日本人はなぜ政権を選び取ることができないのか、考え、論じる
 
第10章 ~1908年5月、第10回総選挙~

第10章 ~1908年5月、第10回総選挙~

立憲政友会7増の187議席(過半数まであと3議席)、憲政本党17減の70議席、大同倶楽部30減の29議席、猶興会7減の29議席、無所属は64(選挙前は16)、計379議席。

※会派の離合集散に関して、個々の議員の動きについては、『中小会派の議員一覧』参照

本章以降でも立憲政友会の離党者達が結成した自由党を、以前の自由党と区別するために「会派自由党」とする。

 

①選挙結果

日露戦争のための増税によって有権者数が2倍以上に増え、人口の約3.3%となっていた。与党の立憲政友会は、野党であった前回とは異なり、憲政本党と連携しなかったが、与党として利益誘導ができる強みも活かして議席を増やし、過半数が視野に入った(実現すると離党者が続出していた1902年12月19日以来。立憲政友会は結成時に過半数を上回っており、選挙ではなく、この離党の動きで失っていた)。開発が比較的遅れており、憲政本党系がなお強い東北地方で議席を増やした。政界革新を主張する勢力が都市部で健闘する一方、憲政本党はほぼ全面的不調であり、衆議院の定数の5分の1を下回った。大同俱楽部は半分以下となった。総選挙前に会派自由党系が大方離れており、旧帝国党+無所属系となっていたところ、その無所属系で水増しした部分の多くを失った。それでも吏党系として見れば、帝国党結成前後と比べ、まだ議席は多かった。無所属の当選者は、定数の3分の1に迫った第9回総選挙と比べると半分強だが、第9回総選挙は立憲政友会から大量の離党者が出て、その多くが無所属となっていたために多い。第10回総選挙ではそれが従来の水準に戻った。なお、1907年9月の衆議院の補欠選挙では憲政本党、大同倶楽部、猶興会の共闘が実現していたが、立憲政友会の候補に敗れた(第9章第3極(準)与党の不振1列の関係(⑧)~吏党系と民党系の接近~参照)。

 

②第1次西園寺内閣の総辞職

元老の山県有朋が、第1次西園寺内閣の社会主義者に対する取り締まりが手ぬるいと上奏したことから、同内閣は1908年7月に総辞職した。前月には赤旗事件が起こっていた(補足参照)。西園寺政友会内閣は、穏健なものは認めることで、過激な勢力、行動の発生を抑えるという姿勢であったが、以後は社会主義運動だけでなく、労働運動に対する弾圧も強まる事となる。第1次西園寺内閣総辞職の背景には、不況下における同内閣の経済運営への不信もあった(第9章⑩参照)。西園寺は後継に桂太郎を推薦した(元老にも反対する理由はなかった)。総選挙で大勝した与党が、総選挙後の帝国議会を一度も経験しないうちに、薩長閥に寄って引きずりおろされたに近い、内閣交代劇であった。

 

③第2次桂内閣の成立

1908年7月に成立した第2次桂内閣は、以下の内容を含む政綱を打ち出した(※)。不偏不党、不平等条約の改正(相手国の合意が必要な協定関税制を廃止する、関税自主権回復)、鉄道院、鉄道特別会計の設置(逓信省鉄道局の独立)、拓殖務省の設置、日英同盟・日露協商の維持、移民問題の解決(アメリカ合衆国に移民した人々の帰化権の獲得、南米への移民)、清の変乱に備える事、社会政策(貧困対策と教育)によって社会主義の勢いが増すのを防ぐ事、軍備の維持(国力の伸張に伴う完備)、普通教育の完成・実業教育の奨励(地方の有力者の上昇期待に応えようとする、高等教育機関拡充重視の立憲政友会とは異なる―『日本歴史大系』四近代一1078~1079頁―)、行財政整理、商工省の設置(農商務省の分割)、産業の保護と奨励、産業組合の奨励、判事・検事の増俸。また、事業繰り延べ、募債中止、国債償還増額(結果を見ると、移民問題は別として外交はかなり成功したと言える。鉄道院の設立は実現したが、拓殖務省は独立した省庁ではなく内閣直属の機関、拓殖局として設けられ、商工省の設置は実現しなかった―拓務省は1929年、商工省は1925年に設置される。1910年農商務大臣の下に生産調査会が設けられた―)。消極財政を採り、国債に対する信頼を高めることは、第2次桂内閣の至上命題であった(元老の井上馨、松方正義も強く求めていた)。このことから、桂総理は大蔵大臣を兼務して事に当たった(あえて調整者と当事者を兼ねたという面がある)。第2次桂内閣は、総選挙で利益誘導、税負担の軽減を求める(あるいは増税に反対する)有権者の審判を受ける立憲政友会という政党中心の内閣のようには、有権者を気にする必要がなく、また政党よりは軍部を抑えやすかったから、消極財政には向いていた。実際に軍事についても、消極財政の例外とはされなかった。経済が悪化した状況の下、増税によって利益誘導を続けようとする内閣から、税制を高率のまま維持しつつ、財政を健全化しようとする、消極財政志向(歳出を抑える)の内閣への交代であった。

この第2次桂内閣には、貴族院からは、茶話会の勅選議員が内務、文部、農商務(大浦兼武)、逓信大臣(後藤新平)に、研究会の子爵議員が司法大臣に就いた。桂総理兼大蔵大臣も侯爵議員であった(西園寺も公爵であったので自動的に貴族院議員となっていた―公爵、侯爵は成人であれば、あるいは成人になるとそのまま貴族院議員となる―。桂も西園寺も会派には属していなかった)。同内閣は大同倶楽部、無所属の多く(戊申倶楽部を結成する議員達)の支持を得て、憲政本党の支持も期待し得た。財界の期待もあったし、これだけの支持が得られれば、衆議院の解散によって、内閣を支持する党派の合計を過半数にすることも不可能ではなかった(立憲政友会に対する切崩し工作が有効になる、成功しやすくなる可能性もあった)。同内閣の鉄道政策は、新線の建設ではなく、郵送力を向上させ、植民地等との画一化にもなる、主要幹線の広軌化を重視するものであった。この点で、地方への利益誘導を重視する立憲政友会とは相容れなかった。

※徳富猪一郎編『公爵桂太郎傳』坤巻343-356頁。

 

④戊申倶楽部、又新会の結成

戊申倶楽部は、1908年11月に、第1次西園寺内閣の積極財政に批判的であった、無所属の実業家の議員等が結成した会派で、財政整理、税制整理を第2次桂内閣に期待していた。一方猶興会(同志研究会系)の河野広中は、非政友会の大合同を目指していたが、内部からも反対があって進展させることができなかった。花井卓蔵(政界革新同志会)の、主義綱領の拘束を加えず、単に意思統合した代議士の会合にするという提言により、会派にとどまるものとして、猶興会や同派に考えが近い一部の無所属議員によって、1898年12月、又新会が結成された。

 

⑤正副議長選挙と第25回帝国議会期の法案

第25回帝国議会(1908年12月~09年3月)では各会派合意の上、衆議院議長に第1党であった立憲政友会の長谷場純孝(九州改進党出身)、副議長に第2党であった憲政本党の肥塚龍(立憲改進党出身)が選出された。両者とも、進歩党に属していたことがあった。全院委員長、各常任委員長は、懲罰委員長に戊申倶楽部の江間俊一、決算委員長に又新会の小川平吉が就いた他は、入党者により過半数に達した立憲政友会が得て、憲政本党が1つも得られない形となった。次の第26議会では、第18議会以来久々に、立憲政友会の独占に戻った(第19議会は衆議院解散のため、常任委員長の決定に至っていない)。第25議会では緊縮型の色が強い予算案、公債価格の引き上げを狙った、国債の利子所得税免除に関する法律案(解決策にならず、国債保有者、金融機関の利益になるだけ、地方債が影響を受ける等の理由を挙げ、憲政本党と又新会が反対)、帝国鉄道会計法案(第24議会で建議が可決されていた特別会計化)等の、内閣提出法案が成立した。予算案には各会派とも、基本的には賛成であった。憲政本党と又新会は織物消費税、通行税、塩専売の3税廃止法案を提出した。これに対して立憲政友会と大同倶楽部は、代わりの財源がないとして反対し、法案は否決された。

 

⑥一視同仁と、第2党以下の内部分裂

桂総理は提携相手を立憲政友会に限らず(一視同仁)、党派が国家の公を忘れれば何度でも衆議院を解散するとした。これは非政友会勢力がある程度まとまれば、そちらと組むのだと、受け取れるものでもあった。しかし1909年1月にも、桂総理と西園寺立憲政友会総裁は互いに歩み寄った。大同倶楽部、戊申倶楽部、そして憲政本党が第2次桂内閣寄りの姿勢を示した。憲政本党では、幹部クラスでは優位に立った改革派が、1909年2月に大同倶楽部、戊申倶楽部との新党結成の方針を決め、双方と交渉を開始した。3党派の合流が実現すれば約140議席となる。これに反対した非改革派の犬養毅が同月、常議員会で党除名となった。非改革派は自らが数の上で優位にあった代議士会を開き、犬養除名を無効とする事を決議した。同派は改革派の行為を、憲政本党のこれまでの姿勢に反して官僚派に降伏する行為だと批判した(『憲政本黨黨報』第3巻7号18頁)。そして3月に臨時党大会を開き、官僚政治の弊害打破、責任内閣制、偏武的政策の矯正、悪税の改廃を決議し、犬養除名の決議に動いた常議員を除名とした。責任内閣制とは、政党内閣の定着、議院内閣制の実現を意味すると言える(慣例による定着ではない制度化には改憲が必要となり、そこには今と違って政党の手が届かない)。改革派が党の分裂状態を深刻化させる犠牲を払ってまで、活路を開くために新党の党首に担ごうとした桂総理はしかし、実際には安易に憲政本党に近づかず、早くも衆議院の過半数に到達した立憲政友会に助けを求めた(この時桂総理は同党の原敬に、自分が大同倶楽部の新党組織の企てと無関係である事、大浦兼武は立憲政友会が倒閣に動くと見ているが、桂自身はそうは思っていないという事を伝えている―『原敬日記』第3巻291~292頁。1909年4月7日付―)。理念、政策について比較的よくまとまっていた又新会も、憲政本党と同様に、分裂状態に陥った。政権獲得を優先し、憲政擁護、責任内閣、3悪税廃止等で一致し得るのなら、なるべく幅広く合流すべきだとする大合同派と、官僚政治打破を強く主張し、大同倶楽部と憲政本党改革派を排除すべきだとする小合同派、純民党組織(小合同)に異議はないものの、合流を時期尚早とする中立派である(宮地正人『日露戦後政治史の研究―帝国主義形成期の都市と農村―』276頁)。そのような中、1909年4月に日糖事件(日本製糖事件※)が発覚し、少なくない逮捕者を出した憲政本党改革派の力が弱まり、同党では非改革派が完全に主導権を握った。

※台湾の製糖業を保護するための輸入原料砂糖戻税法の延長等を求めて、日本製糖が衆議院議員を買収した事件。

 

⑦貴族院令改正

第25回帝国議会で貴族院令改正案が可決され(貴族院の制度に関するものなので衆議院での審議、採決は行われない)、伯爵議員17名以内、子爵議員70名以内、男爵議員63名以内となった(元々それぞれ各有爵者総数の5分の1までで、そこに合計143名以内―勅撰議員はそれより少ない125以内―という制限が加わっていた)。日露戦争によって新たな受爵者が増え、男爵議員が大きく増加したことが、改正の背景にあった(男爵議員が増え過ぎないように枠をはめるという意図)。またこの改正は、第1次西園寺内閣に入閣者を出した木曜会に不利なものであった(同派が男爵議員による会派であったため)。なお、同内閣に入閣した研究会の堀田正養は、第2次桂内閣期に入ってから、研究会を除名された(補足~貴族院会派~参照)。

 

⑧伊藤博文暗殺

1909年10月、伊藤博文がハルビンで朝鮮人の運動家に殺害された。大韓帝国を独立国としては維持しようとしていた伊藤が殺害された事で、韓国併合は避けられないものとなり、1910年8月に併合に至った(韓国統監の曽祢荒助は本来伊藤と同じく併合に否定的であった。曽祢は1910年5月に病のため統監を辞して9月に死去した。後任には山県-桂系の寺内正毅が就いた)。伊藤が立憲政友会の総裁であった時(第1次桂内閣期)に桂総理と合意したことに反発し、同党を離党していた議員のうち、尾崎行雄、小川平吉ら数名が、個々に立憲政友会に復党した(尾崎1909年12月、小川1910年3月)。

 

⑨第26回帝国議会と憲政本党における非改革派の勝利

1909年10月の党大会において憲政本党の2派は、非改革派優位の下で和解した。改革派が犬養除名決議の取り消し、常議員総辞職、評議員選任の一任で非改革派に同意し、官僚派の打破、責任内閣、悪税改廃、文武の均衡、地租軽減を含んだ宣言が採択され、非改革派優位の下、分裂状態が一応は終息した。同等の混乱と非改革派の勝利は桂総理に、立憲政友会との協力関係を復活させる(交互に政権を担当する桂園時代を続ける)以外の選択肢を失わせた。桂総理は、法案の確実な成立のためにも、衆議院の過半数を上回る立憲政友会に接近し、第26回帝国議会(1909年12月~1910年3月)において、税制整理案について妥協し、これを成立させた。立憲政友会には譲歩する事に対する不満もあったが、同党の主張はかなり容れられた。官吏の増俸が内閣案の30%から25%へと抑えられた(立憲政友会の原は、2割に抑えるべきだと桂総理に述べている―『原敬日記』第3巻396頁-1910年1月12日付-)。地租については、内閣案が、市街宅地を20%から2.5%、郡村宅地を8.5%から2.5%へ引き下げ、他は5.5%のままであったところ、立憲政友会がその他の土地を、田畑4.7%(原敬は5.0%で妥協する考えであったが党として4.7%に)、他は5.5%に修正した。立憲国民党、中央倶楽部、又新会はその田畑を4.5%とすることを主張したが、立憲政友会の案が通った。憲政本党は、税負担の軽減なき官吏の増俸に反対し、これを削除する予算の修正案を提出したが、否決された。同じく修正案を出した戊申倶楽部の木村省吾(間もなく大同倶楽部と合流して中央倶楽部を結成)は、官吏増俸に理解を示し、地租軽減も評価しつつ、所得税、通行税の廃減税が犠牲になった事を批判し、増俸は行政整理によって実現すべきだとした。この減税の影響で、桂総理が考えていた所得税の減税が困難になり、撤回された。また第2次桂内閣と立憲政友会との妥協によって、通行税を永久税とする法案にあった市内、準市内のみの通行を無税とする条項が削除された。問題視されていた市内通行税の廃止がこのように削除され、同税は永久税となった。営業税の改正については、減税の度合いも増す、立憲政友会の修正案が成立した。これは市部、実業家層での支持について、郡部、農村部のそれほどには振るわない中、市部、実業家層が求める税負担の軽減に消極的であった同党にとって、その支持を得る力となるものであった。内閣提出法案としては他に、15%だった毛織物の消費税を他の織物と同じ10%に下げる織物消費税法案や、関税定率法中改正法率案も成立した(関税引き上げによって米価が上がる事について又新会が反対した)が、工場法(以前から課題にはなっていた、労働者を保護し、子どもの労働を制限するためのもの)は、撤回された(容易な問題ではないため、調査をして完全なものにしたいという理由)。この第26議会では、立憲政友会が過半数を上回る状況下、第18回帝国議会以来久々に、全院委員長、各常任委員長を立憲政友会が独占した。また、この議会でも普通選挙法案が提出されたが否決された。日向武輝が提出者を代表していた。日向は同志研究会系であったが、同攻会所属後に立憲政友会に復党していた。これも以前と同じく、立憲政友会内で同意を得て提出されたものではなかった。当時の衆議院最左派の又新会には、普通選挙論者もいた。しかし全体で普通選挙制を支持していたわけではなかった。

 

⑩立憲国民党、中央倶楽部結成

1910年2月、又新会から、吏党系等を除く再編を志向する10名が離脱して無名会を結成した。同年3月、大同倶楽部(28名全員)や戊申倶楽部の一部(35名中18名)が合流し、中央倶楽部(53議席)を結成した(戊申俱楽部も解散)。その約10日後(3月)、憲政本党や無名会、又新会の一部が合流し、立憲国民党(92議席)を結成した。

 

⑪大逆事件

1910年5月、天皇暗殺を計画したとして、社会主義者が逮捕された(本章補足~無産政党関係~参照)。この事件を受けて1911年、警視庁に特別高等課が設置された。

 

⑫情意投合

1910年1月29日、桂は立憲政友会の議員を招いた懇親会で立憲政友会を穏健な政党で国家に貢献しているとして、情意投合、協同一致して憲政の美果を収める事を望むとした(一視同仁の撤回)。第2党の憲政本党が、自らの支持派と不支持派に2分され、公社が優位に立つ状況では、衆議院の過半数を上回る立憲政友会を敵に回すわけにはいかなかった。立憲政友会ではなかなか政権に就けないことに不満を持つ者も増えていたが、これによって同党は政権の禅譲をより期待できるようになり、執行部の力がさらに強まった。第27回帝国議会(1910年12月~11年3月)では、非幹部派等の一部議員(原によればそのトップは元田肇)が、衆議院の常任委員の按分比例を改める事(立憲政友会がより多くの委員を出す)と、その党内での選挙を唱え(1910年12月22日付東京朝日新聞、同23日付読売新聞)、全院委員長、常任委員長、各委員候補の党内での選挙が実現した。全院委員長候補を決める選挙では、非幹部派の竹越与三郎が当選した。非幹部派は他の委員長も得ようとしたが、それについては原が自ら予算委員長候補となるなどして、阻止した(『原敬日記』第4巻156~159頁)。一方、全院委員長のポストについて、選定に関する交渉がなかったことに反発した立憲国民党、中央倶楽部、無所属議員は協力して、その獲得を目指すことになった(1910年12月25日付読売新聞)。常任委員長選挙では立憲政友会の竹越が当選した。この第27議会では内閣の、鉄道建設を進める鉄道敷設法中改正法律案や、労働者を保護する工場法案が成立している。朝鮮ニ施行スヘキ法律ニ関スル件は衆議院で承認されなかった。これは朝鮮総督に政令制定権を緊急勅令の形で与えるもので、立法府の立法権を侵すものだと、花井卓蔵(元又新会、当時無所属)らが問題視した。結局、法律を定めて規定する形を採るべく、朝鮮ニ施行スヘキ法令ニ関スル法律案が成立した。大逆事件で逮捕された幸徳秋水が法廷で今の天皇は南朝から三種の神器を奪った北朝だという発言をした(非公開、証人なしで進められたが外部に漏れた)。当時の歴史教科書の記述は南北朝並立であったが、これも問題視された。立憲国民党はこの問題と大逆事件を合わせて政府の責任を問う決議案を提出したが、同党のみの賛成に留まり、否決された(個々の議員の賛否は正式には不明)。結局、南朝が正統だとされた。

 

⑬第2次西園寺内閣成立

関税自主権の完全な回復を実現させた第2次桂内閣は総辞職した。外交は順調であったが、内政については同内閣は苦戦していた。財政状況は好転してきていたものの、余裕はない中、消極財政を採りつつ、鉄道の広軌化は進めようとしていた同内閣は、鉄道の伸延を求める立憲政友会、拡充を求める海軍を前に、広軌化の先送り、海軍拡充を余儀なくされた(それぞれ、特に後者には必要性もあったが)。こうして1911年8月、第2次西園寺内閣が成立した。立憲政友会は桂太郎が望んだ小村寿太郎外務大臣、後藤新平の逓信大臣留任を拒み、第1次西園寺内閣期には総理の他2名であった同党からの入閣は、3名となった(第1次西園寺内閣成立時と同じ原内務大臣、松田司法大臣の他、長谷場純孝文部大臣)。他にも、第1次西園寺内閣よりも親政友会の入閣者が多くなり、政党内閣の色が強くなった。立憲政友会と近かったわけではないが、桂と対立して日本銀行を去った山本達雄(総裁に再任されなかった―『山本達雄』303頁―。その後会派に属さない貴族院議員―さらに後には交友倶楽部―、第2次桂内閣期には桂によって日本勧業銀行総裁となっていた。後に立憲政友会、政友本党、立憲民政党)が大蔵大臣となった。桂が望んだ小村寿太郎外務大臣、後藤新平鉄道院総裁の留任も実現しなかった(『原敬日記』第4巻327~328、332頁-1911年8月26日付-参照)。総理大臣を元老が主体的に決めるのではなく、前任者の推薦を元老が承認するケースが続き、政界の世代交代もより明確になった。ただし総理を辞した桂は、元勲優遇の詔勅によって元老となった(元老は制度化された正式な官職ではない)。第2次西園寺内閣は第1次西園寺内閣の時と異なり、前内閣(第2次桂内閣)と同様に、緊縮財政を採った(なお厳しい財政状況の下、積極財政を展開するのは困難であった。増税も強い反発が予想されるなど、困難であった)。ただし海軍の拡張計画はある程度認めた。このため第2次西園寺内閣は、陸軍との関係が悪化していく。10月には辛亥革命で清朝が倒れた。衆議院議員は任期満了を迎え、1912年5月に第11回総選挙が行われることとなった。

 

⑭予算を巡る攻防と力関係の変化

第28回帝国議会(1911年12月~12年3月)では、入閣した長谷場衆議院議長の後任には同じ立憲政友会の大岡育造(吏党系の国民協会出身)が選ばれた。桂前総理の影響力を配乗するに近い形で成立した第2次西園寺内閣であったが、第2次桂内閣の消極財政路線を継いだ。その第2次西園寺内閣の予算案について、立憲国民党、中央倶楽部からそれぞれ、さらに大幅に削減する修正動議が出された(否決)。内閣が提出した、小選挙区制に移行する衆議院議員選挙法中改正案は、貴族院の反対で成立しなかった。立憲政友会の議員から所得税法改正に関する建議案、立憲国民党から所得税法中改正法律案(財源の明示無し)が提出された。第2次西園寺内閣内閣は次年度に所得税等の負担を軽減する法案を提出するとし、建議案は撤回、法案は否決となった。

第2次桂内閣期成立時と比べ状況が改善する中でも、消極財政が維持され、陸軍≒長州閥山県-桂系、立憲政友会(インフラ整備≒利益誘導政治を志向)が犠牲になる中、海軍≒薩摩閥の要求が比較的よく容れられた。その背景には、立憲政友会(西園寺-松田)が薩摩閥と近くなっていたことがあった。消極財政志向が強い山本大蔵大臣と関係が悪化した原内務大臣は、一時的に立憲政友会、政友会内閣における力が、以前よりは弱まる事となった。

 

補足~貴族院会派~

山県-桂系は、自らに連なる茶話会、無所属(1次)以外の勢力を、切崩した。子爵、伯爵、男爵の、山県-桂系(寄り)でない有爵者を切り崩し、1911年11月の、これらの有爵者の互選(第4回選挙-任期7年-)で勝利した。この互選で、伯爵議員による扶桑会、男爵議員による木曜会は議席を大きく減らした。第1次西園寺内閣期、原内務大臣の策で立憲政友会寄りの議員も増えたように見えた貴族院であったが、野党(準野党とも言えるが)になっていた同党は手も足も出ず、山県-桂系の優位が、決定的なものとなった。選挙の時には桂総理と立憲政友会は協力関係を強めていたが、山県-桂系は、その協力に助けられたこともあってか、自らが政権の中心を担っている時期に、つまり有利な時期に有爵議員の選挙を迎えることができた(加えて、政権を担っていれば、定数の範囲内で勅選議員を増やせる)。なおこの第4回選挙後、貴族院では必要に応じて各派交渉会を開く事になったが、決議で認められた場合は別として、25名以上の団体である事が参加条件となった。

扶桑会:研究会の主流派に対して、特に第2次西園寺政友会内閣に入閣した堀田正養が除名された(※)ことに不満を抱いた同派の非主流派の伯爵議員が、同派を離脱して1908年12月、土曜会(改進党系に近かった)を離脱した伯爵議員、会派に属していなかった伯爵議員と結成した。1911年11月の互選で議席を大きく減らしたため、12月に解散し、一部は立憲政友会系の交友倶楽部に合流、一部は辛亥倶楽部を結成した。

清交会:1910年2月、山県-桂系に切り崩された、あるいはもともと立憲政友会に批判的であった木曜会の一部の議員が、第2次西園寺内閣に入閣者を出した同派を離脱して結成した(よって男爵議員の会派である)。1911年に解散し、一部が茶話会、無所属(1次)に合流した。

辛亥倶楽部:互選で議席を減らした扶桑会の一部が、1911年12月に結成した。

※この事に関して補足すると、原敬は1908年6月4日付の日記に、堀田が、創立時の趣旨に反しているとして研究会を退会する事に決め、25~30名は同志者がいるとした事を記している。この、同志と見込まれた議員の一部が扶桑会を結成したのだろう(『原敬日記』第3巻314頁。扶桑会は結成当初12~16議席)。

 

補足~無産政党関係~

赤旗事件:1908年6月、社会主義者のうちの直接行動派(第9章補足~無産政党~参照)が、「無政府共産」などと書かれた旗を振りまわしたことで乱闘を招き、大杉栄、実際は止めに入っていた山川均、堺利彦らが逮捕された。事件の内容に比して重い判決となったが、幸徳秋水は高知に帰っていたために難を逃れた。しかしそのために大逆事件に巻き込まれる事になる。赤旗事件の後、社会主義運動は穏健化するよりもむしろ、無政府主義者が主導権を握る状態になった。

大逆事件:天皇暗殺を計画したとして、社会主義者が1910年5月に逮捕され始めた事件(幸徳秋水逮捕は6月)。1911年1月に24名が死刑判決を受けた(判決翌日に恩赦で半数は無期懲役に)。又新会の花井卓蔵が弁護人を務めている。社会主義者、無政府主義者を警戒する山県-桂系は特に、その弾圧に積極的であった。これが一部の過激化を促した面もある。幸徳が計画に否定的であったにもかかわらず死刑となるなど、一部を除きえん罪が疑われる。

 

補足~憲政本党の2派~

 

図⑩-A 明治・大正政治・・・1列の関係

図⑩-B 超広義の桂園時代 

図⑩-C 明治末期第3極の政党化

図⑩-D 永遠の1強2弱

図⑩-E 非政友会、再編の規模

図⑩-F 第2次桂内閣期の野党的な勢力

図⑩-G 第3極が官吏党系から実業派・新民党へ?

図⑩-H 各勢力の中心人物の世代交代

図⑩-I 政権によって変化する各勢力の関係 

図⑩-J 無名会結成直前~立憲国民党結成直後

図⑩-K 各党派のスタンス

図⑩-L 第2党の2つの路線

図⑩-M 各党派の財政姿勢

図⑩-N 保守系と自由系の財政姿勢

図⑩-O 桂園時代のビジョン

図⑩-P 大合同と小合同

図⑩-Q 非政友会勢力の再編

図⑩-R 2大政党の姿勢の変化

図⑩-S 又新会内の分化

図⑩-T 大正政変前後の政変

図⑩-U 藩閥、政友会、国民党の関係

 

1党優位の傾向(①)~薩長閥、自由党系が「桂園時代」に求めたもの~

 

(準)与党の不振新民党(①)~熊本県で強い吏党系、九州で弱い新民党~

 

実業派の動き第3極(①)~実業派の決起~

 

第3極新民党実業派の動き(①)~新民党の広がり~

 

新民党実業派の動き野党再編(①)~新民党と実業派の役割~

 

1党優位の傾向離党者の性質(①)~政党を1つ吸収したのと同規模の拡大~

 

1列の関係(①⑩)~改進党系の不振と衆議院1強2弱化の可能性~

 

実業派の動き選挙制度の影響野党再編(①)~重要性を増す市部~

 

野党の2択(①)~議院内閣制ではなかった時代の、第2党における遠心力、1強2弱~

 

(準)与党の不振実業派の動き・新民党(①)~吏党系の多少の広がり~

 

(準)与党の不振実業派の動き・新民党(①④)~無所属議員の変化~

 

実業派の動き野党再編(①④)~戊申倶楽部と野党連携~

 

実業派の動き(④)~政党化の是非①実業派~

 

(準)与党の不振実業派の動き(④)~政党化の是非②吏党系~

 

新民党(④)~政党化の是非③新民党(同志研究会系)~

 

野党再編(準)与党の不振(①④)~非政友会、二重の不一致~

 

1列の関係(②⑥)~2つの優位勢力~

 

野党の2択(③⑤)~憲政本党の2分化を決定的にした「政権交代」~

 

実業派の動き(③)~第2次桂内閣に対する実業派の姿勢~

 

(準)与党の不振(③)~大同倶楽部、弱まった遠心力~

 

(準)与党の不振(③)~2大政党制へと続く、近くて遠い、山県桂-系と自由党系の関係~

 

野党再編(③)~非政友会勢力の旗~

 

実業派の動き新民党(④)~無所属当選者の2分化~

 

野党再編・新民党・実業派の動き・野党の2択(④)~相容れない又新会と戊申倶楽部①~

 

実業派の動き(④⑤)~戊申倶楽部と立憲政友会、他の党派~

 

実業派の動き(④⑤)~戊申倶楽部の野党性~

 

実業派の動き(④)~戊申倶楽部の与党性と内部対立~

 

新民党(④)~同志研究会系の拡大~

 

(準)与党の不振(⑤)~吏党系の財政政策~

 

野党の2択(⑤⑥)~憲政本党の分裂騒動~

 

1列の関係野党の2択(⑤⑥)~優位政党兼野党第1党~

 

野党再編新民党実業派の動き(⑤)~相容れない又新会と戊申倶楽部②~

 

実業派の動き(⑤)~戊申倶楽部の内部不統一~

 

新民党(⑤)~新民党とかつての民党~

 

1列の関係帝政ドイツとの差異(⑥)~山県系の鼎立構想の限界~

 

野党の2択新民党(⑥)~憲政本党の大合同と小合同~

 

新民党(準)与党の不振1列の関係(⑥)~桂寄りが非民主的な存在でなくなる日~

 

新民党(⑥)~又新会の強硬姿勢~:1909年2月5日付の東京朝日新聞は、政府(第2次桂内閣)が各会派に政府委員を派遣して提出議案の説明をさせようと申し込んだ際の、各会派の対応を報じている。それによれば又新会だけが、拒絶することを決定した。非常に強硬的な姿勢だと言える。

 

野党再編(⑥)~憲政本党の2派と政界再編~

 

第3極野党再編(⑤⑥)~再編の矛盾を示す3税廃止案~

 

実業派の動き(⑤)~3税廃止案に対する賛否~

 

野党再編1党優位の傾向(⑤)~支持基盤と税制~

 

野党の2択(⑥)~改進党系、非改革派の下での先祖返りと再編の停滞~

 

実業派の動き(⑥)~戊申倶楽部の新党結成についての賛否~

 

野党の2択1党優位の傾向(⑥)~政党を直撃した日糖事件~

 

野党再編野党の2択(⑥)~野党が左右に裂かれる1強2弱~

 

離党者の性質新民党野党再編(⑧⑩)~伊藤の死と立憲政友会出身者の復党~

 

新民党野党再編政界縦断(⑩)~又新会の2分化と再編の挫折~

 

野党再編政界縦断1列の関係(⑨)~桂に見限れる非政友会勢力~

 

1党優位の傾向1列の関係野党再編(⑨)~再び実業家層に食い込む自由党系~

 

選挙制度の影響(⑨)~減税で有権者の数が減る制限選挙制~

 

新民党(⑨)~薩長閥の社会政策と又新会の左派的な性格~

 

野党再編・実業派の動き・新民党(⑨⑩)~議会が裂く非政友会勢力~

 

新民党実業派の動き(⑨)~生産者か消費者か~

 

新民党実業派の動き政界縦断(⑨)~2大政党制の芽~

 

実業派の動き(⑨)~揺れ続ける戊申倶楽部~

 

1列の関係野党再編(⑨)~優位勢力は薩長閥か自由党系か~

 

野党の2択野党再編(⑩他)~地方で見られた非政友会大同団結~

 

新民党野党再編(⑩)~又新会の分裂、無名会の結成、小合同へ~

 

(準)与党の不振実業派の動き野党再編(⑩)~戊申倶楽部の再編への動き~

 

実業派の動き野党再編(⑩)~吏党系再拡大、中央倶楽部の結成~

 

(準)与党系の不振実業派の動き(⑩)~中央交渉部の復活という面も~

 

野党の2択野党再編新民党(⑩)~立憲国民党の結成~

 

野党の2択(⑩)~形になった野党の2分化~

 

1党優位の傾向(⑩)~さらに膨らむ優位政党政友会の議席~

 

野党再編実業派の動き新民党(⑩)~戊申倶楽部と又新会の議員の行き先~

 

新民党・実業派の動き(⑩)~又新会の解散、揺れる無所属的議員~

 

1党優位の傾向(⑩)~「神聖なる優位勢力」を前に野党がいがみ合う~

 

実業派の動き(⑩)~過渡期の会派、戊申俱楽部~

 

1列の関係野党の2択(⑪)~鉄道広軌化と、政国合流を狙う犬養~

 

1列の関係1党優位の傾向野党再編(⑩)~野党再編と1列の関係~

 

1列の関係野党の2択(⑫)~桂の姿勢が2大政党に及ぼす影響~

 

1列の関係野党の2択(⑫)~立憲国民党の境遇と強硬姿勢~

 

1列の関係(準)与党の不振(⑫、補足~貴族院会派~)~山県-桂系と立憲政友会、上院と下院ですみ分け~

 

1列の関係2大民党制(⑫)~立憲政友会より桂内閣の方が進歩的であるという面~

 

1党優位の傾向(⑫)~現在においても重要な指摘~

 

連結器(⑫他)~すでに役割を失っていた2大民党の連結器~

 

1列の関係1党優位の傾向(⑫)~立憲政友会の横暴/残されている記名投票の結果~

 

野党第1党の分裂1党優位の傾向(⑫)~再編後にも離党者が出る第2党~

 

1列の関係(⑫⑬)~政権譲渡を巡る駆け引き~

 

群雄割拠(⑬⑭)~桂と原の一時的な影響力の低下と薩摩閥浮上の前兆~

 

1党優位の傾向(⑬)~新与党の試練~

 

選挙制度の影響1党優位の傾向・新民党(⑭)~優位政党が望む小選挙区制~

 

野党再編(⑬⑭)~非政友会再編の動き~

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