政府寄りの姿勢を明確にした議員達もいた。彼らと大成会、国民自由党、他の国権派が社交団体として1891年3月、中央交渉部が結成された。しかし大成会には、中立を志向する議員達(例えば京都府の公民会系-高久嶺之介「明治憲法体制成立期の吏党」-)、国権派に主導権を握られることを警戒した元田肇のように、合流に否定的な議員達もいたこのため、協同倶楽部は単なる社交団体として、見切り発車的に結成されたのであった。そして参加者達は、出身母体と協同倶楽部に両属する形を採った(ただし国民自由党は9月に解散)。議員以外に党員を求める政社化には、末松謙澄、香月恕経ら九州、愛知、奥羽、島根、広島の衆議院議員40余名が賛成、坪田繁、田中源太郎ら京都、岡山、東京の衆議院議員20余名が反対、元田肇、箕輪鼎、佐藤昌蔵ら10余名が中立であった。

合流に否定的な大成会員は協同倶楽部には参加せず、つまり大成会の専属に留まり、同会両属派に対して両属を認めない姿勢を示した。これによって、両属派の多くが大成会専属に戻り、協同倶楽部は解散、志向の異なる両属派(事実上の復帰者)を受け入れた大成会自体も、まとまりを維持できなくなった。1891年11月、民党の勢いを前に、これに寄った専属派の一部が大成会を脱して、自由党中軟派の一部などと民党寄りの巴倶楽部を結成した。さらに同月、吏党の展望に悲観的になったと思われる両属派の一部も大成会を離脱して、独立倶楽部を結成した。独立倶楽部は、巴倶楽部と同様に、中立を掲げていた大成会本来の立場を継承する立場を示したが、一致点があれば民党とも連携する姿勢を示した。大成会(残部)は、薩長閥政府寄りの色が強くなった。

※特に、村瀬信一「「吏党」大成会の動向」、高久嶺之介「明治憲法体制成立期の吏党」参照。

 

⑧ 第1次松方内閣の成立

議会対策の難しさに動揺した山県総理は辞任を決め、1891年5月に第1次松方正義内閣が成立した。同内閣では、議会対策、民党対策、報道対策のための閣外への意見表明等の一致を担う政務部が設置され、陸奥宗光農商務大臣が部長に就いた。これは、伊藤が自身の系列の陸奥を内閣の要職に送り込んだものだともいえる。しかしその権限が、閣僚の答弁、政府系報道、機密費を管理するものとなることから、影響力が削がれることを危惧する内務省等からの抵抗が大きく、陸奥が部長を辞任し、頓挫する事態となった。

松方総理は、先の予算削減によって生じた余剰金を、軍拡等に充てる方針を採った。これを地租軽減に充てるべきだとする野党は、当然反発した。第2回帝国議会(通常会、1891年11~12月)は、限られた範囲における、積極財政と消極財政の争いが繰り広げられたのである。また一方で松方は、府県監獄費国庫支弁によって地方税を軽減し、地租軽減を要求する野党(民党)に対抗しようとした。立憲自由党を脱して協同倶楽部に参加した末広重恭主筆の『国会』は、地租軽減は大地主豪農を肥やすのみだとして、同じ主張をしていた。軍拡、治水事業を最優先とする山県は反対したが、配下の品川弥二郎内務大臣はこれに呼応せず、政府寄りの議員をまとめようとした。このような状況下、民党が、軍艦製造費等を含めた大幅な削減を求め、1割近く削減する査定を加えたことから、予算案は成立せず(監獄費国庫支弁も不成立)、松方総理は衆議院を解散した。そして制度上、前年度予算が執行されることとなった。これは予算案が成立しなかった場合の保険のようなものであったが、財政規模が拡大していった当時の日本において(物価も基本的には上昇していく)、予算案が前年度と同じものになるのは、政府にとって痛手となった。

なお、第1次松方内閣は、鉄道を国有化するため、そしてその財源を得るために、私設鉄道買収法案、鉄道公債法案を提出した。自由党は、同内閣の下での国有化に反対、立憲改進党、巴倶楽部、独立倶楽部も反対した。大成会と自由倶楽部は賛成したが、法案は否決となった。ただし、第2回総選挙後の第3回帝国議会において、内容を変更し、さらに衆議院で修正、名称変更されたものが成立した。

 

⑨ 立憲自由党の改革と自由倶楽部の復党

分裂に動揺した立憲自由党は、自由倶楽部と同じ土在派であり、かつての党首としての人望があり、離党届を提出していた板垣を総理(党首)とした。この動きを主導した星は、板垣の権威の下、立憲自由党を衆議院議員中心の党とする改革を進め、党名をも、自由党と改めた(板垣の党総理就任前)。このこと、自由、改進両党が候補者調整のための前職優先の原則を決めるなど、第2回総選挙に向けて連携を強め、勢いを見せたこと、選挙区で反発を受けていた議員もいたことから、衆議院の解散後、自由倶楽部の大部分が復党した。また、党改革を主導した星亨は、その影響力をさらに強めた。立憲改進党では1891年12月に大隈重信が、空席となっていた総理(党首)ではなく、代議総会長という、党首に準ずるような地位に就いた。

 

⑩ 伊藤の新党構想(1)

衆議院の解散後、伊藤は大成会を母体とする新党の結成を上奏したが、政府内でほとんど同意を得ることができず、実現しなかった。

 

 

補足~貴族院会派~

三曜会、月曜会:共に近衛篤麿ら有爵議員によって、1891年3月に、前身が改称する形で結成された。野党的で、研究会とは対立関係にあった。

研究会:1891年11月、同志会(木曜会が改称したもの)を中心に結成された準与党的会派。伯、子、男爵の互選を有利に運んで力をつけ、勅選、多額納税議員の参加者も増え、結成時からの第1会派の地位を不動のものとした。

 

 

図①-A(③~⑦):与野党の別

図①-A(③~⑦):与野党の別

 

 

図①-B(⑧他):薩長閥と民党の位置関係
図①-B(⑧他):薩長閥と民党の位置関係
財政の許す限り積極財政によって富国強兵策を進め、列強と対等に振る舞うことのできる国家を築くことは、薩長閥、民党が共に目指すところであった。そのためには、朝鮮半島をおさえるなど、東アジアで優位に立つことも必要であった(左上の位置)。
しかし、薩長閥は政権担当者として外交政策に制約を受け、民党は支持基盤となった地主層の望む地租軽減を唱えるようになり、不可避な点についてのみ、それぞれ図の右上、左下に移動した)。
薩長閥政府が消極財政志向となれば、見かけ上は、民党との距離は近づく。しかし節減した費用を、薩長閥は軍拡やインフラ整備に、民党は地租軽減に充てようとしたように、実際にはそうとは限らない。ただしこの問題が浮上すると、民党は対外硬派でありながら、薩長閥より軍拡に消極的にならざるを得ず、薩長閥が軍拡に力を入れることで、実際には東アジアに進出し、列強と渡り合うことを目指していることが浮き彫りになる。超然主義を唱える主体でもなく、自由民権運動の主体でもなく、外交を担ってもいない中立、無所属は、中心への移動が容易であった。なお、関税自主権の回復は関税の引き上げによる税収の増加につながるから、積極財政、または(あるいは規模によっては同時に)地租軽減を可能とする。

 

 

図①-C(⑦・第2章):吏党の姿勢

図①-C(⑦・第2章):吏党の姿勢

 

 

選挙制度の影響(①②):有権者が人物本位で選ぶ傾向が非常に強かったこと、政党の組織化が不十分であったことに加え、支部の設立が禁じられたことから、大政党(または、ある程度評価されていれば与党)に有利だという小選挙区制(多数代表制)の特徴は、結果に表れなかった。また、この制度のために政党の統合が進んだということも、特になかった。薩長閥政府は野党を抑える手段を、治安法制や衆議院の力を限定する議会制度に求めていた。民党が衆議院の過半数を制したことで、薩長閥と民党の対立は、こう着状態に陥る可能性が高くなった。だから双方が大局観に立って、協力関係を築くことの必要性も高まったのだといえる。薩長閥が民党に政権を譲るという方法もあったが、それが採られるとは考えにくく、それによって貴族院が民党寄りとなるかも、不透明であった。

 

野党の勝利(②):日本では選挙は与党に有利である場合が多いが、当時は事情が異なっていた。民党の唱える地租負担の軽減は、有権者の多くを占める地主層の利益となるもので、特に自由党系は長い運動の歴史を経て、多くの選挙区で有権者に根を下ろしていた。薩長閥政府の強権性に対する批判も根強くあった。それに対して、薩長閥は政府寄りの候補者の擁立、組織化に、一体となって積極的に動かなかった。負けを見越してのことではあったが、野党をより有利にしたという面もある。またこのことは、薩長閥政府支持派と見られたくはないが、政府寄りだという、曖昧な議員が多く誕生する要因にもなった。だがそれでは、政府の安定的な基盤とはなり得なかった。薩長閥政府は総選挙における勝利をあきらめ、超然主義を採りつつ政党を抑え、また協力させようとしていた。それには政治の停滞の回避を訴える、または衆議院の解散等によって野党を脅す、解散を繰り返して野党を弱体化させる、野党を買収するなどして切り崩すという方法があり得、また実際に採られる。

 

1列の関係(②):総選挙は野党の勝利であったが、同時に立憲改進党の、自由党系に対する劣位が明確となった。その原因は、同党が自由党系ほどの、長期間かつ全国的な運動によって形成されたわけではなかったこと、批判を招いた大隈外交を支持したことにあると考えられる。そして同党は、野党再編における自由党系の主導を許し、一大野党に参加するかどうかを、選ばされたのである。

 

(準)与党の不振(②③④⑦):薩長閥政府の一致した関与がなかったために、個々に総選挙を戦って当選した政府支持派は、他の無所属議員などと会派を結成した。その中には、単に民党とつながりがないというだけの議員達もいた。帝国議会開会時には中立会派は存在していなかったが、その芽は大成会の中にあったのである。政府を明確に支持するべきか、その超然主義に応じて中立的な立場を維持するべきか、あるいはそのような理由によらず中立であるべきかという点、そして政党化の是非について、大成会の内部はまとまらなかった。無所属議員の多くは、程度の差はあるものの政府寄りであったと考えられる。しかし薩長閥政府の超然主義は、無所属議員が積極的に政府を支持しづらく、ポスト配分等について恩恵を受けることも、期待しづらい状況をつくった。また、薩長閥政府自体の一体性が弱かったことは、政府を明確に支持する議員達でさえ、どの政府実力者につながっているかなどという立場の違いにより、一体化しづらい状況をもたらした。また、中立的な勢力が国権派(を含む吏党系の勢力)との合流に積極的になれない傾向は後々も見られ、1905年の大同倶楽部、その後継の中央倶楽部の結成まで、非民党勢力の弱体化の一因としてあり続けた。なお、国民自由党は、薩長閥政府が後藤象二郎を閣内に取り込んだことで、自由党系切り崩した勢力であったが、自由倶楽部、吏党系の会派の系譜と同様、薩長閥政府に重要視されたとは言い難い。同党の生き残りは結局、対外硬派、つまり野党となってしまった。

 

第3極(③):第1回帝国議会が開かれた時、衆議院には立憲自由党と立憲改進党という2大民党の会派(弥生倶楽部と議員集会所)と、薩長閥政府寄りの院内会派であった大成会が存在した。他に会派は存在しなかった。つまり薩長閥と、互いに協力関係にあった2大民党が激しく対立する中、第3の極は存在していなかったのである。元来自由党系に比して穏健であり、議席数が比較的少ない第3会派を形成していた立憲改進党も、強硬的な野党となったから、第3極であったとすることには無理がある。民党と対決する薩長閥政府側の大成会を、第3極であったと見ることは当然できない。しかし3大会派のうち、唯一政党を基礎としていなかった大成会を、第3極であったと見る方が、特に衆議院内だけを見た場合、自然だという気もしなくはない。大成会は非民党系議員が、理念、政策等を詰めずに広く集まったものであり、まとまりに乏しかった(民党と縁がなかったというだけの議員、民党系の合流に反発した議員―稲田雅洋『総選挙はこのようにして始まった』-265頁-もおり、全員が必ずしも反民党的であったわけでもなかった)。その内部には、薩長閥政府支持派、中立派、そして民党に近くなっていく、あるいは民党に属していなかったものの、民党的であった議員達がいた。つまり、後に第3極を構成する吏党系、中立、新民党が、つまり第3極の芽が、薩長閥寄りの吏党的な勢力の内に含まれていたのである。大成会と並立した協同倶楽部に参加したことにも表れているように、国権派にも、薩長閥側の戦線に加わる勢力があった。民権よりも国権を優先させるという点では近かったのだし、薩長閥政府の外交が国権派から見て軟弱に過ぎなければ、それは自然なことであった。

 

第3極(準)与党の不振野党に対する懐柔、切崩し(⑥⑦)~予算成立後の衆議院~

 

政界縦断(③⑥⑧):大成会は中立を掲げつつ、政府に政費節減を求めることもした。集会や出版など、民党ほどではないが規制を緩める動きもしている(主に末松謙澄。第2回帝国議会の解散もあり実現しなかった)。このように同派は、強固な政府支持派に握られていたというわけでも、全てが頑固な守旧派というわけでもなかった。もちろん地主層が有権者の多数派であれば、大成会の議員達の選挙区にも、地租軽減を求める声があって不思議ではなかった。同時に大成会は、薩長閥政府の超然主義に応じて、政府の方針を、少なくとも民党の主張よりは政府が受け入れやすいレベルで示し、政府を補い、自らも存在感を示すべき会派であったともいえる。つまり、一定程度の政費節減は必要であり(実際に政府内においても、その必要性を認める声はあった)、各勢力はその幅を巡って対立したということとなる。だから第1回帝国議会の最大の争点は、政費節減の程度の問題となった。政費節減が真の対立軸となるには、大きな政府か小さな政府かという問題について、政界の主要勢力が立場を異にしなければならない。節減による余剰金の用途が争点となった第2回帝国議会では、その状況が、限定的に出現した。しかし富国強兵策を放棄することが難しかった当時の日本は、そのような対立軸が本格的に形成される状況にはなかった。野党の「政費節減」は、薩長閥政府から権力を奪取するための大義か、(それが地租軽減にまでは結びつかずに終わったとしても)同志、有権者に示す戦利品とするべきものに過ぎなかった。このような状況は、政界縦断を可能とするものであった。

 

2大民党制(③⑥⑧):政策的な差異に乏しい2大民党の協力関係を決定的なものにするには、薩長閥と民党の差異は小さすぎたといえる。衆議院内に限れば、吏党と民党の政策的な差異は、薩長閥と民党のそれよりさらに小さかった。また、国権派と民権派(民党)には、薩長閥と民党と同様、理念上の差異があったが、対外強硬姿勢を採っていた点では近かった。余剰金の使途が問題となったことは、積極財政志向の吏党と消極財政志向の民党との相違を拡大する契機となり得た。しかし、薩長閥政府が地租軽減に同意する可能性が非常に低く、従って地租軽減実現の可能性も非常に低いことが明確になったことで、むしろ、自由党系の積極財政へのシフトを促すこととなった。

 

1党優位の傾向(③⑥⑧):薩長閥と民党、民党間の政策的な差異が乏しかったことには、民党が責任ある立場における経験を、積めずにいたことにも原因があると考えられる。行政はおろか、立法においてすら、責任のある立場にあると、彼らが自覚しにくい状況にあった。民党が法案を提出したところで、彼らがまだ基盤を得ていなかった貴族院を通過しないため、成立に至る可能性は非常に小さかったからである。このこと、政権交代の可能性が低い状況は、野党を単なる反対勢力にしてしまう。五十五年体制以降の状況と類似性があるところだ。野党が稀に政権を得た時に、行き詰まる所以である。

 

優位政党の分裂野党第1党の分裂(④⑥)~自由党系の分裂~

 

第3極キャスティングボート(⑥⑦)~第3極が起こした変化~

 

(準)与党の不振(⑥⑦⑨):薩長閥が自由倶楽部を含めた離党者達を政府寄りとするために、積極的に動いた形跡は見当たらない。薩長閥政府寄りの姿勢を明確にした離党者達を、既存の政府支持勢力とまとめ上げる努力も、薩長閥政府はしなかったと考えられる。つまり議員レベルの動きに任せ、迷走する様子を傍観していたのである。井上角五郎は、当時総理大臣であった松方正義に、政府支持派の取りまとめについて何度も報告している。そこでは松方が井上にではなく、井上が松方に協力を求めている(1891年10月から11月の松方正義宛井上角五郎書簡にある、総理大臣であった松方正義への井上角五郎の書簡の数々において、井上は衆議院における政府支持派の動向について細かく報告し、協力を求め、時にはその窮状を訴えている)。確かに井上毅が指摘した(『伊藤博文関係文書』一427~428頁)通り、政府が自らを支持する議員をまとめ上げることに積極的であったとしたなら、反発が起こり、薩長閥政府支持派を含む会派の議員数がむしろ減っていたという可能性はある。しかし姿勢を明確にすることは、それを公然と主張することを必ずしも意味するのではなく、(超然主義をある程度犠牲にして)目減りを食い止める方策を採ることは、権力を握っていた薩長閥にとって、可能であったのではないかと思われる。また、積極的に動くことで状況が整理され、薩長閥政府にとって満足のいくものではなかったとしても、次の選択肢が浮上していたかも知れない。薩長閥政府が採った、政党間競争の分野における民党との勝負を放棄するという方針は、衆議院の、そして同院を押さえる民党の影響力を目前にしても、変化を見せなかった。当時は、予算案が成立しなかった場合の安全装置が存在した。それは政府が前年度と同じ予算を執行するという制度である。しかし、政府の予算規模が拡大していった当時、それは効果的なものではなかった。

 

政界縦断(⑦):薩長閥政府と民党の政策的な差異は、その理念というよりも、立場に基づくものであったということができる。薩長閥でも民党でもない第3極は、政権を担っていたわけではなく、また民党のように、自由民権運動等の運動を担った組織の集合体ではなかったことから、そのような立場による制約を、比較的に受けにくい勢力であった。つまり図➀-Bの対立軸の、中央に移動することが容易であったと考えられるのである。もっとも、対立軸の中央に移動し得る勢力が、薩長閥と民党という2大勢力の展望なき対立を、即座に解消できるわけではない。中央に移動し得る勢力に、そのような動機がなければならないし、2大勢力が呼応しなければならない。そのような展開への道筋は、第1回総選挙以前にある程度つけられていたが(序章野党の懐柔、切崩し連結器(⑧)参照)、この当時はまだ、機が熟していなかった。

 

第3極(⑥⑦⑨)~膠着状態を打破する勢力~

 

帝政ドイツとの差異(⑥⑦):日本と同様に政党内閣制を採っていなかったドイツ帝国には、多様性を持った社会に応じた多数の政党があったが、独立倶楽部等のような中立的な勢力は存在しなかった。ドイツでは諸政党の政権に対する支持、不支持が明確であり、政党が政府に対する姿勢を変えることはあったが、それは各党個別の、政府との政策やポストを巡る取引きによるものであった。下院に非政党内閣を支持する多数派が形成されることが多々あったという点で、政治の停滞を度々免れた一方、政党同士の本格的な再編による強化、政党と、行政の中心部を担う経験を持つ有力者達との再編は起こらなかった。同国の政党の強化を阻んだ要因であった小党分立状況、その原因はいくつもあったが、日本の政党のように、政権を主体的に担う段階へ到達できなかったことが、政権安定のための再編、与党に対抗するための再編を進める動機を、政党に与えなかったということは否定できない。政権を目指す政党にとっては、あるいは政党内閣を求める立場から見れば、悪循環に陥っていたという面があるのだ。

 

(準)与党の不振(⑩)~伊藤の初の新党構想に対する反発~

 

帝政ドイツとの差異(⑩)~都市と地方、商と農~

 

政界縦断キャスティングボート1党優位の傾向(⑥⑨)~縦断の停滞と土台形成~